#1

 この部屋はこんなに静かだっただろうか。静かだったかもしれない。
 それとも、自分の耳がおかしくなってしまったんだろうか。はそんな見当違いのことを考えていた。

 ここに来るのももう何度目なのかわからない。彼女はほとんど住んでいると言っていいくらいの時間をこの部屋で過ごしていた。彼女の着替えだってあるし、食器も何もかも必要なものは二つずつ揃っている。今日も当たり前のように仕事からそのままこの部屋に帰ってきたのだ。「ただいま」と言って。
 最近、この部屋の主である彼が以前とは打って変わって仕事に行かなくなったことをは知っていた。その理由も。
 だから元々仕事中毒だった彼が休むいい機会だと考えることにして、は様子を見守っていたのだ。彼は傷ついていた。

 秒針の進む音だけが響いていた。以前は生活感がないほどに整っていた部屋が今は少し散らかっている。は帰った姿のままでリビングに立ち竦んでいた。鞄が少しずつ重くなっていく。そんな大したものは入れていないはずだけれど。

「別れて欲しい……」

 ソファに座って項垂れる彼のつむじをじっと見つめた。鞄を落とさないようにしなければとばかり考えて、言葉がうまく出なかった。

「プロポーズしたのは僕だ……でも、なかったことに」

 「何故?」そう尋ねられたらどんなによかっただろうか。代わりには「大丈夫よ」とささやいていた。

「すまない」
「謝らないで。あなたと一緒にいられて、幸せだったから―― それだけで、十分」

 低く唸った彼に、は「ありがとう」と言った。それから座ったままの彼の前に膝をついて、そっと彼を抱きしめた。彼の広い背中に腕を回したのも数えられないほどだったが、その背中がこんなに小さく感じたことは今までになかったことだ。
 荷物を運ばなければ。泣きたくなる気持ちから目線をそらすように、はそうぼんやりと考えた。

 自分には時間があるからと言う彼の申し出をなぜか断ることができずに、の荷物は彼の手によってきっちりと段ボールに収められ、数日後には彼女の自宅に届いていた。  彼の家にあった、の個人的な持ち物。しかし、その中にと彼が一緒に選んだおそろいの食器などは含まれていなかった。彼は捨ててしまったのだろうか。そう考えると心がどんよりと暗くなる。
 携帯電話を取り出し、は通話履歴から真っ先に自分の親友の番号を選んで再発信した。

 ジーナ・アマーティはの学生時代からの友人で、IMFで事務として働いていた。電話をしてすぐに二人は行きつけのバーで会う約束をし、は段ボールの蓋を再び閉じてからコートを羽織ると、すぐに家を飛び出した。
 何となくタクシーを拾う気分にもなれず、少し距離のあるその店まで早足で歩くと仕事帰りらしいジーナがちょうど店についたところに出くわした。

 ジーナには彼と別れたことを話してあった。彼に恋した時も、彼と付き合うことになった時も、は真っ先に彼女に報告したのだ。

「わたしたち、別れたのね……」

 大して強くもないアルコールでも酒に弱いには十分すぎた。

「実感がわかなかったの……でも荷物が届いて……彼の家に置いてあった、わたしの荷物」
「彼が送りつけてきたの?」
「違う。わたしが、片付けるって言ったの。でも彼が僕には時間があるから僕がまとめて送るって―― 断れなかった」
「断ってやったらよかったのに」
「できないわ」
「本当は別れたくなかったんでしょう?」
「でも彼もわたしが嫌いだから別れるって言いだしたんじゃないもの」
「……ねぇ、何があったの?」

 理由はさすがに話していなかった。彼の任務に関係することだ。はまたひと口アルコールを口に含み、小さく首を振った。

「これからどうしたらいいんだろう……」
「これからって?」
「きっと職場で会うわ……彼はやめたいかもしれないけど、やめられないだろうし……」
「優秀だもの、仕方ないじゃない」
「会ったらわたし、傍にいて欲しいって思っちゃう……」

 「思ったっていいのよ」とジーナが言ったが、は聞こえないフリをした。アルコールに強くないという自覚はあったが、飲まずにはいられなかった。

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