本当に偶然だった。
たまたま時間が空いて、実家に帰ろうと思っただけ。まどろみの森の出入り口の近くでぼんやりと空を見上げるを見かけただけ。
の傍らにはポケモンたちがいる。最初にダンデに気づいたのはバチンキーで、彼がいつものようにダンデを威嚇する声でもダンデに気がついた。
「久しぶりだな」
バチンキーに苦笑いしながら、石垣に腰を下ろしているのとなりに座るとも「久しぶり」と表情を和らげた。
「まどろみの森に入ると怒られるぞ」
「もう子供じゃないんだから勝手に入ったりしないわ」
本当に幼い頃、は人見知りだったが子どもらしく好奇心旺盛で、ポケモンのことに関しては変に行動力があった。草むらの近くをうろうろしては大人が慌てて連れ戻すなんてことはよくあったし―― 言いつけは守る子どもだったので草むらには決して入らなかったが―― まどろみの森の近くもよくうろついていた。
あの頃から、ポケモンを観察するのが好きだったな……いつだったか、見覚えのある靴と細い脚が茂みから生えていて驚いたことがある。驚いて駆け寄ったらまだ小さなが、茂みに頭を突っ込んでそこにいたサッチムシを一生懸命スケッチしていた。一緒に茂みに頭を突っ込んでがスケッチし終わるのを見ていたっけ……夕方までそうしていて、後で二人ともお互いの両親や祖父母に怒られたのだが。
本当に……本当に、幼い頃の話だ。
―― 好き勝手やっていたからよ
―― この子も親にそっくり
―― 押しつけられたおじさんとおばさんがかわいそうだ
「ダンデくん?」
ハッとしてダンデは顔をあげた。眠っているヌメラを膝に乗せたが不思議そうにダンデを見上げていた。
「どうかした?」
「いや―― 」
取り繕うように笑顔を向ける。自分が思い出していたことを、には知られたくなかった。
「こそどうしたんだ? こんな時間に独りで空なんか見て」
「……ちょっと、考えごと、かな?」
「考えごと?」
「うん……」
「悩みがあるならオレでよければ相談に乗るぜ」
夜の街灯の下では、のコバルトブルーがいつもと違う色合いに見える。少し考える様子を見せた後、「ヌメラを家で寝かせてくるね」とは立ち上がった。眠そうだったオンバットも連れてすぐそばの自宅に一度戻ったを、ダンデは彼女のバチンキーやキルリアと一緒に待っていた。二匹はまだ眠くないようで、星空やまどろみの森のざわめきを興味深そうにきょろきょろと見ていた。
「待たせてごめんね」とはさっきと同じようにダンデのとなりに腰を下ろした。バチンキーがまた睨みつけるようにダンデを見たが、が頭をなでてそれをなだめた。「それで、」とダンデはほんの少し落ち着かない気持ちで話を切り出した。
「仕事のことか?」
カロスから戻って新しい環境で慣れないこともあるのかもしれない。そう思ったが、は微妙な顔をした。
「それじゃあ―― 」
「ちょっと前に、」
は言った。
「ワイルドエリアにフィールドワークに行ったの」
「えっ? 一人でか?」
「ううん……キバナくんと一緒だったの」
「えっ―― 」
「一緒に行ってくれる予定だったトレーナーの人がムリになって、それで偶然―― その、キバナくんが一緒に行ってくれることになったの」
その時何かあったのか? とたずねようとしてダンデはやめた。もキバナも仕事には真面目だし、がこんな顔をしているのは仕事がらみではないからだろう。それなら――
「その後、何かあったのか?」
「……お礼したくて、一緒にランチに行って、それから……キバナくんが、こまめに連絡をくれるようになって……」
「また会ったのか?」
「ううん……でも昨日、キバナくんが研究室に来たの。わたし、ランチに誘われたのに断って……忙しいと思ったからって、お昼を買ってきてくれて……」
うつむいたの耳から金色がさらりとこぼれた。キルリアがの気持ちを感じ取ったのか心配そうな視線を向けていた。
「キバナくんに、避けてるのかって言われちゃった……そんなつもりなかったんだけど、そう見えたのかな……」
「……キバナとつき合ってるのか?」
思わずダンデはたずねていた。「えっ」と顔をあげたのコバルトブルーが驚きに見開かれている。それから彼女は一瞬泣きそうな顔をして、それから何もかも押し込んだ笑顔を浮かべて首を振った。
その顔を、ダンデは今まで何度も見たことがある。そして見るたびにそんな顔をしないで欲しいと心の中で叫んでいた。
