タマゴからかえったときサルノリが一番最初に見たのは、頬を赤らめていっぱいに笑うタンポポ色の髪とコバルトブルーの瞳を持った女の子だった。ずり落ちてくる眼鏡を直しながら、歓声をあげたいのをこらえるようにぎゅっと口を結んで、幸せにその瞳をきらめかせている。
 サルノリは邪魔なタマゴの殻をどかすのに夢中で、細い腕がサルノリに向かって伸ばされたことに気がつかなかった。だから突然感じた温もりに驚いて大きな声で鳴いてしまったのはしょうがない。
 だけどその女の子は、サルノリがびっくりしてあげた声も気にせずにぎゅっとサルノリを抱きしめて「やっと会えたね」と優しく言った。

 小さな手を、そっとその細い腕に添えた。

 サルノリのその手に、女の子の温もりが優しく伝わってくる。でも――

「ママもパパも帰ってきてくれるかな……」

 その温もりにさみしさが混ざっている―― 守らなければと、サルノリは思った。自分を抱きしめてくれるこの温もりを、生まれた瞬間に見たあの笑顔を。

 それからサルノリはいつでもその女の子―― と一緒だった。が嬉しいときも、悲しいときも、いつだって一緒だった。サルノリが生まれたら帰ってくると言っていたの両親が二度と帰って来なかったときも、それからを育ててくれたの祖父母が亡くなったときも、がジムチャレンジに旅立ったときも、絶対にを独りにしなかった。

 それはこれからもずっと変わらない。

バチンキーは怒っている

 この一週間、がずっと辛そうな表情ばかりしているのを一番気にしているのは他でもないのポケモンたちだった。ただただ仕事に打ち込んで、それを隠しているのにも気づいていた。特にと一番長く一緒にいるバチンキーは。

 に着せてもらったレインコートに雨粒がパラパラと音を立てて落ちてきた。ナックルシティの石畳の上にはいくつも水たまりができている。昨日から降りつづいている雨はまだ止む気配がなく、バチンキーはの買い物のお供をしていた。
 ポケモンたちのお昼ごはんと、本屋で頼んでいた資料を取りに来たのだ。明日から雨脚が強くなるから、早めに本屋に行きたいのだと出かける前にはバチンキーに話してくれた。他のポケモンたちは大学の研究室で留守番をしている。キルリアが弟のように思っている二匹の世話にはり切っていた。

 バチンキーたちがお気に入りのポケモンフードを買って、がよく利用する本屋へと足を運ぶ。雨のせいかいつもより客は少ないようだった。資料以外の本も見ようとが店内を歩く後ろをバチンキーはきょろきょろと辺りを気にしながらついて行く。
 オンバットやキルリアはに本を読んでもらうのが好きだったが、バチンキーはそうでもない。それでも楽しそうに本を見るは好きだったので、が好きそうな本があったら教えてあげようと思っていたのだ。

 とん、と、よそ見をしていたバチンキーの体に軽い衝撃があった。きょとんとして見上げると、すぐ前を歩いていたがいつの間にか立ち止まっている。視線は雑誌コーナーに向けられていて、その横顔は最近バチンキーたちがよく見る辛そうな、さみしそうな表情をしていた。
 つられるようにバチンキーが棚の方を見ると、彼はすぐにが何を見ているのか気がついた。

 ボロボロと涙をこぼす女の子をサルノリは心配そうに見上げた。抱きしめてくれる細い腕から優しい温もりが伝わってくる。視線を動かすと、女の子の突然の涙に慌てる二人の少年がサルノリの視界に飛び込んできた。

 会計と一緒に取り寄せていた資料を受け取り、店員にお礼を言っては振り返った。後ろに他の客は並んでいない―― さっきまでいた、バチンキーも。

「えっ……」

 さっきまで、レジに並んだときは確かに、足元にいたのに……きょろきょろと辺りを見渡しても店内にレインコートを着た姿が見つからない。「どうしたんだい?」と会計をしてくれたおじいさんが見るからに青ざめたに声をかけた。

