藍染の反乱から十日がたとうとしていた。

 旅禍たちも現世へと戻り、落ち着きと、空元気とも言えるような騒々しさが戻りつつある尸魂界の中で、この五番隊隊舎は未だどこか息のつまるような重い空気に包まれていた。慕っていた隊長の裏切りと、その隊長自身の手で重傷を負った副隊長の安否が隊員たちの心を蝕んでいたからだ。
 そんな中で、第三席の石和厳兒いさわげんじは自らも折れそうだった心を奮い立たせ、かつて真央霊術院で同期だった副隊長の代わりになんとか五番隊を切り盛りしていた。
 他の隊の隊長格から見ても彼の頑張りは認められるものだったが、しかし、頑張りだけではどうにもならない部分も少なからず存在している。通常の業務に加えて反乱の事後処理、そして来る戦いに向けての準備などやるべきことは五万とあるのだ。三席という席次であってもその全てをこなすのは難しい。
 厳兒自身もそれを痛感していたが、頼るべき上官は不在であっても、他にも隊長がいなくなった隊があり、まさか総隊長や他の隊の隊長格を――たとえその中に霊術院で共に学んだ同期がいたとしても――頼るわけにはいかなかった。

 そんな彼の元に八番隊の隊長である京楽が訪れたのは、ある日の夕刻近くのことだった。

 何故、京楽隊長が……? あまり接点がない上に、彼は見知らぬ女性死神を伴っていた。
 死覇装に身を包んだ小柄で華奢な外見は一見少女のようにも見えるが、その顔は控えめだが美しい刺繍と飾り紐に彩られた頭巾によってすっぽりと隠されてしまっていて、果たして本当に少女なのかどうかも定かではない。
 顔の正面部分の布は薄くなっているため輪郭だけはぼんやりとわかりそうだったが、瞳や髪の色も見ることはできなかった。誰だろうか? 京楽へ挨拶をしながら、厳兒はその女性死神をさりげなく観察していた。

「三席の……石和くん、だったよね? 今、大丈夫かい?」

 忙しくないわけはなかったが、断ることなどできるはずがない。五番隊の貴賓室へと二人を通し「お茶を」と告げると「すぐに済むから」と断られ、代わりに座るようにと促された。

「キミの頑張りは色々と耳にしているよ」

 社交辞令なのか本音なのかわからない口調で京楽は言った。

「ただ、雛森副隊長の復帰はまだまだ先になりそうでね――
「……力不足は自覚しています」
「いや、責めているわけじゃないんだ。ただ、この間の隊主会でもその話が出てね。臨時だけど隊長代理を立てることになったんだよ。こちらとしてもこれからの戦力は少しでも多い方がいいっていうのもあるから」
「代理、ですか?」

 厳兒は京楽のとなりで静かに座っている女性を見た。つまり――

「彼女、ちゃん。昔、ボクの副官をしてくれていた子でね――今は霊術院で講師をしてるんだけど、彼女に代理をお願いすることになったんだ。それで正式に通知が来る前に今日はキミに会いに来たってわけ」
「はあ……」

 その名前には聞き覚えがあった。霊術院の非常勤講師で、厳兒はその授業を受けてはいなかったがたしか白打を中心とした実技を受け持っていたはずだ。

だ」

 静かだが澄んだ声が響いた。

「見慣れぬ者が隊長代理ではやりにくいかもしれないが、雛森副隊長が復帰するまでの“臨時”だ……よろしく頼む」
「そ、そんなことは……! 三席の石和厳兒です。よろしくお願いします」

 「仲良くしてあげてね」とまるで幼子を見守る父親のように告げ、ひと足先に京楽は自身の隊舎へと戻ってしまった。

 と名乗った隊長代理と二人きりになり、少しばかり気まずい気持ちになりながらも、日々の業務や滞っていること、困っていることを事細かにたずねられて厳兒は内心ほっと息を吐いた。気まずい空気が薄れたこともあるが、この隊長代理のおかげで少しは肩の荷が下りそうだと思えたからだ。

「八番隊の副隊長だったんですか?」

 業務の説明を終え、折角足を運んでくれたのだからと厳兒から提案して——必要ないかもしれなかったが、五番隊隊舎を案内しながら何となしに厳兒はたずねた。

「そうだ——もう随分前の話だ……家の事情で休隊することになったが」
「そうだったんですね……あ、ここが五番隊の道場です。案内はこれくらいですかね」
「……隊士が随分と遠巻きにわたしたちを見ていたな」
「まだ正式に挨拶もしてませんし……慣れるまでは仕方ないですよ」
「疑心暗鬼になっていないか?」

 静かな口調では言った。

「えっ?」
「お前はそうでもないようだが、隊士の中にはそういう者もいるのではないか? 藍染を慕っていた者も多いと聞いている――

 厳兒はうまく答えられなかった。藍染惣右介を慕う隊士は確かに多かった。厳兒自身、彼が素晴らしい隊長であったことを否定することができない。そしてその分傷は深く、癒えるのには時間を要するだろう。なんとか日々をこなしているが、あくまでこなしているだけで心の回復までは行き届いていないのが現状だった。

「まあ、いい――

 突き放すような言葉だったが、不思議とそうは感じられなかった。

「今日はこれで失礼する。明日か明後日には正式に着任し、挨拶をすることになるだろう」
「はい」
「そうだ、これを……」

 手荷物から取り出した箱を、は厳兒に渡した。箱を包む包装紙には「ゆめころも」と書かれている。

「これは?」
「菓子だ。あまり数はないが、皆で食べるといい」
「は、はあ……」

 が帰った後、残っていた隊士に配ったそれはやさしい味のこしあんがおいしい薄皮の饅頭で、「ゆめころも」は売っている店の名前らしかった。女性隊士の一人が、和菓子がおいしいと評判だがいいお値段でめったに食べられないのだと熱心に語ってくれたのだ。今日ここに来るのに、わざわざ買って来てくれたのだろうか?

