心臓が口から飛び出そうだ。

 ヌメラの鳴き声がした気がしてそちらの方向へと足を向ければ捜していた小さな姿がすぐに見つかった。誰かの足元に寄り添っていて、よく考えれば人が苦手なヌメラの行動としておかしいのに、ヌメラが見つかった安心感では少しもそれがおかしいなとは思わなかった。おかしいと思えば、それが誰なのか考えたかもしれない。以外でヌメラが興味を示した人間は、カロス地方でよく見ていたポケモンバトルの中継に映っていた――

 おかしいと思えば、ガラル地方のトップジムリーダーであるキバナがそこにいたって、心の準備ができたはずなのに。

 空と海が混ざったような色がを見下ろしていた。平常心を保つのに必死で、とにかくヌメラを受け取ってこの場から離れなければとばかり考えていた。それなのに、彼に―― キバナに「ダンデの応援か?」とそっけなくたずねられた時、は一人ショックを受けた。
 キバナとは何もない。何の関係も―― この様子だと、彼の方は自分のことを覚えてすらいないだろう。はきょとんと自分を見上げるヌメラをじっと見ていた。だけど「控室に戻らないとな」と言って去って行くキバナを、このまま行かせてしまったら……こうして、また会えたのに―― 気づけばはキバナを呼び止めていた。顔が熱い。頬は熱くなっていないだろうか?

「キバナくんも、がんばってね」

 たったそのひと言だけ。でもそのひと言を言えたことがにとっては大きな進歩だ。キバナがどんな顔をしているか、は確かめられなかった。もう耐えられなくて俯いた視界には、ヌメラと自分の靴の爪先がある。
 「ああ」と低い声が聞こえ、目の前の人が踵を返すのが視界の端から消えていった。

 自分が情けなくて仕方なかった。瞳に涙をいっぱい溜めたを、サルノリが心配そうにのぞき込んでいた。この子だってさっきポケモンセンターで元気にしてもらったばかりだというのに。もう何度目だろう―― ジム戦に勝てなくなり、何度も何度もてもちのポケモンたちが傷つくのを見てきた。

「本当にやめるのか?」

 たまたま居合わせた幼馴染の男の子が心配そうにを見つめながらそうたずねた。

「ハロンタウンから一緒に旅に出て、今までがんばってきたじゃないか」
「でも……」

 サルノリをぎゅっと抱きしめる。悪いのは自分なのだ。バトル中に咄嗟の判断ができなくて、結果としてポケモンたちが傷つくことになる。トレーナーになって、誰にも迷惑をかけずに生きていこうと思ったのに、そうしなければならないのに、ポケモンを辛い目にあわせてばかりだ。

「好きにしたらいいだろ」

 別の声が―― 幼馴染と一緒にいた知らない男の子が冷めた声でそう言った。「おい」と責めるように幼馴染が言っても、彼は大して気にしていないようだった。

「みんながみんな、オレやオマエみたいにバトルに向いてるわけじゃないんだぜ」
「それは……」
「やめたいならやめれば? そんな悩むくらいならムリしてトレーナーにならなくたって……ここでジムチャレンジをリタイアしても、これからもっと夢中になれることに出会えるかもしれないだろ」

 のコバルトブルーに溜まっていた涙がぼろぼろとこぼれたのに、男の子たちはぎょっとした。二人の慌てた声は届かない。ただ、男の子が言った言葉だけがいつまでもの耳元に響いていた。

 試合の後はダンデやソニアと食事に行った。カロスでのことやそれぞれの近況をたくさん話す中で、はダンデが久しぶりに会うからという理由だけで試合に誘ったわけではないということを察した。彼はキバナがにお礼を言っていたことを言付かっていて、それを伝えながらさりげなく―― とは言っても、つき合いの長いやソニアにはバレバレだったが―― キバナと久しぶりに顔を合わせてどうだったかたずねてきたからだ。

