「鮫岡先輩に告白しないの?」
そう友だちにたずねられたのは、期末試験が終わったばかりのある日の放課後のことだった。中学に入って二度目の冬休みは目前で、部活も休みで、テストが終わった解放感に包まれながら放課後の教室で友だちと何でもないおしゃべりをしていた。
いくつかの話題の後、それぞれの好きな人の話になり、そんな中で友だちの一人がにそう言ったのだ。
その場にいたのはも入れて四人で、みんなが誰を好きなのか知っていた。それでも突然出てきたその名前にが目を丸くしたのは、普段なら三人ともの好きな人の名前が出ると渋い顔をするからだった。
「ど、どうしたの? 突然……」
いつもなら絶対に「告白しないの?」なんて聞かない。「やめときなよ」は言われるけれど。
「この間、先輩が告白されてるの見ちゃってさ。ほら、隣のクラスの――」
鮫岡章治はたちの一学年上の先輩で、この中学で一番怖がられている先輩の一人だ。たちの学年にも不良ぶっている男子はいるが、章治や彼とよく一緒にいる風見仁、上成正人の前では突然大人しくなるほどだった――憧れもある様子だったが。
を含めた普通の生徒にとっては遠巻きにしてしまう存在だが、どうも卒業が近づいて章治に告白する女子が続々と現れているらしい。
「鮫岡先輩、かっこいいもんね」
は何とも言えなかった。見た目がかっこいいことは前々から友だちもよく口にしていた。
「どうせ卒業したら会えなくなるんだし、最後に告白だけでもしてみたら?」
他人事だなぁ……はあいまいに笑った。その日の帰り、一番仲のいい親友が「気にすることないよ」と気づかわしげに言ってくれた時も。そんな気は、さらさらなかった。
冬の昇降口は、そこに立っているだけで吐く息を白く染める。鼻先や耳が冷たくなるのをどこか他人事のように感じながら、は自分の心臓が音を立てて暴れ出したのに気がついた。
下校の時間を少し過ぎていたからか、辺りには誰もいない。校庭には人影があるけれど、声も聞こえないほど離れていた。
カタンと乾いた音を立てて落とされた靴を履く横顔にはっと息を飲み、なんとなく息苦しくなってきた気がする胸元の制服をぎゅっとつかんだ。そんな気はなかったのだ。
「さ……鮫岡先輩!」
自分の声が思ったよりその空間に響き、の心臓はますます不安げに揺れた。
振り返った涼し気な双眸が不思議そうにを見た。何度瞬きを繰り返してもその視線は真っ直ぐに向けられている。
鮮やかな新緑と初夏の空気が学校を満たす頃、中学に入学したばかりのもやっと新しい生活に慣れてきた。新しい友だちもでき、その日も部活の見学のために二人で足早に廊下を歩いていたところだった。
角を曲がったところで、何か硬いものにぶつかり自分の体が後ろによろめいた。転ばずに済んだのは、さっと伸ばされた手が真新しい制服に包まれたの腕をしっかりとつかんでいたからだ。
「悪い」
涼しげな双眸がを見ていた。ほんの一瞬のことだった。何か返す前に、その人はが友だちと歩いてきた方へと行ってしまった。
の腕に、大きな手の感覚を残して。
あの日からずっと、はあの大きな手の感覚を忘れたことがなかった。の心の奥の一番やわらかなところにそれはずっと留まりつづけている。
こうしてに向けられた、涼し気な双眸も。
「あ、あの……」
「何?」
「先輩に、は、話したいことがあって……」
体ごと向かい合ってくれはしたが、「早く言え」と言わんばかりの圧を感じ、かえっては口ごもった。でもきっとこういう状況は最近たくさんあるのだろう――そうふと思えばここで自分が何か言っても大したことではないような気がして、小さくつばを飲み込んだ後、それでも章治に視線を合わせることができずに顔をほんの少し下に向けて、すっと小さく息を吸った。
「わたし……鮫岡先輩のことが、好きです……! つき合って――」
「……いいよ」
欲しいとは思っていなかった。ただ、気持ちだけ伝えられればそれでいいと――本当にそう思っていたのに、聞こえてきた返事には「えっ」と顔を上げた。今、「いいよ」って言った?
いつの間にか章治は履きかえた靴のままのすぐ目の前に歩み寄っていた。その表情はさっきまでと何も変わらなくて、はただただ困惑してたった今告白した、この一年半くらいを片思いしていた相手を見上げることしかできなかった。
「スマホある?」
「あっ、はい」
カバンの奥にしまっていたスマホを取り出した。先生に見つかると没収されてしまうが、相変わらず周りに誰もいないから大丈夫だろう。
何の感慨もなくメッセンジャーアプリの連絡先を交換し合い、のアカウントの友だち一覧に章治の名前が追加された。
「そういえば、名前は?」
「に、二年の……です」
「そっか。じゃあな、」
そもそも帰るところだった章治はそのままに背を向けた。
校舎から外に出れば寒さがますます章治の体を突き刺してきた。
冬休みが近づくにつれて、「卒業前に」と枕詞をつけて章治に気持ちを伝えてくる女子生徒がそれなりにいた。仁や正人は冗談なのか本気なのかわからない不満を章治に向けていたが、章治からしてみれば一々相手をするのはただ面倒で、うらやましがられるような状況でもないと思っていた。
鼻、赤かったな……。
緊張からか少し上ずっていた声と違って、赤く染まった小さな鼻は寒さに負けてしまったからのように見えた。それが何となく目について、気づけば「いいよ」と口にしていた。つき合っている相手もいないし問題はないのだが、今までの断り文句が「そういう気分じゃない」だったのでどうしてうなずいたのか、章治は自分でもよくわからなかった。もしかしたら他の告白を断る理由にしたかったのかもしれない。大人しそうな後輩だった。
スマホのアプリを見れば、“”と先ほどはじめて知った名前が並んでいる。
その小さな名前の響きに、またあの寒さに負けて赤くなった小さな鼻の先が脳裏を過ったのだった。