 冷たい人なのかと思ったが、そうでもないようだ。

***

 京楽が五番隊を訪れる四日前――

 落ち着いた佇まいの「ゆめころも」という小さなその店は、京楽が学生の頃にできた和菓子屋だった。和菓子屋ではあるがちょっとお茶や食事もできる個室があり、季節ごとに手を加える小さいが美しい中庭が特徴だ。
 その中庭に面した明るい個室でお茶とお菓子を二人分頼み、京楽と彼に呼び出されたは向かい合っていた。

「それで、頼みというのは――
「その前に」

 明るい京楽の声に、は布の向こうで眉を顰めた。

「折角個室にしたんだし、ボクの前でも顔を隠す必要はないんじゃないかな?」

 「お菓子も食べづらいだろう?」と付け足され、目の前の綺麗な二つのねりきりに視線を向けたは、その誘惑に負けるようにおずおずと被っていた頭巾を外した。

 肩の辺りで不揃いに切られた色素の薄い髪がさらりと揺れる。少し赤みかかった白髪と同じ色の睫毛が、赤茶色の瞳にそっと影を落としていた。白い肌に映える赤い唇はきゅっと結ばれその表情は乏しかったが、京楽がいつ見てもは美しかった。たとえ、

 たとえ、その左目が虚を思わせるような形をしていたとしても。

 「遠慮しなくていいよ」と言うと、は遠慮がちに黒文字を手に取ってねりきりに手を付けた。季節の花をあしらったそれは、見ているだけでも美しく、食べるのがもったいなく感じた。

ちゃんは昔からここのお菓子が好きだったよねぇ……」
「幼い頃、よく母が買ってきてくれたので……」
「そっか……統学院の頃、浮竹や夢梨さんとよく一緒に来てたよ。まだ店ができたばっかりでね」

 かつて、は京楽が隊長を務める八番隊に所属し、副隊長も務めたことがある。それに彼女の母親、夢梨と京楽は統学院の同窓だったため、今でも時折こうして彼女のことを気にかけてくれていた。

「あの、お話というのは?」
「ああ、そうだったね」

 自分の分のお茶に口を付けながら京楽はやっと本題を告げた。

ちゃん、五番隊の隊長にならない?」
「……は?」

 何を言っているのだろう……突然の言葉に、は目の前の元上司に対して盛大に眉を顰めた。

「わたしはもう辞めた身ですが……」
「休隊にするって言ってあったでしょ?」

 数十年前、が自らの都合で一線から退くことを決めた時、京楽は確かに「休隊にする」と言っていた。しかしその後、落ち着いた頃に講師として霊術院で時々授業を持たないかと勧めたのも京楽だったのでまさか今更そんなことを言うとは思わなかった。当然、は戻るつもりなど全くなかった。

「この間のことは知ってると思うけど、今、護廷隊はバタバタしててね……何しろ、隊長が三人もいなくなっちゃったから」
「それは……聞いていますが」
「こっちも色々と忙しくてすぐには新しい隊長を決められそうになくて……三番隊と九番隊は副隊長がいるから彼らに頑張ってもらってるんだけど」
「五番隊にも副隊長がいるのでは?」
「それなんだよ。五番隊の副隊長——雛森桃ちゃんって言うんだけど、彼女、しばらく仕事はできそうにないんだ。まだ入院しているからっていうのもあるけど、体の傷だけじゃなくて、心の傷も深いだろうから……彼女、藍染のことを随分と慕っていたからね……五番隊の席官の子たちも頑張っているけど色々と回り切らないところもあるし、せめて五番隊だけでも誰か臨時で上に立ってもらえたらって——」
「総隊長が是と言わないでしょう」
「ボクが山じいにちゃんはどう? って進言したんだ」
「は?」
「そんなに眉間に皺を寄せると痕がついちゃうよ」

 そうは言っても表情を険しくせずにいられなかった。

「雛森副隊長が復帰するまででいいんだ。お願いできないかな?」
「でも、わたしは……」
「もちろん、“色々な”ことには極力巻き込まないようにするからさ」
「……そういうわけには……」

 今がどういう状況なのかだってわかっている。まさか隊長代理となって戦闘には参加しません、とはいかないだろう。

「じゃあ、引き受けてくれるってこと?」
「えっ? あ、いや、そういうわけでは……!」
「えぇ……ダメなの?」
「こんな状況であまり顔の知られていない実力もわからないような者が隊長になるのはどうかと思いますが……それに、」

 は言い淀んだ。これを言うと、京楽があまりいい顔をしないのはわかっていた。

「これから破面との戦いになるのでしょう? わたしのような姿の者が突然現れては余計な不安を与えるだけ——」
ちゃん」

 静かな声に遮られ、は口を結んだ。京楽の表情はいつもと変わりのないように見えたが、気まずさに襲われてはそっと瞳を伏せた。

「……ちゃんなら大丈夫だよ。霊術院での評判もいいみたいじゃない。それに——いや、周りを気遣えるちゃんなら、きっとみんなもすぐに認めてついてきてくれるようになるよ」
「まるでわたしがずっと隊長をやるような口振りですね」
「そう?」
「……わかりました……臨時でということなら……」
「ありがとう。ちゃんならそう言ってくれると思ったよ」

 にこにこと笑う京楽には隠すことなく深いため息をついた。そもそもこの人に頼み事とされて断るなんて無理な話だったのだ。
 隊長か……指先が冷えるのをは感じた。自分がまた護廷隊に戻ることさえ考えてもみなかったのに。

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