「ダンデくんって……」
「ん?」

 帰りの電車はもう遅い時間だから乗客も少ない。外は真っ暗で風景を楽しむことはできず、はそっと声を落として自分の手元を見ていた。

「わたしがキバナくんのこと好きだって、やっぱり知ってるよね? ソニア、話した?」
「えっ、わたし!? 話してないよ! だけどってわかりやすいからなぁ……」
「そ、そうかな……」
「今日だって試合前、ヌメラを見つけて戻ってきたと思ったら顔が真っ赤だったし」
「えっ!?」
「大丈夫、戻ってきた瞬間赤くなったから―― ていうか、キバナさんってファンも多いしちょっとくらい顔が赤くなっても気にされないんじゃない?」

 それはそれで何とも言えない気持ちになるが、確かにそうかもしれない。今日の客席だってキバナファンの女性は多かった。またため息がこぼれ、は少し眉間にしわを寄せた。

「でもわざわざにお礼なんて言うんだから、顔とか覚えてもらえたんじゃない?」
「うん……」
「気のない返事」
「だって」

 嬉しくなかったと言えばウソになるけれど、だからと言って素直に受け止めるには彼は有名人すぎる。ダンデの話だとあの「がんばってね」に対するお礼のようだったけれど、キバナにはよくあることなのではないだろうか? そのお礼なら、社交辞令なのでは?
 社交辞令も、愛想笑いも、ファンサービスもいらなかった。かと言って特別な何かが欲しいわけじゃない。ただキバナのことが好きでいられたら……。

 あの日、「これからもっと夢中になれることに出会えるかもしれない」と言ってくれた男の子が、はずっと大好きだった。

 キバナがトレーナーとして、ジムリーダーとして、ダンデのライバルとして有名になってもそれは変わらなかった。恋心に憧れが加わってもっと好きになった。試合やインタビューは欠かさずチェックしたし、SNSもこっそりのぞいている。キバナはあの日泣いていた自分のことなんて覚えていないかもしれないが、それでもはかまわなかった。
 望みはない。望んで立ち去られたときの暗い気持ちを、はよく知っていた。

選ばれた言葉たち

 は駆け出しのポケモン博士だ。

 子どもの頃にジムチャレンジを途中リタイアしてからガラル地方のポケモン博士であるマグノリア博士のもとで勉強し、カロス地方での留学を経て博士として認められた。とは言っても自分の研究所があるわけではないので、自宅やブラッシータウンにあるポケモン研究所を主な仕事場にしていた。
 もちろんそれだけではまだ生活するには心もとないため、ナックルシティにある大学でいくつかの授業の手伝いもしている。大学から研究室ももらったが、自宅に置ききれない専門書や色々な機械がつまった棚でびっしりと埋まった小さな部屋で、仕事のためにこもるには少し窮屈だった。

 でも折角ガラル地方に帰ってきたのだから部屋にこもって論文を書くばかりなのもどうかと思い、あの試合の日から二週間、は毎日忙しくしている。久しぶりの自宅での生活や大学の授業にも慣れてきてからは尚更だ。
 さっきかかってきた電話の相手と会話のキャッチボールをしながら、は困ったように眉を下げた。別の研究室から借りた資料や機械をキルリアと一緒に運びながらは大学の広い廊下の壁際を歩いているところだった。仕事の電話だったが、電話相手の申し訳なさそうな声にそれ以上何も言えなくなってしまう。
 機械はキルリアがふわふわと宙に浮かして運んでくれている。彼女はがジムチャレンジをしていた頃にゲットしてからずっと一緒にいるが、しっかりものでの手伝いをするのが大好きな子だった。

「あっ」

 聞こえた声に、顔をあげる。本当に、機械をキルリアに運んで置いてもらってよかった―― 心臓が驚きで飛び跳ねるのを感じ、は立ち止まった。きっとが運んでいたら心臓が跳ねた拍子に落としていただろう。
 真正面から歩いてきたキバナは、空と海が混ざった色が驚きに染まってを見ていた。頬に熱がたまるのを感じてもどうすることもできない。どうして彼がここにいるのだろう? は真っ直ぐに歩み寄ってくるキバナを見上げた。
 電話の向こうの謝罪を受け取り、は通話を終えてスマホロトムをしまいながら「キバナくん……」と確かめるように彼の名をつぶやいた。

