「タマゴがかえった頃にパパもママも帰ってくるわ」
まだ細い腕、小さな手にしっかりとタマゴを抱えて、少女は自分の頭を撫でた母親の手が離れていくのを追いかけた。ポケモントレーナーの両親はいつもこうして、少女をおいて出かけていってしまう。すぐに帰ってくることもあれば長い間家を留守にすることもあった。
本当はそばにいて欲しいけれど、ウキウキと楽しそうに父親と出かけようとする母親を呼び止めることは邪魔をしてしまうようで少女にはとてもできなかった。それに―― 背後で祖母が「気をつけてね」と二人に言っている。
「それじゃあ、行ってくるわね。」
にっこりと笑う母親の顔は、どうしてかその口元しか見えない。
は目を覚ました。
見覚えのある天井がぼんやりと視界に入る。額に手を当て、ほっと息を吐いた。夢だったのだ。少し伸びをして起き上がり、枕元にあったメガネをかければ懐かしいわが家―― その自室がくっきりと輪郭をあらわにする。
幼い頃のお気に入りの絵本から専門書までつまった壁一面の本棚、中はあまり整頓されているとはいえない白い扉のクローゼット、今は深い緑色のカーテンでぴったりとしまっている日当たりのいい大きな窓、足元の薄いグリーンのカーペットはやわらかくふわふわとしている。
窓際にはやわらかいクッションや毛布を敷きつめたポケモンたちの寝床があり、四匹のポケモンたちがすやすやと寝息を立てていた。
は一昨日、カロス地方での留学を終えて故郷ガラル地方に帰ってきたばかりだった。昨日は荷解きや、これからお世話になる大学とポケモン研究所への挨拶でバタバタしていたためやっと今日からガラルでの新生活をスタートできる。天気はよく、カーテンを開けながらは微笑んだ。自分の身支度を整えてからてもちのポケモンたちを起こし、一緒に朝食と家事をすませると、出かけるための準備をする。今日はまだ仕事ははじまらない。一日オフだが、友だちと一緒にシュートシティで行われるエキシビションマッチを観戦しに行く約束をしていた。ジムリーダーと、無敵のチャンピオン・ダンデとのバトルだ。
の住むハロンタウンからは距離があるため早めに出発し、時間があればショッピングをしようと話していた。
リュックに必要最低限のものをつめ、ポケモンたちにはボールに戻ってもらう。一匹、カロスで出会ったばかりのヌメラだけはそのまま連れ歩くようにシリコンでできたヌメラ用のポシェットへ。タオルや霧吹きと一緒に入ってもらった。
このヌメラは人見知り―― というより、人間が苦手だったので、少しでも慣れてほしいとガラルではできるだけボールから出して連れ歩こうと決めていたのだ。
不安そうなヌメラに「大丈夫よ」と微笑んでそっと湿ったタオルをかぶせてやる。人が好きになって欲しいけれど、突然人と目があって怯えてしまうのも悪化してしまうだけだろうしかわいそうだ。ほんの少し外が見えるように隙間を開けておけば、もし何か気になることがあったら自分から顔を出してくれるかもしれない。
ブラッシータウン駅に着くと、今日約束をしていた幼馴染で親友のソニアがの到着を待ち構えていた。
「久しぶり!」
をしっかりとハグしながらソニアは今日の太陽みたいな笑顔を向けた。
「久しぶり、ソニア。元気だった?」
「まあね! も元気そう―― その子は?」
のポシェットにポケモンが隠れているのを見つけたソニアはのぞきこもうとしたが、タオルの下の小さな生き物は体を震わせて縮こまってしまった。
「この子、ヌメラなんだけど……カロスで出会って、その……ちょっと事情があって人が怖いみたいなの。慣れて欲しくてボールから出してるんだけど……」
「荒療治になっちゃうかな」とは眉を下げた。「ムリそうならボールに入れてあげたらいいよ」とワンパチを抱っこしながらソニアが言った。
