がどんなに気にしても彼はまるで大したことじゃないと言わんばかりにの体を軽々と持ち上げ、ベッドの上に放り出す。は不満そうにブラントを睨み上げた。せっかく起きていたのに。

「帰る時間がはっきりしないことくらいわかっているだろう?」

 呆れた口調でブラントは言った。真夜中を過ぎ、時計はもうすぐ3時になりそうだった。

「任務だったんだから」

 疲れて帰って来てみればコーヒーの匂いとぼんやりと灯が点いた部屋がブラントを出迎えた。それから、が。普通なら喜ぶところだったが、時間が時間だけに喜ぶことはできない。はいつもこうなのだ。
 彼女の仕事ぶりがどんなものか知っているし、自分がいないといつも以上に仕事を詰め込むこともわかっていた。平気な顔をしているが、疲れた顔色を見逃すほどブラントは鈍くなかった。

「待っていたかったの」

 いつもと同じセリフをは繰り返す。ブラントは黙って彼女に毛布を掛けてやった。

「明日も早いんだろう?」
「だって少しでも早く会いたいじゃない?」

 ブラント自身、の顔を見ると任務の疲れも減るような気がしなくもなかったが、目の下にクマを作ってまで待っていてほしくない。倒れるんじゃないかと気が気じゃないのだ。

「僕だって同じだ。だけど無理してほしいわけじゃない」

 「もう寝るんだ」そう言って、ブラントはそっとの目尻に口づけた。

冷たい部屋

 チョコレートの箱の蓋をソファに寝そべったまま少し持ち上げた。友人からもらったそれは、も気に入っている少し高いチョコレートのお店のモノだった。
 ひと粒食べてしまいたい……でも、今日はブラントが帰ってくる日だから一緒に食べたいのだ。きっとそれだけでいつもよりおいしくなるに違いない。
 蓋を戻して寝返りを打ち、チョコレートの箱に背を向けた。幸い、ブラントは諜報員としての任務ではなく分析官としての出張だ。つまり、余程のことがない限りは予定通りに帰宅するはず。

 それでもやっぱり一個くらいは食べてもいいんじゃないか。はちらりと後方を確認した。
 エアコンが切ってある室内は肌寒い。チョコレートを冷蔵庫にしまえばいいのになんとなくそれをしたくなくて、はブラントがいないときはいつものように彼がプライベートでよく着るコートにくるまっていた。

 玄関の鍵が開けられる音がする。帰って来たのだ。は丸くなった。少し眠かった。

「ただいま。?」

 家の中に気配はするのに返事がなくて、帰宅したブラントは荷物を適当に放置するとソファを覗き込んだ。眠っているのかと思ったが、そうではないらしい。
 はいつだって忙しく働いていて、休むということを知らない―― に言わせれば、それはブラントも同じだった―― しかしブラントがしばらく家を空けると、帰ってくる日はどんなに疲れていてもこうしてじっと待っているのだ。先に休んでいたっていいのに。

「おかえりなさい」

 ブラントが思っていたよりもはっきりした声では言った。

「疲れたでしょう?」
「肩は凝ったな。君は? 疲れてるならベッドで休んだ方がいい」
「大丈夫よ」

 ゆっくりと起き上ったがくるまっているものが何かわかっても、ブラントは何も言わなかった。ただ「肌寒いな」とだけ部屋の感想を漏らした。

 荷物を解くのは後にして、コートだけ脱ぐとのいるソファに無理やり座った。起き上ったと言っても彼女はソファの上に乗ったままだったし、ちゃんと座り直そうとは思っていないみたいだった。
 それでもブラントが座れるように少しだけ体をずらし、ついでにチョコレートの箱に手を伸ばす。もらったのだとひと言添えて、は今度こそちゃんと蓋をあけた。

「疲れてるし、ちょうどいいでしょう?」
「お互いにな」

 差し出された箱からチョコレートを1つ摘み上げた。口の中に放り込まれたそれは苦みを持って溶けてなくなった。

「仕事はどうだった? しばらく出張とか任務はないの?」
「今のところは。それに僕がいないと君はすぐに仕事を詰め込むだろ?」
「そんなこと……」

 ないとは言い切れない。は口を噤み、代わりにまたチョコレートを口に放り込んだ。
ブラントは微笑んでが膝にかけている自分のコートごと、を抱き寄せた。足を伸ばしてソファの上に寝そべると、がそれに寄り添ってくれる。

「重くないの?」

 ブラントの上に乗ってしまうことになって、は少し身じろいだ。ブラントのブルーグレーの瞳が優しくを見つめている。「別に」と彼は短く答えた。

「それより寒くないか?」
「チョコレートが溶けるから、暖房をつけたくなかったの」
「冷蔵庫に入れればいいだろ?」
「冷蔵庫に入れたらおいしくなくなりそうで……ウィルは知らないかもしれないけど、すごくおいしいって評判のお店のなんだから。一番おいしい状態で食べたいって思って……」
「先に食べていればいいじゃないか」

 ムッとしてはブラントの口にチョコレートを押し込んだ。そのまま顔を逸らし、ブラントの体の上でふて寝を決め込む。本気でそう言っているところが腹の立つところだ。

? 何を怒ってるんだ?」
「本当に、わかってないのね!」

 ブルネットを無骨な手が撫でる。それでも振り向かない彼女を、ブラントは無理やり自分の方へ向かせた。帰って来たばかりでケンカはしたくない。

 視線が向けられることはない。優しくその名を呼べば、ゆっくりと瞬きをするのが見えた。

「……ウィルと一緒に食べたかったから」

 チョコレートじゃなくてもよかったのだ。偶然もらったから使っただけ。そう言えばブラントが気を遣って「先に休め」なんて口にしないとわかっていた。

 そうすれば、彼とこうして過ごせることをわかっていたから。

「何か……温かい飲み物でも淹れよう」

 口元が綻ぶ。ブラントは一度を抱きしめ、そのつむじに口づけを落とした。自分のコートごとをソファの上に移し、キッチンへ向かったブラントの背中を、はほっとしたように見つめていた。

 今日はもう、先に寝ろなんて言われなさそうだ。

温かい抱擁

 間近での顔を見るとはっきりとクマがある。きっとまた仕事を詰め込んでろくに寝てもいなかったのだろう。命の危険がある任務ではなく、本当にただの出張だったのに。
 飲み物を置いてソファに座り直すと、が控えめに寄り添ってきた。抱きしめると、冷えた体がすっぽりとブラントの腕の中に納まる。チョコレートを口実にするを無理やり寝かすほど冷たくはない。そっと輪郭を撫でると、まるでそれが合図だったかのようにがチョコレート味のキスをした。

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