「わたしなんかがキバナくんと―― 」
言いかけて押し黙ったは、また顔を伏せた。そんな風に、言わないで欲しい。
「だけどはキバナのこと好きなんだろ?」
彼女の周りの空気が止まり、「やっぱり気づいてたんだ……」という小さな声がそれを再び動かした。
「いつから気づいてたの?」
「……たぶん最初から」
「最初?」
「はじめて、がキバナと会った後―― がジムチャレンジをやめてこの町に帰るとき、見送りに行っただろ?」
「うん」
「その時、にキバナの名前を聞かれて……なんとなくな」
「そ、そんなにわかりやすかった?」
「ずっと一緒にいたからな」
「そっか」
「ああ」
「そっか……」
なんとなく視線をから自分の爪先へとダンデは移した。バチンキーの視線が心配そうにとダンデの間を行ったり来たりしている。いつだってがタマゴから大切に育てた最初のポケモンは、のことを大切にしていた。
「キバナくんが、わたしと距離を縮めようとしてるんだなって、なんとなくわかるの……でも、どうして距離を縮めようと思ったのかがわからなくて……わたし、どうしてかまうのって言っちゃった……そんなこと、言うつもりなかったのに……」
声が震えている。その後キバナは帰ってしまったのだと、は告げた。きっと怒っているのだと。折角つながっていたものを、は自分の手で壊してしまったのだ。
少なくとも、はそう思っている。たとえキバナがそう感じていなくても。
目の前でうなだれ、机に突っ伏している同世代の男の大きな背中に、ダンデは隠すつもりもない大きなため息を一つついた。ぴくりとその背中は揺れたが、顔をあげる気配はない。
シュートシティに滞在していたダンデの元に突然訪れたキバナは顔を合わせるとすぐに、「やっちまった」と冴えない顔でのフィールドワークに同行したこと、そのお礼という名目でランチに行ったこと、それから何度か連絡を取り合っていたことをダンデに打ち明け、つい先日の研究室に顔を出したときに「に引かれた」ような何かをしでかしてしまったのだと言った。
キバナの言葉を黙って聞いていたダンデだったが、フィールドワークにキバナが同行してから彼がにマメに連絡を入れていたことは知っている。もちろんキバナが「に引かれた」と言いながらもあいまいに濁した出来事についても。
つい一昨日、夜空の下でとした会話を思い返しながら、ダンデはにたずねたことを念のためキバナにもたずねてみた。
「……とつき合ってるのか?」
キバナが誰とどんなつき合いをしているか、ダンデはもちろん全て知っているわけではなかったが、噂程度の情報に合わせてキバナと友人として付き合っていく中で聞いた情報もあるため、それなりに知っているつもりだ。
の交友関係や性格だってたぶん彼女と同性の友人であるソニアより自分の方が把握しているとダンデは思っていた。
つき合っているのか―― は否定していたが、そもそもキバナとでは性格はもちろんのこと交友の広さや深さにも差がありすぎて、はそのつもりがなくてもキバナはそのつもりだったという可能性も全くないとは言い切れない。ただ、ダンデが知る範囲だけで考えても今までキバナがつき合ってきたタイプに、があまり一致していないのは引っかかるが。
「いや……つき合ってるわけじゃ……」
ため息混じりにキバナは答えた。念のため、が空ぶって「なんだ」と思わずもれそうになった言葉をダンデは慌てて飲み込んだ。
「ちょっと気にはなってるけど」
「今まで周りにいなかったタイプだからか?」
「は?」
キバナの顔が勢いよく上がり、その空色の瞳が訝し気にダンデを見た。
「……となんか話した?」
「オマエには関係ないだろ」
「何だよそれ、オレさまのことだろ」
明らかにキバナは不機嫌になったが、こちらも大事な幼馴染をあんな顔させられて穏やかではいられない。しかも、他でもないキバナだから尚更だ。
「は……急に距離を縮められるのに慣れてないんだ」
少し言葉を選んで、ダンデはそう言った。「困ってたぞ」と付け足せば、さすがに心当たりのあるキバナはバツの悪そうな顔をする。
「それにオマエを怒らせたんじゃないかって落ち込んでた」
「えっ?」
「に何でかまうのかって聞かれて、答えずにそのまま帰ったんだろう?」
