あの試合の日から二週間、気を抜くとすぐにのことを考えてしまう。

 懐かしいジムチャレンジの時の写真を引っ張り出して見てみたが、と思われるタンポポ色を見つけることはできなかった。ダンデはとキバナは会ったことがあると言っていたし、言われてみればなんとなくそれらしき人物を思い出すことはできるのだが、いまいちピンとこない。
 それなのにあの日のの姿ははっきりと思い出すことができて、キバナはそんな自分の感情に困惑することしかできなかった。

 のことを知りたいと思う―― 知りたくないと思う
 に近づきたいと思う―― 近づきたくないと思う

 二つの感情を行ったり来たりしながら、ダンデと顔を合わせてものことを聞くこともできずに、ただただ悶々とした日々を過ごすばかり。

 もちろん四六時中、というわけじゃない。オフシーズンでもジムリーダーとしての試合はあるし、それ以外の業務やナックルシティ自体に関わる仕事だってある。今日も、しばらく前から何度も送られてきていた、住宅街の石畳のひび割れが酷くて危ないからどうにかしてほしいという要望のことで補修することが決まり、ナックルユニバーシティで詳しい専門家に話を聞きに来たところだった。
 ナックルシティは古い城壁を活かした街であるため、宝物庫以外の普段人々が暮らしている場所でさえ歴史的価値が高い場所も多々ある。補修するにもそれなりの知識や技術が必要だった。資料を見ながら話し合いを進め、補修に必要な材料や職人のことでアドバイスをもらい、次回の打ち合わせの予定を決めて解散したキバナは、一緒に来たスタッフが別件の用事があると言うので別れて一人帰途につくことにした。
 すれ違う学生だろうか? ひそひそと興奮気味に話す声が耳に届くがよくあることなので話しかけられない限りは特に反応することもなく出口へと向かう。ジムに帰ったらとりあえず今後のスケジュールを確認し、ジムトレーナーたちの訓練につき合おう。今日はもう他にやることもなかったはずだ。

 ふとあげた視線に、この二週間忘れられなかったタンポポ色が飛び込んできたのはその時だった。

 「あっ」と声をあげた時、自分はきっととんでもなくまぬけな顔をしていただろう。電話をしながらキルリアと一緒に荷物を運んでいたはその声につられるように顔を上げ、少し頬を赤らめて目を瞬かせた。

 まさかこんなところで会えるとは思っていなかった。

 聞けばはポケモンの研究をしている博士で―― 曰く、まだ駆け出しだそうだが―― この大学にもよく出入りしているらしい。が運んでいた資料をさりげなく奪って一緒に歩く口実を作りながら、キバナはと他愛のない話をした。
 彼女が何でもないようにこうして会話をしてくれるのは、やはり昔会ったことがあるからだろうか? キバナは彼女を覚えていなかったが、彼女の方はそうではなさそうだと何となく気がついていた。会話が途切れ、となりを歩くを見下ろす。少し俯いて歩く彼女は内気そうで、鮮やかなコバルトブルーの瞳がなんとなく浮いて感じた。
 「そういえば、」とキバナは思い切ってに前に会った時のことについてたずねてみた。自分は覚えていないのだと、正直にそう告げながら。申し訳なく思いながら伝えた言葉に、は一瞬きょとんとした顔をした後、慌てたように首を振った。

「き、気にしないで。会ったことがあるって言っても、ジムチャレンジの時に一回だけだから……」
「でもはオレさまのこと覚えてただろ?」
「それは……」

 は眉を下げた。

「キバナくんは、ダンデくんのライバルで……ジムリーダーもやってて……有名、だから……」

 伏せられたコバルトブルーの横顔をキバナはじっと見つめた。本当にそれだけ? 思わず口からこぼれそうだった言葉をごくりと飲み込む。は慎重に言葉を選んでいるように見えた。もしかして―― という気持ちが湧くが、自意識過剰なそれをなんとか心の奥に押し込めて「そっか」と短く返すだけにとどまった。

 とどこで会ったのだろう? 確かにおぼろげに昔の彼女の姿を思い出すことはできるのだけれど―― 彼女の様子から見てただ顔を合わせただけとは思いづらかったが、一回だけと言い切るには彼女の態度もダンデの態度もおかしかった。

