カレンダーを見ると気持ちが明るくなる。

 すっかり春らしい陽気になり、はもうすぐ誕生日を迎えようとしていた。誕生日―― また、1つ年を取る。それにへこむ友人ももちろん多かったが、にとってはこれほど嬉しいことはなかった。

 また1つ年が近づくから。

 彼と―― 恋人であるウィリアム・ブラントと、は年が離れていた。彼はよりずっと大人で、それが憧れでもあったけれど同時にその年の差がとてもさみしい時がある。だから自分の誕生日から彼の誕生日までの短い間だけでも、彼との年の差が縮まることがには嬉しかったのだ。
 それに、外交の仕事が忙しく最近あまり会えなかった彼と久しぶりに会うことができる。最近オープンしたばかりのレストランに予約を入れ、一緒に行く約束をしていたから。

 当日は何を着て行こう? ブラントと一緒に歩いても大丈夫なように落ち着いた大人の女性になりたかった。まだ学生のにはそんなに高い服やアクセサリーは買えなかったが、それでもできる限りのことはしたかった。

 傍に置いてあった携帯が鳴り、行く予定のレストランが載った雑誌をベッドに寝そべりながら見ていたは顔を上げた。ディスプレイにブラントの名前がある。慌てて携帯を手に取り、跳ね上がった心臓を落ち着けるために深呼吸をして電話に出た。

「もしもし?」

 久しぶりに聞く、ブラントの声だ。

?」
「は、はい」

 それが嬉しくて返事が一歩遅れてしまった。慌てて返事をすると「今、大丈夫かい?」と優しい声が聞こえてくる。

「大丈夫です。どうしたんですか?」
「……実は、ちょっと言いにくいんだが仕事の期間が伸びそうなんだ」
「え?」
「それで、誕生日に間に合いそうになくて―― すまない」
「……そ、そうなんですか」

 さっきまで浮かれていた気持ちが一気に沈むのを感じた。

「帰ったら必ず埋め合わせをするから。あの店にも連れて行くし――
「そんな……気にしないでください。お仕事なら仕方ないです……わたしなら大丈夫ですから」
「でも」
「本当に……当日は講義もあるし、本当に、大丈夫ですから」
「……そうか」
「お仕事、がんばってくださいね」
「ああ……ありがとう。声が聞けてよかった」

 「それじゃあ」と会話を終える言葉を告げて、ブラントはが通話を切るのを待ってから携帯を離した。大丈夫だと言っていたが、大丈夫ではないだろう。はこういうとき決してわがままを言わないし、本音だって言わない。
 ブラントはため息をついた。だからこそどうにかして誕生日は一緒に過ごしたいと思っていたのに、結局任務は伸びてしまった。申し訳ないことをした―― せめて、彼女が当日友人と楽しく過ごせればいいけれど―― 自分にできることは、できる限り早くこの任務を終わらせることだけだ。ブラントが本当は何の仕事をしているのか知らないあの年下の恋人のためにも。

「誕生日おめでとう!」

 その日は仲のいい友人たちから顔を合わせるたびにそう言われ、プレゼントを受け取ったりカフェでコーヒーを一杯ごちそうになったりしていた。みんなが明るい笑顔を向けてくれることがにとっては救いだった。そうでなければどうしても、ブラントと一緒に過ごせないことばかり思い出して落ち込んでしまうから。

「今晩、どこかにご飯食べに行かない?」
「いいけど……彼氏と過ごさないの?」
「そのはずだったんだけど、出張で……どうしても間に合わないって」

 友人に悪気はないのはわかっていたけれど、は胸が切り裂かれるのを感じた。それでも痛みを押し殺して、何でもないようにそう答える。「でもちゃんと埋め合わせしてくれるって言ってたから」とレストランのことを口にすれば、友人はうらやましそうな顔をした。

 でもからしてみたら、彼女の方がよっぽどうらやましい。

 彼女には同世代の彼氏がいて、いつも楽しそうだ。のように相手の都合であまり会えなかったりほんの少し年が近づくことに一喜一憂したりしない。
 ブラントのことは心から好きだし、ずっと一緒にいたいけれど、このさみしさだけはもうどうにもならなかった。だけどブラントに、さみしいと言う勇気もにはなかった。

 結局友人たち数人と夕食を食べ、サプライズでケーキを出してお祝いしてもらいはその時間だけは浮上した気持ちで過ごすことができた。
 しかし帰宅して部屋に独りになると、途端にさみしさがこみあげてくる。あれから、ブラントからの連絡はなかった。もうすぐ誕生日も終わろうとしている。彼はいつ帰ってくるのだろうか?