人懐っこいワンパチがヌメラに挨拶をすると、タオルの隙間からヌメラがもそもそと動いてちょこんと外をのぞくのがわかった。人間は苦手だが、ポケモンには興味を示している。
「ワンパチも仲よくしたいみたいだし! ほら、電車が来たよ」
シュートシティに向かう電車の中、ヌメラをポシェットごと座席に置くと早速ワンパチがそばにきた。最初はおそるおそるだったが、さっきよりも顔を出してヌメラはワンパチと楽しそうにおしゃべりをしている。その様子に安心しながら、も久しぶりに会うソニアとのおしゃべりに花を咲かせた。
お互いの近況、共通の知り合いの近況、カロスでの留学の話―― そして、今日これから見る試合の話。
ガラルの無敵のチャンピオン、ダンデはソニアにとってもにとっても幼馴染だった。今日の試合は他でもないダンデからの誘いだ。ソニアはジムチャレンジ時代のライバルで―― その話をすると彼女は複雑そうな顔をするが―― は家がとなり同士だったのと、彼女の両親が不在がちでダンデの母親が気をかけてくれたのもあって幼い頃からよく一緒に遊んでいた。ジムチャレンジも同時期だった。その頃のは少し理由があってダンデと距離を置いていたが、彼はそんなを妹のように気にかけてくれていたと思う。
「ダンデくんの試合、楽しみだなぁ」
彼は元気だろうか? はのんびりとそう言った。窓から見える景色はいつの間にか雪模様だ。この辺りを抜ければ、シュートシティまであと少し。
「“ダンデくんの試合”ねぇ……?」
にやりと笑ってソニアが頬杖をつく。はきょとんとして彼女を見た。
「の目当ては対戦相手のほうじゃないの?」
ぼっと顔に血が上り、頬が熱くなる。「そんなことないよ」と言われても、ソニアからしてみれば説得力のない顔だった。「そういうことにしておいてあげる」と笑いながらあっさり引き下がったのは、電車がシュートシティへの到着を告げたからだった。
ダンデの試合となればスタジアムは人でいっぱいだった。ヌメラをボールに入れてあげた方がいいだろうか? と思いモンスターボールを取り出すと、ヌメラにひと声かけてボールに入ってもらった。電車の中はワンパチと一緒だったのもあり、人が行き来してもいつもより怯えていなかったように思う。
「! ソニア!」
ロビーがざわめきに包まれた。ひときわ大きな声で名前を呼ばれ、二人はパッと顔を上げた。黄色い悲鳴と歓声で作られたざわめきの中心に二人の名前を呼んだ人物―― ガラルの無敵のチャンピオン、ダンデはいた。彼は軽くファンに応えると、人ごみをかき分けて真っ直ぐに幼馴染たちのもとへとやってきた。
「久しぶりだな」
を見て笑うダンデにも笑顔を返した。久しぶりに顔を合わせる幼馴染のためにわざわざ試合前にロビーに顔を出してくれたようだ。
「元気だったか?」
「うん、ダンデくんもリザードンも元気だった?」
「ああ、ばっちりだ」
ヌメラが入ったボールを手に持ったまま黄金色の瞳を眩しそうに見上げる。留学中も幼馴染たちとは細目に連絡をとっていたが、こうして顔を合わせると大人っぽくなったなというところもあるが、変わってない―― それがほっとして、嬉しい。
試合の時間が近づいているからか、それともダンデがいるからか、ロビーはますます人が増えてきた。あまり邪魔にならない位置で立ち話していた三人も少し窮屈さを感じはじめた時だった。
どんっとの背中に何かがぶつかった。大きくよろけた体を咄嗟にダンデの大きな手が支える。ぶつかったのは、背後をたまたま通りかかった人だったのだろう―― 振り返っても何もなく、人ごみがあるだけだ。
「大丈夫か?」と聞いたダンデに頷くこともできず、はそのコバルトブルーの瞳を手元に落とす。ぶつかった背中に嫌な汗が伝う。
「ボール……」
背中に何かがぶつかった瞬間、手の中から何かがこぼれ落ちる感触はした。「あっ」と思う間もなくこぼれ落ちたモンスターボールは人ごみに流されて転がって行ってしまったのか見渡してもどこにもない。「ボールって、ヌメラの!?」慌てたソニアの声に彼女の方へ視線を向けるときょろきょろと辺りを見渡している。
