「な~んで引き受けちゃったんだよ」
ごろりと畳の上に転がってそう漏らした男に、は冷ややかな視線を送った。
瀞霊廷の貴族の邸宅が立ち並ぶ一角から少し外れた場所にある、静寂と鬱蒼とした木々に囲まれたその屋敷の前を誰もが避けて通っている。
家は古くからある名家で、貴族としては上位ではあるものの、少しでも家のことを知る者たちからは一部を除いて蛇蝎のごとく嫌われていた。もまたそんな周囲との付き合いをあまり持たず、孤立した存在は何も知らない人々にさえ得体の知れないものとして噂されるまでとなった。
そうして広がった噂のせいで、この辺りの住民からは屋敷に近づいただけで呪われるだのなんだのと無駄に避けられてしまっているのだ。
たしかに鬱蒼とした木々の合間から見えるぐるりと高い塀に囲まれた屋敷はどこか不気味で、その中をうかがうことは難しく、門はぴったりと閉じられ、近寄り難い雰囲気を醸し出している。
しかし実際のところ、塀の向こうには広く整えられた庭と屋敷があり、道場や庭からは子どもの明るい声が聞こえてきて、穏やかな雰囲気で満たされていた。
そんなの邸宅の、いくつもある部屋の中でも中庭に面した日当たりのいい静かな部屋が当主であるの私室だった。物が少なく、きちんと整理されている味気ない部屋だが、床の間には季節の花が飾られていてそこだけ華やかさが残っている。衣桁には真新しい隊長羽織がかかっていたが、それに袖を通すのは明日以降だ。
「うるさいぞ、楼侍」
寝転がってうだうだと文句を言いつづける男――忍牙屋楼侍をはあきれた声で一蹴した。先代当主だったの母が流魂街から拾って来たこの男は、とは兄妹のように育ち、一時は共に護廷十三隊に所属し、今は当主となったの侍従のようなことをしている。とは言え家の中では共に育った気安さが前面に押し出されてはいた。
「これからデカい戦いがあるんだろ? そんな時に代理とはいえ隊長なんて……普通、決める前に相談とかするだろ?」
「お前だったら京楽隊長からの頼みを断れるのか?」
「そ、それは……」
も楼侍もかつては八番隊で京楽の部下として働いていた。随分と世話になったし、色々と恩もある。楼侍がの立場だったら、間違いなく京楽の頼みごとを断ることなんてできなかっただろう。
襟を整え、手荷物を確認する。中庭から駆け込んだ来た穏やかな風が部屋を横切り、つられるようにしてそちらを向けば、庭の木々を駆け回る子どもたちの姿が見えた。鬼ごっこでもしているのだろうか?
「だけど隊長になったら、あいつと嫌でも顔を合わせるんだぞ?」
静かに、しかしはっきりと楼侍はそう告げた。それはまるで何かを確かめるかのようだった。
「……そんなことはわかっている」
京楽と「ゆめころも」で会ってから三日後には護廷十三隊の隊主会でが五番隊の隊長代理に就任することが正式に決まった。その場にいた隊長は九人――“彼”はそこにいなかった。そのことに、安堵したのは確かだった。
何か言いたそうな楼侍の視線から逃れるようには出かける時に必ずつける頭巾をかぶった。
「そういや、どこに行くんだよ」
「綜合救護詰所だ。五番隊副隊長の様子を見に行く。意識はまだ戻らないようだが……一応な」
勢いよく、楼侍は起き上がった。
「俺も行く」
「は? 出かけるしたくもしてないのに何を――」
「すぐ済ませるからちょっと待ってろ! そもそも当主なのに一人で出歩くなよ」
「思い出した時だけ当主扱いするな」
の苦言を耳に入れる前に、楼侍は部屋を飛び出していった。こうなっては勝手に一人で出かけるわけにもいかないだろう。後からグチグチ文句を言われるのはわかっている。大きくため息を一つこぼし、は庭へと視線を移した。
重苦しい静寂が支配する病室ではじめて見た雛森桃は、記憶にある可憐で愛らしい容姿からはかけ離れた姿をしていた。その個室の重苦しい雰囲気と青白く生気のない顔に、は布で隠された顔を険しくした。
雛森が藍染をどれだけ慕っていたかという話は隊長代理の話を京楽に持ち掛けられて以降あちらこちらで耳にしたが、こうして寝台に横たわる彼女の痛々しい姿がそれをますます際立たせているようだった。
病室に来る前に四番隊の隊長である卯ノ花から容態を聞いたが、体はもちろん心の傷が酷いのだろう。五番隊の隊舎で見かけた一般の隊士たちもそうだった。彼女ほどではないが、皆どこか傷を抱えているような――気乗りしないまま引き受けてしまった隊長代理ではあったが、そういう光景を目の当たりにすると、自分も何か力にならねばという気持ちが湧いてくる。がそれを表に出すことは決してなかったが。
