「おはようございます……」

 遠慮がちに口にした言葉は、冷たい視線に跳ね返されて部屋の空気に溶けて行った。それに返ってくる言葉はない。口をぐっと結び、ブラントが座っているダイニングテーブルの向かい側に座り、用意されていた朝食に手を付ける。
 目の前の同居人が新聞をめくる静かな音をBGMに半分ほど食べ進めたところで、目の前で椅子を引く音がした。

「今日の帰りは遅くなる」

 それは今日はじめて聞く声だった。

「誰も来る予定はないから、誰か来ても出たらダメだ。それにいつも言っているが――
「外には出ません……」

 フォークを置いてそっと言った。食べかけの食事をじっと見つめる。目の前の人がどんな顔をしているのかわからない。「わかってるならいいんだ」と呟くような声が聞こえ、遠ざかる足音と、扉が閉まる音が順番に耳に届いた。

 ここで暮らし始めてどのくらいたつのだろう―― は仕事の関係でアメリカに暮らしていた日本人の両親の元に生まれたごく普通の少女だった。2年ほど前に日本に戻って日本の学校に通い始め友達もでき、ごく平凡な毎日を送っていた。
 冬休みに入るとすぐに友人も多くいるアメリカへ家族旅行という形で戻ってきたのだ。友人家族と会い、せっかく旅行だからと生活していた時は行こうとも思わなかった観光地へと赴く―― はず、だった。

 どうしてこんなことになってしまったのかは未だにわからずにいた。観光地に赴く途中、タクシーに乗っていた彼らは突然の爆発に巻き込まれ、がそれを理解する間もなく意識を手放すことになった。最後に見たのは自分をかばう両親と、それに――

 が気付いたとき彼女は病院のベッドにいて、彼女の両親はもういなくなってしまっていた。彼女の前に現れた見知らぬ男女がそれを告げ、にもわかりやすい英語である程度の状況を話してくれた。
 彼女と彼女の家族はテロに巻き込まれてしまったこと。そして、はその犯人を見た可能性があること。爆発に巻き込まれたショックで記憶は曖昧だったが、もし犯人を見ていたら犯人に見られているかもしれない。は覚えてなくても、あちらは覚えているかも……だから犯人が捕まるまでの間、彼らがを保護する必要があるということ。

 彼らはテロと戦うような仕事をするチームらしかったが、にはよくわからなかった。退院した後に連れてこられた彼らの隠れ家の1つだというアパートの一室で、はそのチームのリーダーだという男と一緒に暮らすことになった―― ウィリアム・ブラントと。
 と言っても、ブラントは必ずしも常に家にいるわけではなかった。彼がいないときはブラントと一緒に病院を訪ねてきた女性がと一緒にいてくれた。外に出ることはほとんどできなかった。出る必要がある時は、必ずブラントが一緒でなければならなかったしはそれがあまり嬉しくなかった。

 ブラントは冷たい。

 ブラントより彼のチームメイトである女性の方にはよっぽど打ち解けていた。彼女は年の離れた姉のようにに接してくれて、不安でたまらないにとって唯一の安らぎだった。

 雪を抱えていそうな重くて灰色の雲が空を覆っていた。ラジオから流れる陽気な音を背にしながら、は薄汚れた窓ガラスにぴったりと額をつけ、そこから見える通りをじっと見下ろしていた。
 忙しなく歩く人たちはどこに行くのだろう? 吐き出した息が窓ガラスを曇らせ、外の風景を隠してしまった。

 玄関の入り口が開く音がして、はハッとして振り返った。ガサガサと紙袋の音がして、のいるリビングの扉がつづいて開く。疲れた顔をしたブラントにほんの少し緊張で体を固くした。「お、おかえりなさい……」とたどたどしい英語を口にしたにブラントの視線が向けられたが、はいつもそれに合わせることができずに俯いてしまう。

「……夕飯は? 何か食べたのか?」

 もうそんな時間だったのか。ブラントの問いかけでは自分が空腹なことにやっと気が付いた。小さく首を振ると返事の代わりに沈黙が降りてくる。はますます顔を上げられなくなった。
 結局夕飯は冷凍のもので済ませ、ブラントはにあまり寝るのが遅くならないようにとだけ告げて仕事があるのか自室へとこもってしまった。食事中の会話も当然ない―― もしここが自宅だったら、もっと……しかしそれがもう手に入らないものだとわかっているから、はただ冷たい寝室のベッドで小さく体を丸めることしかできなかった。

