「おかえりなさい。文台さま」
賊の討伐に出て、数ヶ月ぶりに帰ってきた夫をそう微笑んで迎えたに、孫堅もまた、汚れた顔のまま笑顔を返したのだった。
「おかえりなさい。文台さま」
賊の討伐に出て、数ヶ月ぶりに帰ってきた夫をそう微笑んで迎えたに、孫堅もまた、汚れた顔のまま笑顔を返したのだった。
「お怪我はありませんでしたか?」
着替えを手伝いながらそう尋ねたに、「ああ」と孫堅は短く答えた。
「俺が留守の間に何も無かったか?」
「伯符と仲謀がよくケンカをする以外は何もありませんでした」
「それもいつものことだろう」
笑いながら言う孫堅に、「そうですね」とも笑った。そして着物の袖に通した孫堅の腕に、包帯が巻かれていることにふと気がついた。
「文台さま、腕の傷は……?」
「ああ、かすり傷だ。手当てはしてある。心配するな」
予想通り眉を下げ、不安そうに見上げてくるの頭をぽんぽんと撫でてやり、「だが包帯は換えないとな」と言った。
「わたし、やります」
慰めただけではは誤魔化されてくれないと、孫堅は知っていた。自分が傷の手当をすれば、多少は納得することも知っていた。それに孫堅自身、せっかくこうして邸に帰ってきて、と二人きりの時間が取れているのを、医者を呼ぶことで捨ててしまう気になれなかった。
牀榻に腰掛け、は少し汚れた包帯を丁寧に外していく。そこから露になった傷は、確かに孫堅の言葉通り大したことが無いように思えた。しかし、油断は禁物だ。の元いた世界と違い、医療もそれほど発達しているわけではない。小さな傷が命取りになることだってある。
もう一度傷を洗い、薬を塗って、は新しい包帯を巻きなおす。
「あんまりじっと見つめないでください」
そしてその頬を赤らめて、孫堅に抗議した。
「他にすることがなくてな」
そう言いながらも、孫堅は自分の腕に添えられていたの手を思い切り引き寄せ、彼女の細い体を己の腕の中にすっぽりと収めた。が慌てたように自分の名前を呼ぶ声がする。
「そう騒ぐな」
「文台さまが突然こんなことをするからです!」
「仕方ないだろう。会えなかった間、こうしてに触れられないことだけが辛かったのだから」
茹蛸のように真っ赤になるを見て、孫堅は声を立てて笑った。
「か、からかっているんですか!?」
「真面目さ。半分はな」
「もう! やめてください!」
「すまんすまん。怒るな、久しぶりに会えたのは事実なんだ」
何か言おうとするの唇を、素早く己のそれで塞ぐ。はまだ不満そうだったが、もう文句は出ないようだった。
「わたしだって、文台さまに会えなかったのは、寂しかったんですよ……」
「それなのに、からかうなんて……」そう言うに孫堅はもう一度謝り、再びその唇に口付けを
しようと、した。
何の合図もなしに勢いよく開かれた部屋の扉に、二人は慌てて体を離した。こんな風に部屋に入ってくるのは、この邸の中で二人しかいない。
「母上!」
ぐいぐいと弟の手を引っ張りながら、上の息子の孫策が転がり込んできた。
「伯符」
呆れたようにその名前を呼ぶは、あっという間に母親の顔になっている。孫堅はつまらなそうに彼女と息子達の顔を見比べた。
「ちゃんと声をかけなさいっていつもいっているでしょう? ここは父上のお部屋なんだから」
不満そうに「はい」と答えた孫策は、何か言いたげに一瞬孫堅を見たが、すぐに兄に強く腕を掴まれたせいで泣きそうだった孫権を助けていたに視線を戻した。
「何かあったの?」
孫策の視線を受けて、は首を傾げた。
「別に……」
ふいと視線を逸らした孫策に、はそれならとばかりに腕に抱いた孫権を見た。
「あにうえが……ははうえに会いにいくぞって……」
その母の視線の意味に気づいたのか、気まずそうに兄をうかがいながら孫権は言った。
「伯符?」
「だって父上がかえってくると、母上は父上ばっかりだから……」
は孫堅と顔を見合わせた。の腕の中で、兄に腕を掴まれたのがよっぽど痛かったのか孫権はぐずぐず言っている。
「阿策」
口を開いた孫堅の呼び方が気に入らなかったのか、孫策はムッとしたように父親に視線を向けた。
「赤ん坊じゃないんだ。いつまでも母親にくっついていてどうする?」
「父上だって母上といっつもいっしょにいるだろ!」
「俺はいいんだ」
わーわーと騒ぎ立てる孫策をからかうように、孫堅はさらりと告げた。
「文台さま、煽らないでください」
呆れたようにたしなめるに、「すまんすまん」と孫堅は大して気にしていないように笑う。いつものことなので、は溜息一つにとどめ、それ以上は何も言わずに孫権を夫の腕に渡し、怒りの収まらない孫策と視線を合わせるためにしゃがみこんだ。
「この前だって母上といっしょに出かけるやくそくしてたのに、父上がじゃましたんじゃないか!」
そういえばそんなこともあった。子供たちと街へ出かける予定だったのに、色々忙しくて流れてしまったのだ。それを覚えていたなんて……。
さすがにまずいと、本能的には察した。
「じゃあ、今からみんなで出かけましょうか?」
「おい、」
にっこりと笑ってそう言ったに、苦言を呈すのは孫堅の番だった。
「本当?」
「仲謀を連れて支度してきて」
パァっと笑顔を取り戻り、孫策は大きく頷くと、父親の腕の中にいた弟の腕を再び引っ張って部屋を後にしたのだった。嵐が去ったように。
「おい」
残ったに、孫堅は再び呼びかけた。
「策はああ言っているが邪魔されているのは俺の方だぞ」
「文台さまも子供じゃないんだからそんなこと言わないでください」
くすくすと笑って、は使っていた薬と包帯を片付ける。
「それに、あの子たちはわたしを捜してこの部屋に来たんじゃないと思うんです」
そんなを捕まえて、孫堅は彼女を腕の中に収めた。くすぐったそうに身をよじるの顔から、母親の表情はもううかがえない。
「伯符も仲謀も、文台さまに会いたかったんですよ」
しかし、そう微笑むに、孫堅は何も言うことができなかった。「負けた」と言わんばかりに息を吐き、ただ苦笑したのだった。