暖房の利きが悪いのか、無機質な廊下を踏むたびに冷たさが足の裏から登ってくるようだった。吐く息が白くなりそうだったが、ため息を見つめようとしてもそれは決して色ついていない。白衣のポケットに入れた手をぎゅっと握りしめ、はエレベーターの前に立ち止まった。
 下のボタンを押す前に、その小さな箱が到着を知らせる。降りてくる人のために一歩引いたはほんの少し目を見開いた。

「あ、」

 コツンとヒールの音に重なって、聞きなれた声が耳に届いた。

「あら、先生」

 ちらりと動かした視線を戻し、ヒールから自分の名前を口にした赤い唇へと辿る。眼鏡越しの視線がを真っ直ぐ見つめていた。

「八乙女先生……お帰りですか?」

 再生医療センターに勤める八乙女紗衣子が今日はCRに来ていたことはもちろん知っていた。小児科と兼任しているが直接彼女と顔を合わせる機会は少なく、飛彩や、紗衣子と一緒にエレベーターを降りてきたCRの専任のドクターである貴利矢が一緒に仕事をすることの方が多い。

「ええ、先生はこれからCRに?」

 愛想程度に笑みを返して頷いたから隣にいた貴利矢に視線を移し、「それじゃあ」と紗衣子は口にした。

「また明日、九条先生」

 遠ざかる紗衣子の背中を微妙な表情のままはそれが見えなくなるまで見送っていた。となりの貴利矢から少しだけ気まずそうな気配が漂っている。
 もう紗衣子の姿は見えなくなったのだから、振り返ってエレベーターのボタンを押せばいいのには視線を動かすことができなかった。「あのさ、」と沈黙を破ったのは貴利矢だったがそのつづきはなかなか音にならない。

「……また明日って?」

 代わりに音になったのはの言葉だった。また明日……明日は再生医療センターとのカンファはなかったはずだ。

「いや!! 何もないから!!!」
「……」
「紗衣子先生の冗談だって。カンファもないし、普段だって仕事の話しかしないしさ!」
「でも八乙女先生美人だからちょっとドキッとしたんじゃない?」
先生だって美人だけど?」
「……そういうの、ずるい」

 突然まじめに言うなんて。視線でそう訴えるとは貴利矢の肘をほんの少しつねって今度こそエレベーターのボタンを押した。

 再生医療センターのドクターとしてCRと一緒に仕事をし始めてすぐのことだった。たまたま九条貴利矢と一緒にいたところを鉢合わせた女医は、噂や紗衣子が抱いていた印象と違ってとてもわかりやすい表情をしていた。
はクールな美人で、患者の子供たちやその親からの信頼も厚いドクターだと。特に後者について熱く語ってくれたのは永夢だ。彼は研修医の頃、彼女には随分と世話になったらしい。前者に関しては見た目の通りだった。同性の紗衣子から見ても彼女は美人だったし―― 紗衣子とのどちらが美人かという話題が主に男性医師の間でたびたび上がることを紗衣子は知らなかったが―― 表情が少ないせいか、どこか冷たそうな印象を与えた。

 だからこそあの表情の変化が紗衣子にはとても興味深かった。偶然を装って病院の食堂で昼食をとっていたの隣に座った時もの表情をさりげなく観察するほどに。
 お互いにまだそこまで知った仲ではないし、会話はほとんどゲーム病のことばかりだった。彼女はライダーではないけれどゲーム病に関しての知識は豊富で、きっと他のドクターが手術という戦いの中にいる間も彼女なりにできることをした結果なのだろうと紗衣子には想像できた。

「さすがね、先生。ワクチン開発の時、九条先生は随分たすかったんじゃない?」
「えっ?」

 が飲んでいた無料のお茶が入ったカップがカチャンと鳴った。一瞬、あの表情に似た色が彼女の瞳に過った気がして、紗衣子はの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「そんな……九条先生のたすけになるほどじゃ……」
「そうかしら? 九条先生もあなたのこと、頼りにしているみたいよ」

 謙遜しているせいか、は曖昧に微笑んだだけだった。

 結局、の休憩時間の終わりとともに2人の会話は打ち切られた。あの微妙な表情の変化がとても気になる。ほとんど確信にも似た気持ちで紗衣子はが貴利矢に対して何か特別な感情を抱いているのでは? と考えていた。

「あれ? 紗衣子先生どうしてここに?」

 が去った後の食堂でコーヒーを飲んでいると、入れ違いで休憩になったのか永夢がひょっこり顔を出した。

「ちょっとね、気分を変えたくて」

 適当に言ったごまかしでも永夢は素直に信じてしまう。苦笑したかったが、それよりいい機会だ。

「ねえ、宝生先生に聞きたいことがあるんだけど――
「僕に? 何ですか?」
先生と九条先生って、どういう関係なの?」
「どういうって……」
「ちょっと気になって」
先生と貴利矢さんは大学の同期で――
「付き合ってるの?」

 ただの同期というだけなら、あんな表情はしないだろう。

「付き合ってるっていうか……」

 ほんの少し言うのを迷う素振りを見せながらも、永夢は口を開いた。

「結婚してるんです。一緒の職場だからって先生は苗字変えてないんですけど……」
「……結婚?」

 それは夫婦ってこと? バグスターと?

