「何か用事でもあんのか?」
先ほどから何度もスマホの画面を確かめている章治に気づき、正人がノートから顔を上げた。ハッとして顔を上げた章治の目が少し泳いだことに気づけるのはきっとここにいる仁と正人だけだろう。
「別に」
それだけ言ってスマホを伏せて置いた章治の様子がどこか違うような気がするのに、それがどこなのかわからない。親友二人の目がじっと章治を見ていたが、その様子に今度は章治の方が眉をつり上げた。
「それより問題、解けたのかよ」
「うっ……」
目の前には参考書が広げられている。雑然としたこの狭い部屋は正人の部屋だったが、この参考書は章治のものだった。本屋でよく売っている、高校受験用のものだ。「江罵羅商業行くんだろ」とため息まじりに参考書をシャーペンで叩く。
冬休みが終わればあっという間に高校受験だ。章治はそれなりに余裕があったが二人はそうでもなく、頼み込まれてこうして三人で参考書を囲んでいる。
ああだこうだと愚痴をこぼしながら参考書を進める間も結局章治は何度かスマホを手にとってしまった。画面には何の通知もない。自分が何を待っているのか、よくわからない。
「女か!?」
仁が唐突に声を上げた。
「何が?」
「スマホだよ!」
「そういえばサメ、最近よく声かけられてるよな」
「ああ」
「否定しろよ」と二人がうなるように言った。卒業が近づき、章治がよく女子から告白を受けていることを二人も知っていたし、章治もそれを特に隠してはいなかった。何しろ全て断っていたからだ。そう、今日までは――。
寒さで赤く染まった鼻先の、緊張でうつむいた顔がふと脳裏に過った。
結局その日、自分が告白を受けたあの後輩からメッセージが届くことはなかった。
自宅の自分の部屋のベッドの上、スマホをかかげるように持ち上げてメッセンジャーアプリの友だち一覧をはじっと見つめていた。そこには間違いなく章治の名前がある。表示名を「鮫岡先輩」と変更はしたものの、未だに実感がわかない。
ここにメッセージを送れば、本当に返信があるのだろうか? そもそも「いいよ」と言われたのが白昼夢だったような気さえして、は「はあ」と息を落とした。
告白した勢いのままにメッセージを送る勇気はなかった。
それは翌日になっても変わらない。
むしろ翌日以降の方が、が「鮫岡先輩」にメッセージを送る勇気はなくなっていった。学校で章治を見かけても視線が合うことはなかったし、話しかける勇気はなく――章治はほとんど風見仁と上成正人の二人といて、それがを余計に躊躇させた――いつもと変わらない日常があの日のできごとをますます現実味のないものに変化させていく。
やっぱり夢だったのだろうか?
告白は、したと思う――でも「いいよ」と言われたのは気のせいで、他の女子生徒みたいに自分もフラれたんじゃないか。現に、今日もの耳には章治に告白した誰かの話が友だちに提供されていた。
でも、その話によると章治はいつも告白されると「今はそういう気分じゃない」と言って断るらしい。本当かどうかはわからないが、本当ならどうして、自分はそう言われなかったのだろう……。
あの日から、の気持ちに比例するように空はどんよりと厚い雲におおわれ、肌を刺す寒さがぐっと強まった気がした。手袋をしていた指先や、上履きの底から校舎の冷たさが伝わってくる。
友人同士が「おはよう」と声をかけあう中、も顔見知りとあいさつをかわして教室へと向かった。もし章治と顔を合わせたら……と思うとどこか不安な気持ちになったが、その一方で告白の前のように少しでも章治の姿が見られたらいいとも思う。
「」
不意に後ろから名前を呼ばれて、はハッとして振り返ろうとした。
「おはよ」
その前にとなりに立っていた章治が、ほんの少し口元に笑みを浮かべてを見下ろしている。
脳がぴたりと動きを止めて、は一瞬何が起きたのか全く理解できなくなった。瞬きも忘れてマジマジと章治を見上げると、もうあの一瞬見えた微笑みは彼の顔から消えてしまっていた。
「お、おはようございます……」
それでもかろうじてそれだけ返せば、どこか満足したように章治はそのまま去って行った。
あの日告白で「いいよ」と言われたのは、やっぱり夢じゃなかったのだろうか……?
その日は一日ふわふわとしていて、校舎の寒さもすっかりどこかへ行ってしまったようだった。正直、授業もよく覚えていない。ノートを見返せばちゃんと書いてあるのでいつも通り受けたとは思うのだが。
家に帰ってもそのふわふわとした気持ちは抜けず、寝る準備を終えた後、はやっとスマホのメッセンジャーアプリに向き合った。
相変わらずそこに「鮫岡先輩」からのメッセージはない。
「鮫岡先輩」の名前を選び、メッセージ画面を開いてもそこはまだ空っぽだ。メッセージの入力欄に「今日は」とうって、は手を止めた。
今日は――ありがとうございます? それはさすがに変かと思いちょっと眉間にしわを寄せた。「今日は」の文字を消し、別の言葉を打ち込んだ。
この頃、しょっちゅう気にしているスマホの通知音が聞こえた時、正直なところ親友のどちらかからのメッセージだろうと章治は思った。もう寝るつもりで、見るだけ見て返事は明日にするつもりだった。
通知欄には「」という名前がある。
驚いて自分を見上げる大きな丸い瞳と、あの日の赤く染まった鼻先を思い出した。
今日も寒かったが、彼女の鼻先はあの日のように赤くはなかった。メッセンジャーアプリを開けば、「まだ起きていますか?」という文字が並んでいる。そんなはずはないのに、どこか遠慮がちに想えた。
『起きてるよ』
『おやすみなさいって言いたくて』
『今日、うれしかったので』
『迷惑じゃないですか…?』
並ぶメッセージに、頬が緩むのは何故だろう。ベッドに体を放り出し、章治はしばらくそのどこか遠慮がちな文字を見つめた。
『迷惑じゃない』
いつでもメッセージを送っていいと言えば、「よかった」と返ってくる。どこか安心したように。
『先輩、おやすみなさい』
まるっこいフォルムの動物のキャラクターのスタンプと共に送られてきたメッセージに、「おやすみ」と章治はささやいた。