「あら、もうお目覚めでしたか?」

 いつもと変わらない朝、変わらない時間に、その身支度を手伝うためにいつもと同じように女官の柳玲はの部屋へとやって来た。
 昨日も、一昨日も、ここ最近、はこうして牀榻に体を起こしてぼんやりと朝を迎えていた。それまでは、柳玲が起こすまでまどろみの中をさまよっていることの方が多かったというのに。

「お、おはようございます……」

 不意に声をかけられて驚いたように目を丸くしながら、はぺこりと頭を下げた。他の女官なら恐縮してしまうその動作を気に留めることなく、柳玲は「おはようございます」と返し、たらいにお湯を張った。

「最近、朝がお早いですね」
「何だか、あんまり眠れなくて……」

 掛布を掴んだ手に、はそっと視線を落とした。

「いつもドキドキしてるんです」

 はあ、と零した溜息は幸せと不安で揺れていた。

 やっと自覚した想いを告げ、の自分に対する想いも知ってからというもの、肝心のがどうも余所余所しい。避けられてしまうことだってある。
 はあ、と動かしていた手を止め、孫堅は書き間違えてしまった竹簡を放り出した。

「幸せの溜息ですか?」

 皮肉な声が聞こえ、孫堅は不機嫌そうに顔を上げた。白湯を持って来た自分よりいくつか年上の女官が、どこか呆れたような視線を投げかけている。

様も同じように最近溜息をついてらっしゃいますよ」
も?」
「今日だって“殿のところに白湯を持っていかれますか?” とお聞きになったらお断りになられて。あまり様の心をお乱しになられないでください」
「散々想いを告げろとたきつけてきた奴が何を言う……」
「あら、私はてっきり中途半端に手をお出しになったせいでこのようなことになっているのだと思っていましたが」
「告げただけだ。相手にそんな真似するほど俺も馬鹿じゃない」

 下手に手を出せば怯えられるだけだ。本当のことを言えば、想いを告げたときその勢いと雰囲気に任せて手を出そうとした。しかし、の怯えたような瞳に、ただ抱き締めるくらいしかできなかったのだ。
 柳玲を見れば、彼女は腑に落ちない顔で孫堅を見ていた。「まだ何かあるのか?」迷惑そうに尋ねると、柳玲は形のいい眉を一気に顰めた。

「それなら様は何を気になさっているのでしょう?」
「何?」
「殿は溜息だけのようですが、様は最近よく眠れてもいないようなので」

 「嬉しさに感極まってというのならいいのですが」そう言う柳玲がどこか心配そうなのに孫堅は気づいた。そしてそれがまた、孫堅の不安を煽った。

は今どこにいる?」
「この時分は、よく四阿で書を読んでいらっしゃいますが」

 柳玲の言葉を最後まで聞かず、孫堅は風のように部屋を飛び出していった。ただ、柳玲の呆れた声だけが聞こえた気がした。

 四阿で膝に書を広げたまま、はうとうとと船を漕いでいた。近づきながら「」とその名を呼べば、彼女はハッとその顔をあげ、その拍子に膝にあった書が落ちる。
 慌てて落ちた書を拾おうとするの代わりに、孫堅はそれを拾い上げ、に渡した。受け取ったとき微かに触れたの指先は、冷たい。しばらく外にいたのだろう。

「あ、ありがとうございます……」

 じっと見つめられて、はどこかおどおどとお礼を言った。どんな顔をしていいかわからないし、何だか妙に緊張してしまう。
 落ち着かないに溜息を一つ吐き、孫堅はその細い腕を取って四阿に座らせた。自分もその隣に腰を下ろしながら。それからぐっとの肩を抱き寄せるようにし、彼女を自分の膝を枕に寝かしてやる。

「孫堅さま?」

 戸惑ったの声。どんな顔をしていいかわからなくて、孫堅はふいと視線を逸らした。

「寝ろ」
「えっ?」
「最近あまり眠れていないんだろう。柳玲に聞いた」
「でも……」

 言いよどむの肩に、着ていた上着を脱いでかけてやる。少しは温かいだろう。

「その、は、恥ずかしいです……」
「我慢しろ。俺も恥ずかしいんだ」

 そう言われると何も言い返せなくて、はきゅっと唇を結び、視線を逸らした。この状態で眠るなんて、無理だ。だってさっきより心臓がうるさい。

「どうして」

 それを孫堅もわかっているのだろうか、頭の上から降ってきた声に、はちょっと視線を上げた。

「眠れないんだ?」
「そ、それは……」
「俺の想いは迷惑だったか?」
「そ、そんなことないです!」
「馬鹿、本気で言ったわけじゃない」

 慌てて否定してきたの様子がおかしくて、孫堅はのどを鳴らして笑った。はちょっと頬をふくらませそれに抗議したが、やがてその表情をいつもよりほんの少しだけ曇らせた。

「でも、何だか信じられなくて……孫堅さまがわたしのこと、す……好きだって言ってくれたのが……それに」
「それに?」
「不安、で……」

 そっとを見下ろすと、自分から逸らされた彼女の瞳はその言葉通りの色を滲ませていた。

「わたしなんかでいいのかなって……わたし、この世界の人間じゃないし、何も知らないし、身分だって全然無くて……何も、できないのに……一緒にいて、孫堅さまに好きだって言ってもらって、いいのかなって……」
「……馬鹿」

 孫堅はに目隠しするように、彼女の目元にそっと大きな手を添えた。自分がどんな顔をしているのかわからないが、どんな顔をしても、こうしておけば彼女に表情を見られることはない。

「これから一緒にいるのに、文化や身分が違うのを不安に思うのは俺も同じだ。きっと後で、問題も出てくるだろう……特に俺が今より位が高くなればなるほどな」
「孫堅さま……」
「それでも、が好きだ。それだけで一緒にいたい」

 の目を隠した手の平が、ほんの少し温かくなった。

 ほんの少し、濡れた気がした。

眠れぬ夜の後の昼のまどろみの中で
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