知ってたのかと言わんばかりにキバナはますます気まずそうな顔をした。ダンデはまた呆れたため息をもらした。愚痴と相談をしにきたんだろうが、ダンデはの味方だ。情けない姿に同情なんかしない。
「他に……なんか言ってたか?」
「いや―― 」
「……何でオレが、今まで周りにいなかったタイプだからが気になってる、なんて思うんだ?」
「実際そうだろう?」
「周りにいなかったタイプっていうところは……確かに今まで仲良かった女の子たちとは違うタイプかもな。だけど別にだからって気になったわけじゃない」
「じゃあ、どうしてだ?」
「どうしてって……ただ、何となく」
「何となく?」
「この間の試合の時、面と向かってがんばってって言われて―― なんか気になったんだよな」
そういうキバナはダンデが今まで見たことがないような表情をしていた。
そういう表情を、前にも見たことがあるような気がした。
「そうか……」
「何だよ?」とキバナは眉をひそめたが、ダンデは何も答えなかった。
どうしてが距離を縮めるキバナに困惑しているのか、ダンデはその理由を知っている。長年片想いをしていた相手だから、というだけではないことを。は不安なのだ。距離を縮められることが、ではなく、縮められた後に離れられることが。その上、キバナがどうして距離を縮めようとしているのか本気でわからなくてその不安を大きくしているのだ。
正直、キバナが本気ならとうまくいって欲しかった。にとってキバナの存在は大きい。あの日、偶然あの場に居合わせた名前も知らない少年に言われたひと言がにとってどれほどのものだったのか、ダンデはちゃんとわかっていた。
だからキバナが本気ならそれなりにアドバイスもするし、協力もするつもりだ。かと言って、の気持ちをダンデが伝えてしまうことはもちろん、キバナがそれを察してしまうような言動は避けたかった。
やキバナから聞いた話を照らし合わせても、キバナの行動はそれほど焦った行動だとは思えないが、の気持ちを考えるとあまりよくはなかったのかもしれない。「もし―― 」ダンデは思考めぐらして口を開いた。
「もし、と距離を縮めたいなら、先に気持ちを伝えた方がいいかもしれない」
「気持ちって?」
「告白しろってわけじゃない。ただ、どうして距離を縮めたいのか―― と一緒にいたいのか、理由をはっきりさせた方がたぶんは安心すると思う」
「……」
「それから焦らないこと」
「焦ってない」
「少なくとも今回のことで、はわけがわからないまま急に距離をつめられたって感じてるんだぜ?」
「そんなつもりはない」と顔には書いてあったが、キバナは納得したようだった。
「あとは、とりあえず謝ることだな。お互いに」
てもとにある三個のモンスターボールをじっと見つめる幼馴染にダンデは心配そうな眼差しを送っていた。が泣いてしまったあの日からしばらくたって、やっぱりジムチャレンジをあきらめると連絡を受け、彼女がハロンタウンに帰る日にこうして見送りにやってきたのだ。
ダンデが最後に会った日よりものてもとにはバッジが一つ増えていた。あれからもう一度ジムにチャレンジし、ジムリーダーに勝つことができたのだという。てもちのポケモンも進化して嬉しかったと話すの笑顔に、「本当にあきらめるのか?」と聞きたくなった言葉をダンデは飲み込んだ。
「ブラッシータウンの駅に、母さんが迎えに来てくれるって」
「ほんとう? ありがとう」
「いいんだ。それより聞いてくれよ、ソニアももいなくて、オレが遭難しないか心配だって言うんだぜ」
「ふふっ」
自然に笑うにほっとした。心配していたが、大丈夫そうだ。そう思っているとふとが唇を真っ直ぐに結び、ためらいがちに口を開いた。
「あの男の子……」
「男の子?」
「この間、ダンデくんと一緒にいた―― 」
「ああ、キバナか? この間は本当にごめん―― 」
「ううん、わたしの方こそ、突然泣いちゃってごめんね」
「いや、こっちこそ―― キバナも悪気があったわけじゃないんだ。いいヤツだし……」
「うん……いいの……嬉しかったから……」
「えっ?」
顔をあげたダンデの視界に少し頬を赤らめたの表情が飛び込んできた。とは物心つく前から一緒にいて、家族のように育ってきた。今までいろんなの表情を見てきた。それなのに、「キバナくんって、いうんだ……」と何かを確かめるように言った彼女は、ダンデが見たことのない表情をしていた。