「バチンキーが……さっきまでここにいたんです」
「店内を見て来たら? 荷物は預かっておくよ」
「あ、ありがとうございます」

 会計が済んだばかりの本が入った袋を預け、は人影もまばらな店内をあちこち見て回ったが、やはりバチンキーの姿はなかった。たちが本屋に来た時、一緒に入店した親子連れを見つけて声をかけるとさっき店の扉が開くのを見たと言われ、ますます血の気が引く。

「誰も出たり入ったりした様子がなかったの……でもポケモンだったら見えなかったのかも」

 お礼を言ったかも、覚えていなかった。気づけば傘をさすのも忘れては外へと飛び出していた。

***

 特に試合や他の仕事の予定もなく、その日キバナはジムトレーナーたちといくつか模擬試合をして帰るところだった。

 ダンデと会ってから数日、結局と顔を合わせていなかった。連絡しようとスマホロトムを手にすることはあったが、どうしても勇気が出せない。を傷つけた自覚はあるのに情けなかった。気を紛らわせるようにバトルやジムリーダーとしての仕事に打ち込んだが、ふとした瞬間にのことを考えてしまう。

 ジムの入り口がにわかに騒がしく、一緒に出てきたリョウタと顔を見合わせ、少し足を速めて入り口に向かう。長身のキバナを見つけて慌てて駆け寄ってきたのは受付にいたトレーナーだった。

「どうした?」
「それがポケモンがまぎれこんで―― トレーナーもいないし雨で濡れてるから保護しようとしたんですが、逃げまわってて……」

 大捕り物をしているらしい。何人かが四苦八苦しているところに歩み寄ると、レインコートを着たバチンキーがあちこちを水浸しにしながら逃げまわっていた。どう見ても野生ではないが、周囲にトレーナーらしき姿もない。
 ポケモンに頼んで捕まえてもらおうかとキバナがボールへと手を伸ばしたところで、ぱちりとそのバチンキーと視線があった。

 高い鳴き声が響く―― 頭にあった二本のスティックを手に取り、バチンキーはキバナを睨んで威嚇した。何だ―― ? そう思う間もなく、バトルのような素早い身のこなしでバチンキーがキバナに飛び掛かった。

「うぉっ!?」

 咄嗟に体をひねって攻撃を避ける。「キバナさま!」とリョウタの声が響いた。避けられたバチンキーはすぐに態勢を立て直して尚もキバナに向かってくる。

「ジュラルドン!」

 バチンキーを抑えようと相棒のポケモンをボールから出すが、さすがに攻撃はできない。勝手に誰かのポケモンを傷つけるわけにはいかなかった。

「とにかくあのバチンキーを捕まえてくれ!」

 その指示が聞こえたのか、バチンキーは隙を見せずにジュラルドンの体を軽々と飛び越え、あくまでキバナに向かって行こうとした――

「バチンキー!!」

 悲鳴のような声が、それを止める。

 止まったのは、バチンキーだけではなかった。

 明るいタンポポ色の髪から雨の雫がこぼれている。そのコバルトブルーの瞳も濡れているように見えるのは、きっと気のせいではない。
 青ざめたはキバナなんか目に入っていないように真っ直ぐにバチンキーに駆け寄って、その小さな体を腕の中に閉じ込めてしまった。さっきまでキバナを睨んでいたバチンキーはすっかり戸惑った様子でに抱きしめられている。「よかった……」とかすれた声が耳に届き、キバナはハッとしてその場にいた野次馬をリョウタに頼んで解散させた。バチンキーに襲われたとはいえ、元々騒ぎにするつもりはなかった。

「どこにもいかないで……」

 「、」とかけようとした声はどこかに溶けてなくなった。うつむいた彼女の顔は見えないけれど、バチンキーがそっとの腕にその小さな手を添えるのをキバナはただ見ているしかなかった。