 翌日、久しぶりにへ来客があった。病院にも来てくれたブラントのチームメイトの女性が様子を見に来てくれたのだ。手土産に持ってきたドーナツは甘すぎる気もしたが、はどこかほっとした気持ちになった。

「顔色がよくないけど、ちゃんと寝てる?」

 ドーナツを頬張るを優しい目で見ながら彼女は言った。「……あんまり」と食べかけのドーナツをはじっと見つめた。

「寝ると、夢にお父さんやお母さんが出てきて……だから、眠れないんです……」
「……ブラントには言った?」

 は首を振った。

「ねえ、。ブラントは見た目は怖そうかもしれないけど案外いい人よ? あなたが辛かったりさみしかったりするなら正直にそういえばちゃんとしてくれるわ」
「でも……」
「本当はこんなこと言っちゃダメなんだけど、この隠れ家だってブラントがずっといる必要はないの……ただ、あなたを独りにするのはあんまりだからって」
「お姉さんが一緒じゃダメなんですか?」
「そうできたらいいけど、わたしはわたしでやることがあって……彼はチームのリーダーだし、危険から守るんだったら彼が一番適任だから……ごめんなさい」

 「それに彼だって心配しているのよ」と彼女は言ったが、にはあまり信じられなかった。

 今日も窓の外の通りには忙しない人々が行き交っている。彼女が帰った後、または窓辺にいた。テレビやラジオもあったけれどあまり見る気にはなれず、いつもこうして窓の外ばかり見ている。人々にまじって大きな包みを抱えた父親と、その手をつないだ男の子の親子づれがの視界を右から左へと通り過ぎて行った。

 もうすぐ、クリスマスだ。

 あの包みはプレゼント? それともクリスマスツリー? 本当ならアメリカの友人やその家族と一緒に、の家族もクリスマスを迎えるはずだったのに……それに――
 のどの奥が熱くなり、は唇をかんだ。目の奥も、何もかも熱い。いつの間にか日は暮れてブラントがいつ帰ってくるかわからなかった。見られてはいけないと不意に思い、は逃げ込むように自室に入ると扉をぴったりと閉じて、ベッドの上、布団を頭からすっぽりとかぶった。

 涙が出てくる。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。は枕に強く顔を押し付けた。どうしてこんなことになってしまたんだろう……本当なら今頃、家族とクリスマスの買い物に行っていたかもしれない……それに……それに――

 目を覚ますとそこは温かいリビングだった。がアメリカで暮らしていたときの家のリビングだ。飾りつけ前のツリーがの目の前にあり、その真下には少し古ぼけた、でも綺麗な飾りがいっぱいに入った箱が置かれている。
 しかし家の中はしんと静まり返っていて、人の気配はしなかった。「お父さん? お母さん?」と呼んでみるが、声がこだまするばかりで返事はない。リビングからキッチンへとつづく廊下へ向かおうとはリビングの扉を開いた。そして――

 ふわりと意識が浮かんだ。さっきまでリビングにいたはずなのに、周りは暗くてとても冷たい。泣いた涙の痕がヒリヒリと頬に張り付いていた。無意識にそれをこすろうとした手が別の温もりに優しく包まれ、その温もりを持った誰かが優しくの涙の痕に触れてくれた。ぼんやりとした視界を動かし、その誰かの方を見た。ブラントだ。
 きっとこれはまだ夢なのだ……どこか困ったような顔をしたブラントが、頬に触れた手でゆっくりと不器用にの頭を撫でた。ブラントがこんなことをしてくれるはずがない……でも、は嬉しかった。ゆっくりと瞼を閉じ、今度は夢を見ない眠りについた。

 次にの意識が浮上したとき、部屋にはカーテンを開けたままだった窓から日の光が降り注いでいた。時間を確かめるともうとっくに起きる時間を過ぎている。眠い目をこすりながら鏡を見ると、まだ頬に昨日の涙の痕が残っていた。同時に、夢のことを思い出した。ブラントが部屋に来てくれたような気がするのに部屋にはその痕跡は一切ない。あれもやっぱり、夢だったのだろうか?

