緊張しっぱなしの一日だった。充分なデータを取り、再びワイルドエリア駅に戻ったはキバナに気づかれないようにそっと息を吐いた。後はもう、帰るだけだ。ポシェットの中のヌメラは疲れたのかうとうととしている。

「今日はありがとう」

 ヌメラにタオルをかけ直してあげてから、はキバナを見上げた。すっかり辺りは暗くなっている。駅の灯りの下でもキバナの瞳は鮮やかで、その瞳に真っ直ぐに見つめられるとそわそわと落ち着きがなくなってしまう。

「退屈だったでしょう……?」

 一瞬目をそらし、おそるおそる視線だけあげたにキバナは微妙な顔をした。やはり退屈だったのだ―― 「今度はちゃんとトレーナーを見つけるから」という言葉はいつもしゃべるよりも速く、の口から転がり落ちた。

「いや、オレさまが――

 すぐに返ってきたキバナの言葉は、しかし中途半端に途切れてしまう。彼はぐっと何かを耐えるような顔をしてそれから「あー……」と悩ましい声をこぼすと「今度も、」と少し口ごもりながら言葉をつづけた。

「今度も、オレさまが行くから」

 耳元で、空気が止まる音がした。

「今回もオレさまが勝手に行くって決めたんだから、そんな気にすることないだろ―― いや、が迷惑なら……でもそうじゃないなら、オレさまが行くから。連絡しろよ」

 まさかの申し出に頭の理解が追い付かず、はぽかんとしてしまった。それから一気に回り始めた思考回路に、頭だけではなく顔にも熱がたまっていくのを感じる。
 キバナはどこかバツの悪そうな顔をしての言葉を待っているようだった。でも何を言ったらいいの? 口を開けば飛び出してきそうなくらい心臓がバクバク音を立てている。どうしよう―― 何か言わなければいけないと思うのに、ただただ頬の熱を隠すこともできずにキバナを見上げることしかできなかった。
 の背中を押したのは、電車の到着を告げるアナウンスだった。「そ……そうするね」とアブリーの羽音のような声で告げ、はもうこれ以上彼に顔を見られるわけにはいかないと言わんばかりに顔を伏せた。

すれ違う温度

 パソコンの画面には、フィールドワークで計測してきたエネルギーを表す数字と、カロス地方から持ってきたメガ進化のエネルギーを表す数値が並んでいる。頬杖をついてそれを見比べていたは、あれから一週間以上たつのに時々こうしてふとあの日のキバナを思い出してしまう。
 一回だけお礼もかねて一緒にランチをした以外、またの機会は今のところなかった。よりレベルの高いポケモンが出るナックルシティ側を回っていなかったが今のところは十分なデータが手元にはある。そもそもキバナは以上に忙しい身なのにそう気軽にあれこれ頼むことなんてできない。たとえキバナがいいと言ったとしても。

 ワイルドエリアに一緒に行った日、キバナは何を思ってあんなことを言ったのだろう? それに―― は少し眠そうなスマホロトムに声をかけ、メッセージアプリを起動してもらった。こまめに送られたキバナからのメッセージがそこに並んでいる―― それに、何を思ってこうやって接点を持とうとしてくれているのだろうか。
 にはわからなかった。その上、事実だけで舞い上がれるほど単純でもなかった。
 キバナのことはずっと好きだ。それは紛れもなく真実だったが、かと言ってはキバナとどうこうなりたいわけではない。ただ好きでいられればそれでいいのだ。彼のとなりを歩くのに自分は不釣り合いだし、それに、

 また新しいメッセージが届き、は思考を中断させた。ちょうどキバナからだった。

 今日は研究室にいるかということと、もしいるなら一緒にランチはどうかという短いメッセージが二つ、スマホの画面に表示されている。どうしようかと眉を下げたところで傍から視線を感じ振り返ると、調べものをしていてくれたバチンキーが資料を手にじっとを見つめていた。