「捜さなきゃ」という呟きはうまく言葉にならなかった。を支えたままだったダンデの手にぐっと力が入る感触だけがはっきりと伝わってくる。振り返ると彼はいつもと同じ笑顔を浮かべていた。
「捜そう。オレもソニアも一緒に捜す」
「ダンデくん……」
「スタッフが見つけて預かってくれているかもしれない。大丈夫だ」
「うん」
モンスターボールが転がっていたら誰かが不思議に思って拾ってくれるかもしれないし、中にポケモンが入っているとわかったら迷子だと思ってスタッフに届けてくれるかもしれない。
ソニアやダンデ―― ダンデはソニアからあまり動き回るなと念を押されていたが―― と手分けしてはヌメラを捜しに行った。
迷子になった気持ちだった―― いつも。
独りで何でもしなければ、迷惑がかかってしまう。自分がいたから、迷惑をかけたから、祖母は長生きできなかった……サルノリの小さな手が、の指先をぎゅっと握った。あの日、両親からもらったタマゴから生まれたポケモンだ―― 両親は、帰って来なかったけれど。
葬式を終えて、親戚だという大人たちは帰ってしまった。「こんな子の世話なんて押し付けられたから無理をしたのよ」と誰かが言った言葉が、の耳にこびりついて離れない。近所に住んでいるダンデの母親が心配して様子を見に来てくれたのにはどうしたらいいかわからなくて、「大丈夫です」とだけ言って家の扉を閉めてしまった。
この暗い部屋の中で、はサルノリとふたりぼっちだ。
あの日閉めたのはきっと、家の扉だけじゃない――
もうすぐ試合の時間だというのに、ダンデはどこに行ったのだろうか。スタジアムの外に出てはいないと思うが嫌な予感がしながら、キバナはロビーにやってきた。ダンデは最高のライバルだが、あの方向音痴だけは最低だった。基本的にリザードンがどうにかしてくれているとはいえ、キバナも迷惑したことが多々ある。
試合前のロビーは客席がもう開場されているにも関わらずにぎやかだ。キバナの登場に対するざわめきも聞こえたが、今はそれにかまっている暇はない。とにかくダンデを見つけなければ―― 一歩踏み出した足に、コツンと硬い感触がした。つられて下を見るとどこからか転がってきたモンスターボールがキバナの足に当たり、その拍子にポケモンがころりと飛び出した。
ヌメラだ。
触角を震わせたヌメラは辺りをきょろきょろとし、「きゅるる……」と怯えたように弱々しく鳴いた。震えている―― ぱちりと視線が合い、キバナが行動を起こす前に、ヌメラがキバナの靴にぴっとりと寄り添った。
何でヌメラが? ヌメラがしたように辺りを見渡したがトレーナーらしき人影は見当たらない。ボールと落として気づいていないこともありえる。スタッフに届けた方がいいだろうかと思いながらゆっくりとその場にしゃがみ込み、怯えるヌメラに視線を近づけた。
「どうした? 迷子か?」
通じているのかいないのか、ヌメラは小さく鳴いて一層キバナに体をはりつけた。どうも周りの人に怯えているようだった。傍に落ちたままのボールを拾って、ヌメラが人を怖がっているならムリにスタッフに届けない方がいいだろうかと考えているとことに「あっ!」と焦ったような音が飛び込んでくる。
最初に目に入ったのは、鮮やかなタンポポ色だった。それから、コバルトブルーが。
息を切らして駆け寄ってきたタンポポ色がキバナの前で立ち止まり、息を整えながら「ヌメラ、よかった……」とほっとした顔を見せた。
「ごめんなさい、その子わたしのヌメラで―― 」
ずれた眼鏡を直しながらそう言ったタンポポ色はそこで言葉を止め、ヌメラと一緒にいるのが誰かはじめて気がついたと言わんばかりにマジマジとキバナを見つめた。ファンだろうか? と一瞬思ったが、ファンが自分を見つめるときはもう少し違う感じだなとキバナは思い直した。