 会話をすればするだけのことが気になっていく。だけどそれ以上何かを確かめることはできなくて、心を落ち着かなくさせる沈黙だけが二人の間に居座っていた。もう少し会話をつづければ、何か思い出すのだろうか? 「そういえば」と苦し紛れにキバナは口を開いた。

「さっき困った顔で電話してたけどなんかあったのか?」

 いい方向転換だったとキバナは内心自画自賛した。「ちょっと仕事で……」とさっきまでとは違う表情では口ごもる。仕事―― ポケモンの進化について研究していると言ってたけれど、仕事仲間がいるのだろうか?

「わたし最近までカロスに留学してて―― 折角ガラルに戻ってきたから、ワイルドエリアにフィールドワークに行きたいと思ってたんだけど……」
「えっ!?」

 思わずキルリアの方を見てしまった。彼女のてもちのようだったが、どう見てもワイルドエリアに気軽に行けるレベルだと思えない。キルリアが睨むようにこちらを見てきたので少しバツの悪い思いをしながらの言葉のつづきを待った。

「ちゃんとトレーナーの人に同行してもらおうと思ってたの。でも、予定が合わなくて断られちゃって……別の人を探さないと……ダンデくんがちょうど空いてたら頼みやすかったんだけど……」

 ダンデ……幼馴染と言うだけあって、やはり仲はいいのだろう。何かが心臓の表面をひっかくような感覚がした。キバナが思い出せないジムチャレンジの頃のことを入れてもたった数回しか接点がない男とつき合いの長い幼馴染を比べるのもおかしいが、比べずにはいられなかった。
 何か会話をつづけなければと思うのに、そうすることができないままいつの間にか彼女が使っている研究室の前に着いた。鍵を開けたはキバナが持っていた荷物を受け取り、もうこれでキバナにはと一緒にいる口実は何もなくなってしまった。軽くなった腕に反比例して、心臓が重く感じる。
 この大学にもよく来るなら、街でばったり出くわすこともあるかもしれない。今日みたいにキバナが大学に用事があって訪れることがあればその時に会う機会があるかも―― でも、それがいつなのか、本当に起きるのか不確定なことはよくわかっていた。

 そして、それは嫌だった。不確定なことを期待して、待ちつづけるなんてことは。

「……いつ?」

 「ありがとう」とお礼を言ったに、キバナはたずねた。首を傾げる彼女は何のことだかよくわかっていないようだ。

「ワイルドエリア、いつ行くつもりなんだ?」
「今週末……だけど?」

 「ヘイ、ロトム」と声をかければ自分のスマホロトムだけではなくのロトムも現れる。それをさっと捕まえて、が驚いている間に自分と彼女の連絡先を交換してしまった。もうムリだ。すっかり気持ちは彼女のことをもっと知りたいと―― もっと近づきたいという気持ちに傾いている。

「オレさまが行く。また連絡するから」
「えっ!?」
「じゃあな」

 が呼び止める声は確かに聞こえたけれど、キバナがそれに振り返ることはなかった。

天秤は傾いた

 が遠慮して断らないうちに週末のスケジュールをさっさと空けてとワイルドエリアに行く時のことについて連絡を取り、あっという間に週末はやってきた。はハロンタウンに住んでいるので待ち合わせはワイルドエリア駅だ。

「おはよう、キバナくん」

 思ったより身軽な姿で電車から降りたに「おはよう」と返す。少し距離を置いて立つは、ダンデとの試合で会った時とも、大学で会った時とも違う動きやすそうな服装でどこか緊張したような面持ちをしていた。
 不意に彼女のポシェットに入ったタオルの下から鳴き声が聞こえて視線を向けると、濡れたその下からちょこんとヌメラが顔を出した。キバナの声に反応したのだろう。小さくも嬉しそうに鳴いている。

「ヌメラもおはような」

 そっとタオルをめくって声をかけると少しびっくりしたように体を震わせたが、すぐににこにこと笑顔を見せた。嬉しそうにが笑う声がする。顔をあげると、彼女は目を細めてヌメラを優しく見ていた。