「あ、ありがとう。バチンキー」

 資料を受け取ってもバチンキーはまだじっと視線を送ってくる。どうしたのだろうと首を傾げるけれど彼はただこちらを見つめるばかりだ。

「もしかしておなかすいたの? もうお昼だもんね――

 不満そうにバチンキーは顔をしかめた。どうやら違うらしいが、時間的にはちょうどいい時間なのでお昼休みにしよう。バチンキー以外のポケモンたち―― ヌメラ、キルリアの他にオンバットがてもちにいる―― は、みんな賛成のようでうれしそうに顔をほころばせた。
 決して広くはない研究室には入り口の傍に一応お茶を入れるくらいはできる給湯スペースがある。がその戸棚からしまってあったポケモンたちのごはんとお皿を用意している間に、資料が積んであったデスクをキルリアがテキパキと片付けて、食事をとれるスペースを作ってくれた。
 少し考えて、はスマホを取り出した。キバナからのメッセージを無視するわけにもいかない―― たとえ、返事に困っていたとしても。今日は研究室で仕事をしていることと、昼食は手が離せないので一緒に行けないという本当と嘘が混じったメッセージを返しながらは幼馴染の男の子のことを思い出していた。

 キバナが距離を縮めようとしてくれるのが嬉しく、距離を縮めてしまうのがたまらなく不安だ。

 幼馴染―― ダンデなら、キバナのこともよく知っているだろうしもしかしたら何か話を聞いているかもしれない。何か悩みができたときのの相談相手はダンデかソニアだったが、ソニアはの知る限りキバナと接点はなかったし、彼のことを聞くならダンデの方がいいだろう。
 問題はダンデが忙しく、会うことはもちろんのこと中々連絡も取りづらいというところだった。ポケモンたちがのんびりごはんを食べるところをぼんやりと眺めながら、はキバナから返事が来ないことにちょっとだけほっとしていた。

 時だった。研究室のドアがノックされる音がして振り返ると、が立ち上がるよりも先にバチンキーがドアに駆け寄るうしろ姿が見えたのは。誰だろう? 学生が何か聞きに来たのかもしれないと思っても立ち上がり―― そして固まった。
 ドアを開けたバチンキーが一瞬の間の後に出した大きな威嚇の声に、「うおっ!?」と驚いた声をあげてそこに立っていたのは手に紙袋を持ったキバナだった。再びバチンキーの威嚇する声が聞こえて我に返ったは慌ててドアに駆け寄ってバチンキーを抱き上げた。

「ば、バチンキー! ダメ!」

 そんなに気性の荒い性格ではないのに、どうしたのだろう? サルノリの頃から基本的に大人しく、人懐っこいまではいかないがこんな風に他人を威嚇するポケモンではない。唯一ダンデだけは気に入らないことがあるようで、顔を合わせると不機嫌そうにするし手を伸ばされると威嚇するけれど―― それも昔からではなく、ある時から急にだったのではその原因を未だに探っていたがわからずにいる。

「ごめんね、キバナくん……いつもはもっと大人しい子なんだけど……」

 もしかしたらさっき自分がバチンキーの言いたいことがわからなかったので機嫌を損ねていたのかも。後でちゃんと理由を確認して謝らないと。キバナは驚いたようだったが気にしていないという風に首を振った。
 「ところでどうしたの?」とキバナの訪問の理由をたずねると、「メシは?」と何かを気にするように返ってきた。

「まだだけど……?」

 返信を見てないのだろうか? は不安になった。

「だよな。手が離せないって言ってたから、買ってきた」
「え?」

 ぱちりと、まばたきを一つしてはキバナを見上げた。空と海が混ざった色がちょっとバツが悪そうにを見つめていた。の分のランチは後で買いに行こうと思ってはいた。だけどまさかキバナがこうしてランチを買って来るなんて思いもしなかったのだ。

「迷惑だったか?」
「そ、そうじゃないけど……どうして?」
「どうしてって……」

 キバナ自身も答えに迷っているようだった。腕の中のバチンキーはまだキバナを睨み上げている。

「こうしないと会えないと思って」

 見透かされたような言葉に心臓が跳ね上がる。おろおろとするにキバナも困ったような顔をした。そんなこと言われるなんて思ってもいなかったし、それに対する模範解答をは知らなかった。