 ブラントはダイニングでコーヒーを飲みながら新聞を眺めていた。が入ってくるのに気が付くと視線を少し上げ、「おはよう」とそっけなく口にした。
 「えっ」と思わずもれそうになった声をは飲み込んだ。ブラントから挨拶をしてくれたのははじめてで、もう新聞に視線を戻してしまった彼を思わずじっと見つめてしまう。そのまま立ちつくしていると早く朝食を食べるように言われ、ははっとしてすっかり冷めてしまっている朝食へと向かった。

 いつもと同じ新聞をめくる音だけがBGMの朝食なのに、いつもと違う感じがする。あの夢は、夢じゃなかったのだろうか? 朝食を食べながら、は何度も何度もブラントの様子をうかがっていた。

 いつもならの朝食が終わる前に出かけてしまうブラントが、今日はの朝食が終わるまで目の前に座っていた。胸の奥がほっと温かくなるのを感じ、それがほんの少しだけに勇気を与えてくれた。
 もしあれが夢でなかったのなら―― 脳裏に、夢で見た誰もいないリビングがよぎった―― もしかしたら、

「あの……」

 空っぽのお皿にフォークを置き、は思い切って口を開いた。

「今日は、お休みなんですか?」
「いや、これから出かける」

 新聞を閉じながらブラントは答えた。

「……今日は起きるのが遅かったな。もし体調が悪いならちゃんと休んでおくんだ。誰かが来る予定もないし――
「あの、帰りは……?」
「帰りはいつも通りだ。先に夕飯を食べてていい」
「……あ、明後日は?」
「明後日?」
「その……明後日、ここにいてくれませんか……? もうすぐ、」
「クリスマスにはまだ早いだろう?」

 街はもうクリスマス一色だったが、確かにほんの数日クリスマスには早かった。「そうですね」とは頷くことができなかった。あの一瞬湧いた勇気は、もうどこかに行ってしまっていた。

 クリスマスにはまだ早いその日、ブラントはいつも通りだった。ただこの数日そうだったようにが起きると必ず挨拶をしてくれるし、朝食を食べ終わるまでは出かけずにいてくれた。
 それでも―― ブラントを見送ったはうつむいた。あの夢で見た誰もいないリビングのような部屋。は今、ひとりぼっちだ。クリスマスにはまだ早いけれど。だけど――

 の家族を巻き込んだ任務はもうすぐ片付きそうだった。チームリーダーとして彼女の護衛がてら共に生活をしていたが、ブラントはつくづく自分にそういう任務は向いていないと実感していた。
 もちろん、を心配していなかったわけじゃない。むしろ彼女を隠れ家で独りにしておくのはと最初に言ったのはブラント自身だった。任務の完了が最優先だと言われたのを押し切って、妥協案としてブラントが面倒を見ることが決まりこうして一緒に生活をすることになったのだ―― ブラントとしてはチームメイトの女性にと生活してもらうつもりではあったのだが。

はブラントに懐かなかったし、ブラントもにどう接していいかわからず、ついそっけない態度をとってしまっていた。それがよくないことはわかっていた。チームメイトの女性からが両親の死で深く傷つき夜も眠れないのだと聞いた時はそういう態度しかとれなかった自分を後悔し、それからは意識してできるだけ優しくに接するようにしたし、家にもできる限りいる時間を増やした。

 だけど甘かった。

 今朝のの態度が気になり、ブラントは合間を縫ってタブレットのモニターで彼女の様子を確認していた。には話していなかったがあの隠れ家にはいくつもカメラが設置してあり、ブラントは家から離れている間もの様子をうかがっていたのだ。もちろん、彼女の身の危険を考えて―― という意味の方が大きかったが。

 思えば今朝のが口にしたことは、がブラントに対して初めて見せたわがままだった。きっとそれだけ心を開いてくれようとしたのだろう。

 今、モニターの向こうのはキッチンで作ったパンケーキを数枚重ねたお皿を持ってダイニングテーブルにいた。シロップを使って、フォークでそのパンケーキの上に何か書いている。その文字までは読めなかったが、かすかに聞こえてきたの歌声にそこに書いてある文字を知った。