「キバナくんに会えて、ヌメラ、嬉しそう」

 広いワイルドエリアでの目的は、あちこちにあるポケモンの巣穴から出ているエネルギーの測定だ。目視で確認できる光の柱を中心に、いくつか巣穴をまわりたいとは言った。
 一番近い光の柱を目指して歩きながら、上機嫌にキバナを見るヌメラを、もまた嬉しそうに見つめていた。

「人懐っこいヌメラだよな」

 そうたずねると、コバルトブルーが瞬いてキバナを見上げる。「そうでもないの」と困ったように微笑んでは言った。

「この子、カロスで出会ったんだけど……元々他のトレーナーのポケモンだったの。でも、すごく……何て言うのかな、扱いが酷くて……わたしが引き取ったんだけど、そのせいで人が苦手なの」
「えっ?」

 思わず顔をしかめてしまった。の暗い表情から、ヌメラが彼女の言葉以上に悪い扱いを受けていたことは察することができた。捕まえたポケモンを大切にしないトレーナーがいるなんて想像もできない。

「人に慣れて欲しくてボールから出して連れてるの……キバナくんのことは平気みたい」

 の細い人差し指がそっとヌメラを撫でた。幸せそうな顔をするヌメラは辛い目にあってきたことを感じさせない。でも確かに、シュートスタジアムで出会った時のヌメラは周りに怯えていた。人が多かったせいだと思ったが、そういう事情だったのだ。

「何でオレさまのことは平気なんだろうな?」

 一瞬の間の後、「えっ!?」と大げさに驚く声が聞こえてキバナはヌメラからに視線を移した。困ったように視線をさまよわす彼女に首を傾げていると、「それは……たぶん、キバナくんがドラゴンタイプのトレーナーだから―― 」と妙にしどろもどろな答えが返ってきた。

「あっ! 光の柱――

 問い詰めようかと思ったが、いつの間にかすぐそばまで来ていた巣穴によってその話題は打ち切られてしまう。その後のはすっかり仕事モードで、タブレットや腕に着いたデバイスを使ってエネルギーを計測し、その数値や気づいたことを入力している。
 真剣な横顔をぼんやり眺めながら、近づいて来る野生のポケモンの相手をするのがキバナの役目だ。ヌメラや大学で見かけたキルリア以外にもはポケモンを連れているようだったが、彼女はトレーナーではないしバトルは苦手だと話していた。

 はキバナが退屈ではないかと気にしているようだった。それからいくつか巣穴を回ったが、合間にそんなことをさりげなく聞かれ、まさかの真剣な横顔を見ているのに夢中だと言えるはずもなく、気にするなとだけ答えてを作業に集中させてやる。
 休憩の提案をしたのもからだった。さっきまでいたエリアが日差しが強かったせいで、ヌメラが少しへばっていたからだ。幸い今いるエリアは小雨が降っていて、自分たちには肌寒いがヌメラにはちょうどいい天気をしていた。

 霧吹きの水と小雨で元気を取り戻したヌメラは、の膝の上で嬉しそうに体を揺らしている。大きな木の下、まだ地面が濡れていなかった場所を見つけて腰を下ろしそんなヌメラを微笑ましく見ているをキバナは相変わらず見つめていた。

「つき合わせちゃってごめんね」

 ふと、は言った。

「キバナくん、忙しいでしょう?」
「オレさまが強引に引き受けたんだから気にすんな」

 もともとは他のトレーナーを探すつもりだったのに勝手に自分が行くことにしたのだ。が気にすることはない。

「でも……」
「それにとちょっと話してみたかったからな」
「えっ?」
「会って話したら、ジムチャレンジの時のこと思い出せるかと思ったし―― それに、」

 それにが気になったから、のことを知りたかったから―― それを伝えるにはまだ距離感をつかみきれなくて、キバナは口ごもった。が首を傾げると、少し濡れたタンポポ色が揺れた。「何でもない」とごまかして、キバナはの膝の上でのんびりしているヌメラを撫でた。

「そろそろつづきに行くか」

 提案すればはこくりと頷いた。その視線がまだ何か聞きたいことがあるようで、それをキバナは無視するしかなかった。今は何も言葉にできない。今は、まだ。

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