 つい口からもれそうになった言葉を、紗衣子は飲み込んだ。

 あの頃、紗衣子はウイルスであるバグスターを見下していたし、離れて暮らしていたとはいえ実の父の命を奪った存在を嫌悪していたところもあった。だからが元人間であるとはいえ、バグスターである貴利矢と彼がバグスターであると知りながら一緒にいることが理解できなかった。

 同情?
 惰性?
 それとも――

 それとも―― そうではなくて、そのどれも違っているなんてあの頃は――

 檀黎斗が脱獄して起こしたゾンビクロニクルを含めた一連の事件は紗衣子の中のバグスターへの認識や感情を変えることになった。
 それと同時に、紗衣子にとってある意味で得体の知れない存在だったの姿も見えるようになった気がした。

 消滅した人たちの再生への手がかりをつかみ、今まで以上に紗衣子は忙しくしている。今のところ消滅からバグスターとして再生し、人間に戻りつつある唯一の存在である貴利矢の検診にも紗衣子は協力していた。
 貴利矢から何か更に手がかりがつかめるかもしれない。今のところはまだこれといった発見はなかったがその希望は大きかった。

 コーヒーの湯気ごしに眺める外の風景は見るだけで寒そうだ。数日前に積もった雪がまだあちこちに残っている。視線をその風景から暖かいカフェの中へと向けると、ちょうど思い浮かべていた人物の華奢な姿が目に入った。

先生」

 彼女をそう呼ぶようになったのは最近だ。一緒に仕事をし始めてからしばらくたつし、彼女がでなくなってからはもっとたつのにいつまでも「先生」のままではと思い「九条先生」と呼んだら、「九条は2人いるので……」とどこか照れたような困ったような顔で言われてしまった。

「紗衣子先生」

 自分の呼び方に合わせるように彼女の呼び方も変わった。とはいえ、プライベートで親しくなったかと言われるとそうでもなく、たまに会って会話をしても仕事の話ばかりだ。

「どうしたんですか? こんなところで」
「たまにはカフェでのんびりしたくて。このところ忙しいでしょう? 再生医療センターの中にも近くにもお店がないから」

 「作ってくれないかしら」とぼやく紗衣子に苦笑いを返すを紗衣子は相席するようにすすめた。への印象は変わったが、と貴利矢の関係には相変わらず興味があった。むしろ前より増して―― あの一件で、紗衣子の中の九条貴利矢の評価は随分と上がっていたし好意にも似た思いを抱いている自覚もあった。だからどうこうするわけでもないが、だからこそ興味がある。

「小児科の方は忙しいの? この間、永夢先生が再生医療センターに来たとき随分と疲れた顔をしていたけど」
「そうですね、この時期はどうしても……永夢先生はちょっと風邪をもらっちゃったみたいで」
「医者の不摂生ね……鏡先生はその辺ちゃんとしてるみたいだけど……九条先生は? カンファとか検診で呼び出してるわたしが言うことじゃないけれど」
「そんな……九条先生も忙しそうですけど、永夢先生ほどじゃ……」
「……あなたって、本当に公私をきっちりわけるタイプなのね。それともわたしの前だから?」
「え?」
「普段から九条先生って呼んでるわけじゃないでしょう?」
「それは……」
「確かに他の先生たちに比べたらあなたとは顔を合わせる機会も少ないけど、一緒に仕事しはじめてしばらくたつんだしもう少しくだけてもいいんじゃないかしら?」

 困った顔をするを紗衣子は気にしなかった。

「普段はなんて呼んでるの?」
「……普通に……名前で……」
「いつから付き合ってたの?」
「え? あの……」
「いいじゃない。ただの会話よ。あなたたちのことちょっと気になってたのよね」
「気になってたって……」
「九条先生はそうでもないけど、先生はプライベートときっちり分けてるし……普段の雰囲気が想像できなかったから」
「わたしも別にそうでもないですけど……」
「そう? それでいつから付き合ってたの?」

「学生の頃から……」紗衣子は答えるまで逃してくれないだろうと判断したは観念したように答えた。

「じゃあ本当に長い付き合いなのね……あんまり九条先生のこと引っ張りまわすのも申し訳なくなるわ」
「仕事も検診も大切ですから、貴利矢もそう思ってると思います」
「バレンタインくらいはゆっくり過ごせた?」
「今年は平日だったので……」
「でも家では何かしたでしょう?」
「クリスマスはできるだけ一緒にいるようにしてるんですけど……バレンタインとか、あとは誕生日とか、お互いに仕事優先で後回しにしがちなんです」

 少し眉を下げて笑うは、本当に無頓着のようだった。

「もういちいち何かするような年齢でもないですから」
「年齢は関係ないと思うけど……確かに九条先生もなんだかんだ仕事優先って感じよね」
「少しでも早く、消滅した人たちを救いたいですから……」