「キバナさま」

 いつの間にかそばにいたレナにささやくように呼ばれ、ハッとする。振り返ると気を遣ってタオル二枚を持ってきてくれたレナが心配そうな顔で立っていた。

「これ……」
「あ、あぁ……悪い。こっちはオレさまが対応するから、誰かに頼んで掃除だけしといてくれるか?」
「わかりました」

 すぐに立ち去ったレナを見送って、バチンキーを抱きしめたまま動かないの傍にそっとしゃがみこんだ。バチンキーが視線だけで睨んでくるが、の腕からは逃げ出すつもりはないようだ。

「……

 そっと、声をかける。ゆっくりと顔があがり、コバルトブルーがキバナを映した。ハッとしてすぐにそらされてしまったけれど、その顔に確かに傷ついた色を見つけてキバナは心臓がきつく痛むのを感じた。

 そして、気がついた。

 どうしてバチンキーが突然現れ、キバナに攻撃してきたのか―― きっとと一緒にナックルシティにいて、何かあってバチンキーは勝手にここに来たのだ。キバナのところに。がこうして……きっとあの日から、傷ついたままなのを見つづけて、バチンキーは怒っているのだ。

「ご、ごめんなさい……バチンキーが、迷惑――
「ごめん」

 「えっ」と音にならない声と共には顔をあげた。その瞳にはまだ傷ついた色があって気まずくなるが、それでもキバナは真っ直ぐを見つめた。

「この間のこと……」

 の髪からまた雫がこぼれ、キバナはとりあえず彼女とバチンキーにタオルをかけてやり、いつまでも入り口にいるわけにもいかないからとジムの更衣室へと案内した。
 さすがに着替えはないのでコータスをボールから出して暖を取れるようにする。自分よりバチンキーの体をふいてあげるのを優先しているが心配だったが手を伸ばすこともできず、キバナは少し離れたところでを見つめていた。

 空気が重い―― でも、原因は他でもないキバナなのだ。ダンデの言葉が脳裏を過る。と気まずいまま折角できた繋がりが途切れるのは嫌だった。どういう関係になりたいかというのは未だにわからないが、間違いなく今だって、と親しくなりたいと思っている。

「この間は、ごめんな」

 重い空気を裂くように、キバナはそう口にした。バチンキーをふいていた手が止まり、傷ついた瞳に困惑を乗せてはキバナを見上げた。

「勝手なこと言って……怒って……ごめん」
「キバナくん……」

 は何を言えばいいのか迷っているようだった。不安そうにまたバチンキーを抱きしめている。少し視線をさまよわせた後、「わたしも……」と小さく口にした。

「ごめん、ね……キバナくんのこと、避けてるつもりなかったの……迷惑だったわけでもなくて……ただ、どうしていいか、わからなくて……ごめんね」
「いいよ」

 一歩歩みよれば、伸ばした手はに簡単に届く。タオルを手にしてちっとも水気がとれていないの髪を優しくふいた。

「……あのさ」

 少し困った顔をしているの頬が赤いのが、気のせいじゃなかったらいい。

「オレさまがワイルドエリアに行ってからに連絡入れてたのは、普通にと仲よくなりたいって思ったからなんだよな」
「えっ?」
「ちゃんと言った方がいいと思って……突然距離つめようとして、困ったんだろ?」

 眉を下げるに、キバナはやっと表情を緩めた。

「本当に、普通に仲良くなりたいんだ。ダメか?」

 首を振るの髪からまた雫がこぼれた。「風邪ひくぞ」とその雫を捕まえるようにタオルを動かすと、今度こそはっきりとの顔が赤く染まっているのが見えた。
 「ダメじゃないよ」と告げた声は、少しだけ弱々しい。バチンキーは相変わらずキバナを睨んできたが、もう攻撃をしてこようとはしなかった。

「今度はちゃんと、一緒に昼飯行こうな」

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