 自分に向けて、ハッピーバースデーを歌うに。

 どうして、数日後に迫ったクリスマスじゃなくて今日だったのかブラントはその時初めて気がついた。

 夕食は先に食べているように言っていたのに、ブラントはが思っていたよりもずっと早く帰ってきた。「お、おかえりなさい」と驚きながら口にすると、「ただいま」と静かな優しい声が返ってきて、はまた胸の奥がほっとするのを感じた。

「これを、」

 抱えていた花束をブラントが差し出した。綺麗な百合の花束だ。どうしたのだろうと首を傾げるとブラントは困ったような顔をした。

「その……ここにもくる僕のチームメイトがいるだろう? 彼女が……この隠れ家がさみしいから花でも飾ったらどうかって君に……」

 その真実を、は知らない。それでも花束を受け取って「ありがとうございます」とその表情を和らげた。ここにきて、はじめての笑顔だった。それに

「部屋に飾っておくといい」

 ブラントがそう言って、微笑んだのもはじめてだった。

 花瓶に生けた花を、はとても大切にした。その花を見るとブラントが微笑んでくれたのを思い出しいつでも胸がいっぱいになった。いつの間にかは、ブラントともっと一緒にいたいとさえ思うようになっていた。

 でもそれも長くはつづかない。花弁が一枚、また一枚と落ち、その花が枯れる頃にブラントの口からの家族を襲ったテロの犯人が捕まったことと、にもう危険はなくなったことが告げられた。そしてブラントたちが日本の親戚に連絡を取り、が日本に帰れるようになったことも。

 無機質な空港の床がの足をぴったりと捕らえた。脚を動かすことができなかった。動かせば、もう日本へ帰らなくてはいけなくなる。
 おそるおそる肩越しに振り返ると、見送りについて来てくれたブラントが立ち止まってしまったをいぶかしげに見つめていた。思い切って、は振り返った。ブラントに言いたいことがあった。どうしても……

「あの、」

 ぎゅっと上着の裾を握りしめては俯いた。のどの奥が熱い。言わなければいけない言葉が、なかなか出てきてくれない。

「あの……ありがとう、ございました……」

 ぺこりと下げた頭を上げ、そっと上目遣いに彼の様子をうかがった。驚きに目を丸くしたブラントがマジマジとを見つめていた。
 「どうして?」思わず口をついたというようにブラントがそう呟いたのを聞いて、は顔を上げた。

「僕は何もしていない。むしろ―― …」

 確かにブラントはそっけなく、はそれがとてもつらく感じることもあった。でもブラントが本当は優しい人だということをはもうちゃんとわかっていた。
 それでも何と言ったらいいかわからずに口を結んでしまったに、ブラントは言葉のつづきを言うことなくに一歩近づいた。「これを」と、小さな手に握らせた紙袋は、の手に重さを感じさせた。

「開けてみてもいいですか……?」

 中身が気になってたずねると、ブラントは肩をすくめた。ゆっくりと袋を開け中をのぞくと「あっ」と小さな声が漏れる。それは球根だった。何の花の球根かは、にはわからなかった。

「僕からのプレゼントだ。大したものじゃないけど」

 それがはじめてのプレゼントではないことを、だけが知らなかった。慌てて首を振り、「ありがとうございます」とまたお礼を言った。

「大切に育てます……だから、あの……」

 そして、言わなければいけない言葉を、

「また……会えますか?」
「えっ?」
「もっと、大きくなったら……会いに来てもいいですか……?」

 視線を上げることもできずに紙袋の中の球根をじっと見つめた。ブラントは困っているに違いなかった。でも―― ふと、球根の陰に白いものが見えてはぱちりと瞬きをした。
 そっと取り出したそれは一枚のカードで、アドレスが1つだけぽつんと書かれている。「これ……」とうまく回らない頭でがつぶやくと「何かあったときに」とブラントが答えた。

「必要だろう?」

 それはきっと、今回の事件に関係してまた何か起きる可能性を考えての行動だったのだろう。それでもは胸の奥がたまらなく熱くなるのを感じた。こくりと頷いて、球根よりも大切にカードを紙袋の中へと戻した。
 何もないときに連絡するのはいけないこと? そうたずねられたらよかったのに、そこまでの勇気はにない。

「花が咲いたら……写真を送ってもいいですか?」

 それでも精いっぱいそれだけ言って。顔を上げたときに見つけたブラントの優しい笑顔を、は決して忘れなかった。

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