 間抜けな音を立てて携帯が鳴り、少し涙が滲んだ視界で確かめるとちょうどブラントからのメッセージが届いたところだった。「誕生日おめでとう」という彼らしい簡潔な文面と、「もうすぐ帰れそうだ」という言葉。そして、彼が帰ってくる日付が。
「ありがとう」の返信を送りながらも、は心からそのメッセージを喜べなかった。さみしい―― その気持ちが瞳からぽろぽろとあふれてくる。ブラントからのメッセージを素直に喜べない自分への嫌悪を混ぜた“さみしい”が。

 数日後、ブラントの提案で約束のレストランに行くことになっていたためそれなりのおしゃれをしては彼を迎えに行った。少し疲れた顔をした彼はそれでもきっちりとしたスーツ姿で、迎えに来たに優しい笑顔を向け、照れくさそうに今日の服装をほめてくれた。

 歩きながらショーウィンドウに映る自分とブラントの姿を確かめると、ほんの少し不安になった。背伸びして、今から行く店に似合うように大人っぽい格好をした自分。ブラントのとなりに歩くその姿は、なんだか無理をしているように感じる。自分は、彼と、

「いらっしゃいませ」

 不意に聞こえた落ち着いた声にはハッとして顔を上げた。いつの間にか店についていてブラントが予約していることを店員に告げているところだった。
 ここに来るまでブラントと話したこともよく覚えていない。彼は自分を気遣ってくれたように思う。一歩踏み込んだその店は落ち着いた雰囲気だがカジュアルさもある綺麗な店で、ただ、が雑誌で見たよりもずっと大人っぽいような気がした。

 子供な自分には、不釣り合いだ。まるで、ブラントみたいに。

? 大丈夫か?」

 心配して覗き込んだ彼の顔を真っ直ぐに見ることができない。目の奥が熱くなり、は涙があふれるのを止めることができなかった。驚いて目を丸くするブラントが声をかけるのを待たないで、は店を飛び出していた。

 泣いてしまうなんて。

 彼に恥ずかしい思いをさせてしまった。そんなつもりなかったのに。彼とたった1つ年が近づいたところで、自分は彼よりずっと子供だ。
 普段はかない、いつもより高めのヒールの靴が痛かった。それでも逃げるように足を動かし、無意識に家に帰るためのバス停へ向かっていた。

腕がしっかりとつかまれる感覚がしたのは、そのバス停が見えてきたところだった。

!」

 息を切らしたブラントが心配そうに自分を見ているのはわかったが、顔を上げることができない。

「どうしたんだ? 突然――

 その声が心から心配しているものだというのも、わかっていた。

「……もう、やめたいんです……」
「え?」
「わ、別れたいんです……わたし……」
……誕生日に間に合わなかったのは本当に、」
「違います!」

 ブラントの手が緩むのを感じ、はその手を振り払った。

「わたし……ムリなんです……がんばってるんですけど……ウィルに、釣り合わなくって……」
「僕に?」
「ウィルのこと、大好きなのに……わたしはずっと子供で……誕生日が来ても、変わらなくて……」
「……年齢のことを、気にしてたのか」

 あきれたような声だった。別れを告げているのは自分なのに、幻滅されたように感じてはますます涙をこぼした。

「僕に釣り合わないかどうか、決めるのは僕だ」

 厳しい口調でブラントは言った。

「……悩んでいたのに、気づけなかったのも、一緒にいる時間を中々取れないのも悪かった……でも、そんなこと言わないでくれ。僕は君に、無理してがんばってほしいわけじゃない」

 ブラントの大きな手がの顎に添えられ、涙でぬれた顔は上を向かされた。優しい視線がに向けられている。

「これを……プレゼントだ。本当は、店で渡すつもりだったけれど……」

 細い箱を差し出され、は戸惑いがちにそれを受け取った。開けてみると、ダイヤのトップが付いたペンダントが入っている。がつけるには大人っぽいように感じて、それが悲しかった。

「わたしには――
「似合うよ。君は君が思っている以上にちゃんと大人だ」

 箱からペンダントを取り出し、ブラントはそれを丁寧にの首に飾った。

「僕だって、年齢のことは考えたことがある。もっと年の近い恋人の方がのためになるんじゃないか……その方が、君は幸せになれるんじゃないかって……僕は仕事も忙しいし……だけどそれ以上に、僕自身、君の傍にいたかった。君がこれからもっと大人になるのを、ずっと見ていきたいんだ」
「ウィル……」
「だから、別れるなんて言わないでくれ。僕が好きなら尚更」

 また、視界が滲む。あふれる涙がさっきまでとは違うものだということに、は気付いていた。「レストランに戻ろうか?」そう言って差し出された手を取って、あふれる涙をもう片方の手でぬぐった。「ごめんなさい」と告げたの首元で、ぬぐいそびれた涙でぬれたペンダントが光っていた。

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