「はぐれて、捜してたの……」
「そうか。見つかってよかったな」
ヌメラを抱っこして立ち上がると、しゃがんでいたキバナを見下ろしていたコバルトブルーが今度はキバナは遠慮がちに見上げた。「ありがとう」と差し出された細い腕にヌメラが戻っていくのを確かめて、拾っておいたモンスターボールも渡してやる。
「気をつけろよ。そいつ、怯えてたから」
「うん……ごめんね、ヌメラ」
眉を下げるタンポポ色にヌメラは鳴いた。ヌメラもまたトレーナーのもとに戻れて安心したような雰囲気だった。嬉しそうに笑うヌメラに、彼女の表情も和らぐ。
何か、話しかけなければ。
唐突にキバナはそう思った。ヌメラに向けられたその笑顔を、もっとよく見てみたかった。今話しかければ、彼女はその表情のままこちらを向くのだろうか? しかし試合時間が近いというアナウンスが、キバナののどまで出かかった言葉をかき消してしまった。
「」
そして、よく知った声がそのタンポポ色の彼女を呼ぶ声が。
目の前の彼女が振り返って、キバナは彼女がという名前だと知った。ダンデの連れだということも。
「ダンデの応援か?」
すっと冷えた心臓のまま、キバナは気づけばそうたずねていた。と呼ばれた彼女は「え?」と目を丸くしてキバナを見上げ、それから困ったように眉を下げた。のどまで出かかった言葉は、それじゃなかったはずなのに。
「オレさまも控室に戻らないとな」
彼女の顔をそれ以上見ていられない気持ちになって、キバナはヌメラにだけ別れのあいさつをすると踵を返した。ダンデを捜しに来たのだが、見つけたからよしにしよう―― ロビーにいるのなら、試合に遅れるなんてことはないはずだ。
「あの、」とヌメラの鳴き声みたいなか細い声に引き止められなければ、きっと彼女にもう視線を向けることなく控室に向かっていただろう。
その瞬間、彼女がどんな顔をしていたのかわからない。ただ、キバナが振り返ったのを見た彼女はほんの少し何かを決意したような表情をして、そのクラボの実の色をした唇をそっと緩めた。
「キバナくんも、がんばってね」
どうして振り返って、彼女を見てしまったんだろうか―― 白い頬が朱色に染まり、はにかんだ表情でそう言ってくれた彼女を。
すとんと、鋭く柔らかいもので心臓の真ん中を刺された気がした。
今までにないくらい盛り上がったバトルの後―― 結果はキバナの敗北だったが―― 控室では今までにないくらい真剣な顔をしたキバナがダンデにつめ寄っていた。「って?」試合のことで話があるのかと思ったダンデが口を開くより先に、キバナは意外な名前を口にした。
「?」
「試合の前に話してただろ」
「ああ! オレと同じハロンタウンに住んでいる幼馴染だ―― オマエも会ったことあるだろ?」
「は?」
「同じときにジムチャレンジに参加していたから……もっとも、彼女もソニアと同じで途中でリタイアしてしまったんだが……しばらくカロスに留学していて、最近帰って来たんだ」
記憶を掘り起こす―― 確かに、いたかもしれない。名前がだったかは忘れたが、ダンデと一緒にいた時に会ったような……あの、タンポポ色の髪……でも、
「もっと……こう、暗くなかったか?」
素直なコメントにダンデは苦笑いした。ぼんやりと思い出した姿は、俯いていて前髪で表情も隠れ、ぱっとしない印象しかない。試合前に出会った彼女はもっと輝いていた―― 少なくとも、キバナに映る姿は。
「がどうかしたのか?」
「いや……試合前に、応援してくれたからな……ありがとうって言ってたって伝えておいてくれるか?」
「わかった。伝えておく」
ダンデの話題は今日の試合のことに変わり、キバナもそれ以上と呼ばれていた彼女のことを聞くことはできなかった。ダンデと試合の話で盛り上がりながらも、心のどこかにあの鋭く柔らかいものが引っかかっている感覚が残っていた。