 それは紗衣子も同じだし、CRに関わるドクターたちすべての願いだろう。

「……正直、九条先生がバグスターになったときどう思った? 変わらずにいられた?」

 ふと、空気が止まったような気がした。この流れでも唐突すぎる質問だっただろうか。いたたまれなくなって視線を移したコーヒーからもう湯気は出ていなかった。カップはほんのりと温かいが、すぐに冷めてしまうだろう。

「……そうですね」

 はどうしてそんな質問をするのか紗衣子にたずねなかった。ただ、静かに止まっていた空気を震わせた。

「変わったこともあるし、変わらなかったこともあります―― 正直、あの頃はそれどころじゃなくて……何とも言えないんですけど……でも、貴利矢は貴利矢だったから……」

 視線を上げると、も自分がそうしていたようにカップの水面を見つめていた。ただ、その頃を思い出しているせいか切なそうな色に、貴利矢の話だからか愛おしそうな色を混ぜた表情で。
 彼は彼だった―― ほんの少し、胸が苦しくなった。バグスターになってしまったことはには大した問題ではなかったように紗衣子には思えた。彼女にとって大切なのは、彼が彼であることなのだ。人間だからとか、バグスターだからとかではなく……そしてきっとそれは、九条貴利矢に対してだけではないのだろうと思った。

「……そろそろ再生医療センターに戻らないと」

 コーヒーを飲み干して、紗衣子は告げた。

先生、九条先生と鏡先生に伝言をお願いしたいんだけどいいかしら?」
「伝言?」
「今日のカンファは延期するわ」
「え? 何か用事でも――
「そうじゃないけど、あなたもたまにはゆっくりしたらどう? 旦那さんと」

 きょとんとした後、すぐに頬を赤くしたに紗衣子は立ち上がってゆったりと微笑んだ。「それじゃあね」と言葉だけ残して、その場を後にした紗衣子が振り返ることはなかった。

「え? 紗衣子先生が?」
「そう2人に伝えてって」
「何か急用でもできたんだろうか……?」

 紗衣子に言われたことをそのまま貴利矢と飛彩に伝えたは、カンファを延期にということ以上は何も言わなかった。自身、紗衣子がどうして突然そんなことを言い出したのかははっきりとわかったわけじゃない。ただ、貴利矢と自分に気を遣ったのだとなんとなく感じていた。最近、貴利矢は忙しかったし――
 突然の延期にCRでやることもなかった飛彩は外科ではまだやることがあるのか早々に上の階へと戻ってしまった。CRの医局に残された貴利矢とは、「どうする?」と確かめるようにお互いに視線を合わせた。

「まあ、折角だしたまには早く帰るか」

 先にそう言ったのは貴利矢だった。

「最近早く帰れなかったしさ。もさみしかっただろ?」

 からかうような口調に白衣の袖を通していない腕を小突いた。それぞれに帰る支度をし、外の寒さを想像しながら首にマフラーをかけると「もっとちゃんと巻いとけって」と自分は随分と寒そうな格好の貴利矢が横から手を出してきた。

 案の定、外は寒くて鼻の頭がすぐに冷たくなる。吐く息は白く、は貴利矢が巻いてくれたマフラーにそっと口元を埋めた。

「さっむ!」
「もっと厚着したら?」
「そうなんだけどさ」

 年中アロハなんて。もっとも、貴利矢が今更アロハシャツ以外のものを着て来たら大騒ぎになりそうだけれど。

「夕飯どうする? あったかいものでも食べて帰る?」
「お、いいねぇ」

 はぁと、寒さをごまかすように息を吐いたの体を貴利矢はさりげなく抱き寄せた。歩きづらさにそっとそこから逃れると、代わりに自分から貴利矢の腕に自分の腕を絡めて体を近づける。くっついて歩くと、少しは寒さも和らぐ気がした。

―― 九条先生がバグスターになったときどう思った? 変わらずにいられた?

 紗衣子の問いかけが、ふと頭をよぎった。変わらずにいられた―― と言い切るのはきっと嘘になる。自分が気にしなくても貴利矢は気にしていたし、全く同じとはいかなかった。でも気持ちだけは変わらなかった。
 こうやって一緒に帰って、一緒に夕飯を食べて、一緒に寝て―― ささやかな日常が幸せだった。どんな存在であれ貴利矢がそこにいてくれれば、それで。

 だけど、貴利矢が人間に戻ればやはりそれはそれで幸せなのだ。彼がバグスターだった時とは別の幸せがここにあるから。

「……一緒に帰るの、久しぶりだよな」

 ぽつりと、貴利矢が言った。顔を上げてその横顔を見るといつもと何も変わらない。

「そうだね」
「最近、忙しくてごめん」
「ううん、大丈夫」
「だけどさ、」
「貴利矢」

 やっとこっちを見た貴利矢には微笑んだ。

「来年の冬は3人で……温かいもの食べて、過ごせたらいいね」

 貴利矢の耳が赤いのは、寒さのせいだけじゃないだろう。自分の顔も熱くなってきては思わず視線をそらした。貴利矢が幸せそうに笑ってくれたのは、ちゃんとわかっているから。

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