……だったよな? 何でここに?」
「仕事で……キバナくんこそどうして?」

 そういえばナックルシティのジムリーダーはかつて城だったこの街の宝物庫の番人でもあるのだった。キバナの答えも予想通り宝物庫のことと、ナックルシティの補修のことで専門家と打ち合わせをしに来たとのことだった。住人から道の整備の希望があがっている場所があるが、街自体に歴史的な価値があるため、補修するにも専門的な知識や技術が必要らしい。

の仕事って?」
「ポケモンの進化について研究してるの」
「へえ……じゃあ、ポケモン博士ってわけだ」
「まだ駆け出しだけど……」

 並んで歩きながら自然と会話できていることにはほっとした。いつのまにかの手にあった資料の半分以上がキバナの手に移っていて、恐縮すると「気にするな」と笑われてしまった。

「……そういえば、」

 会話の区切りでキバナは口を開いた。

「前に会ったことあったんだな……ダンデから聞いた。覚えてなくて――
「えっ? あ……き、気にしないで。会ったことがあるって言っても、ジムチャレンジの時に一回だけだから……」
「でもはオレさまのこと覚えてただろ?」
「それは……」

 は眉を下げた。

「キバナくんは、ダンデくんのライバルで……ジムリーダーもやってて……有名、だから……」

 自分の気持ちにしっかりと蓋をして、順番に言葉を選びながら答えを並べる。キバナは少し納得していないような何か考えるような顔をしたが、「そっか」と返しただけで深追いはしてこなかった。

 キバナは子どもの頃会った時のことを覚えていない――

 ふと、その事実がの心臓の表面をひっかいた。でも、しょうがない。にとってそれがどんなに心に残るできごとだったとしても、あの時のキバナは本当に何気なくあの言葉を言ったのだ。それはちゃんとわかっている。

 研究室はもう目の前だった。うまく会話がつづけられなくてのどが渇く―― 「そういえば」と口を開いたのはキバナの方で、気を遣わせてしまったなとは申し訳なくなった。

「さっき困った顔で電話してたけどなんかあったのか?」
「ちょっと仕事で……」
「ポケモンの研究?」
「うん。わたし最近までカロスに留学してて―― 折角ガラルに戻ってきたから、ワイルドエリアにフィールドワークに行きたいと思ってたんだけど……」
「えっ!?」

 キバナの視線が一瞬キルリアを見た。言いたいことはわかる。彼女はレベルが心もとないのだ。の他のてもちも同じだった。キルリアはキバナの視線に不満そうな顔をしたが、つんと澄ましてそっぽを向いた。

「ちゃんとトレーナーの人に同行してもらおうと思ってたの。でも、予定が合わなくて断られちゃって……別の人を探さないと……ダンデくんがちょうど空いてたら頼みやすかったんだけど……」

 キバナの知り合いで誰かいないだろうか? そう思ったが、キバナからしてみればこの間の試合と合わせてたった二回しか会ったことのない相手に突然頼みごとをされても迷惑だろうとはそっと言葉を飲み込んだ。
 研究室の前に着き、ポケットから鍵を取り出して開けてから、はキバナが持ってくれていた資料を受け取った。腕にくる重みが倍になる。「ありがとう」と言っても、キバナは黙ったままだった。

「……いつ?」
「えっ?」
「ワイルドエリア、いつ行くつもりなんだ?」
「今週末……だけど?」

 首を傾げる横でキバナは自分とのスマホロトムをさくっと呼び出し、あっという間に連絡先を交換してしまった。が口をはさむ隙もなく。

「オレさまが行く。また連絡するから」
「えっ!?」
「じゃあな」

 立ち去るキバナの背中を呼び止めようとしても、彼はもう振り向きもしなかった。研究室の前の静かな廊下に、ぽかんとしたとそんなをきょとんと見上げるキルリアだけが残されていた。

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