「……この間の週末も、ワイルドエリアに行ったのか?」
「え? 行ってないけど……」
「そっか」

 突然の質問に困惑したまま正直に答えると、キバナはほっとしたように表情を緩めた。どうしてそんな顔をするのだろう? 心臓がさっきとは違う跳ね上がり方をする。それは嫌な動きではなくて、は頬が熱くなるのを感じながらそれを見られないように俯いた。

「と、とりあえず、中にどうぞ……その、散らかってるけど」

 距離を縮めたいとは思わなかったが、ランチまで買ってきた彼を追い返すこともにはできず、小さな研究室へと彼を促した。女子学生のグループが何かひそひそ話しながら通り過ぎていくのに気づいて、は慌てて研究室の扉を閉じた。

 キバナがいると研究室がますます狭く見える。ごはんを食べていたヌメラがご機嫌になってキバナを呼ぶのでキバナはヌメラとオンバットがご飯を食べているそばに椅子を持ってきて腰を下ろした。
 キバナが買ってきたのはナックルスタジアムから大学に来るまでの道中にある持ち帰り専門のサンドイッチ屋のサンドイッチだ。自家栽培も含めた新鮮な野菜がおいしくてもよく利用していた。飲み物はなかったのでお湯を沸かしてティーバッグのブレンドティーだが香りが好きで気に入っているものを淹れた。

 キバナに押し切られる形で渡されたサンドイッチとキバナ自身と向き合って、は口を閉じていた。正直、まだ混乱しているし、キバナがじっと見つめてくる視線が痛い。「……食べよっか」となんとか笑顔を作っては自分の分のサンドイッチを手に取った。やわらかいパンにレタス、キュウリ、トマト、それからハムが挟まったシンプルなサンドイッチでマスタードがアクセントになっている。
 代金は払おうとした瞬間にキバナに断られたのでなんだか申し訳なかった。お礼をしたいがそれが次の約束になりそうな気がして言葉にすることをためらってしまう。さっきの女子学生たちを思い出すと尚更だった。

さ、」

 厚切りのベーコンとタマゴのサンドイッチを食べながらキバナが静かに口を開いた。

「オレさまのこと避けてる?」

 ぽかんとキバナを見上げた後に口からもれたのは「えっ―― ?」という間抜けな音だった。

「今日も本当はランチ行けたんだろ?」

 しまったと思ってももう遅い。確かにキバナを出迎えた時、「手が離せない」ようには見えなかっただろう。

「それは……」
「やっぱ迷惑だったんだろ?」
「そんなことないよ!」
「だったら何でだよ?」

 声こそ荒げていなかったがプレッシャーを感じては唇を噛んだ。避けられていると思われていてもしょうがないと思う。でも問い詰められても、理由をうまく答えることはできない。それににとってはキバナの行動の方がよっぽど不可解だ。

「キバナくんこそ、どうしてそんなにわたしにかまうの……?」

 空と海の混ざった色が大きく見開かれた。それから彼は気まずそうに顔をそらした。どうしてかそれがひどく悲しくて、キバナに身を乗り出そうとしたバチンキーを抑えるフリをしてぎゅっと抱きしめた。
 「かまうって……」困ったようなキバナの声が聞こえては泣きたくなった。それから言ったことをひどく後悔した。にとってはそう感じても、たった一回しかも仕事としてワイルドエリアに一緒に行っただけ、そのお礼にたった一回一緒にランチをしただけ、それからメッセージでやり取りをしただけ……にとってそれはとても濃いできごとだったが、キバナにとってはそうじゃないのかもしれない。こうしている時間だって。

 どうしてか顔もおぼろげな両親のことを思い出した。どうしてかずっとキバナに怒っているバチンキーが、今は心配そうにを見上げている。何かがずっと怖く、不安で、はそれ以上何も言うことはできなかった。キバナが「帰る」と言うまで、顔をあげることさえできなかった。

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