「かわいい子なんだろうな。いい子そうで」
「いい子だよ」
「知ってんのか?」
「ああ、わたしの講義を受けてくれたことがある。真面目で面倒見がよくて……そういえば」
ふと言葉が途切れ、雛森から視線をそらしは振り返った。つられるように楼侍も視線を動かす。霊圧を感じたから――というより、扉の開く音がしたからだ。
扉を開けた二人組――三番隊副隊長の吉良イヅルと六番隊副隊長の阿散井恋次は、雛森の部屋に思わぬ先客がいたことに驚いて目を丸くした。
「……見舞いか?」
間抜けな顔をしたままの二人には仕方なく声をかけた。ハッとして我に返ったイヅルが「先生……」と口ごもった。そう、そういえばこの二人も雛森の同期だった。イヅルは雛森と共にの講義を受けていた。の講義は三回生から五回生の間に希望者が受けるもので、恋次は二人が受けた後に評判を聞いて履修をした。それに――
「今は“先生”ではない」
脳裏を過った面影を振り払うようにはそっけなく言った。
「あ……そうでしたね。五番隊の隊長になったとうかがいました」
「隊長代理だ」
「それで雛森のお見舞いに……」
「そんなところだ」
「もう帰るところだが」とは黙って自分のとなりにいた楼侍に視線を向けた。
「行くぞ、楼侍」
「はい、姫実様」
姫実はが家の当主となった時に付けられた名だ。当主の従者として余所行きの顔をする楼侍に冷めた視線を送りながら、「邪魔をしたな」とは雛森に完全に背を向けた。しかし、扉の前に立ったままだった恋次とイヅルが体を動かしたとなりを通り抜けようとしたところでの脚はピタリと止まった。
先に反応したのは恋次だった。彼にとっても身近な霊圧だ。この、冷たい――
「――」
静かな声が水面に落ちたように響いた。
開け放たれたままだった入口の向こうにいつの間にか彼は立っていた。思わず一歩、足が下がる。真後ろに立っている楼侍にぶつかる感触と、何故か彼に肩をしっかり掴まれた感覚には自身の心臓が一気に張り詰めるのを感じた。
「た、隊長! なんでここに!?」
キリリと張り詰めた空気を気にすることなく恋次が口を開いた。先日まで入院していた上司を心配しての言葉だった。しかし、当の上司はその問いに答えることなく目の前で動けなくなっているへと冷たい双眸を向けていた。
この日、六番隊隊長である朽木白哉が綜合救護詰所にいたのは偶然だった。藍染の反乱で市丸ギンの攻撃から義妹のルキアを庇い重傷を負った彼はしばらく入院生活を余儀なくされたが数日前にやっと退院できたところだ。
黒崎一護たちが現世に帰るための見送りで一度外出を許可された時、彼としてはそのまま退院をしたかったのだが四番隊隊長である卯ノ花に有無を言わさず病室へと戻された。退院後も経過観察のためにしばらく通うように言われており、そのために今日は四番隊へと足を運んでいたのだ。
その霊圧を感じた時、一瞬、気のせいかと思った。
懐かしい気持ちと、わずかな苛立ちが胸を過り、気づけばここにいた。顔を合わせなくなって五十年近くたつ。顔こそ布で隠されてわからなかったが、それでも彼女は少しも変わっていないように思えた。
「……何故ここに?」
どんな言葉をかければいいのかわからなかった。悩んだ末にそうたずねていたが、何となく理由は察していた。入院中の白哉が出席できなかった隊主会で五番隊の隊長代理就任の話が出たことは副官の恋次から聞いていた。その名前が、であることも。
「副官の顔を見に来ただけだ」
「五番隊の隊長代理を引き受けたのだったな」
何故――そう思いながら、の後ろに立つ男に視線を向けた。右目から右頬までも隠せる大きさの眼帯をし、薄茶色の長い髪を適当に結った背の高い男は素知らぬ顔で白哉とのやり取りを聞いていた。
「兄も隊に戻るのか?」
「まさか」
白哉の視線が自分に向いたことに気づき、楼侍は皮肉気に笑った。
「、話が――」
「わたしには、ない」
楼侍をぎろりと睨みつけると、彼は慌てたようにの肩を掴んでいた手を放した。あっという間に彼女は白哉のとなりをすり抜け、決して振り返ることなく薄暗い廊下を立ち去ってしまったのだった。
「あーあ……」
赤くなった手のひらをひらひらと振りながら楼侍は少しも残念ではなさそうに残念そうな言葉を口にした。
「お前が通院してるって聞いたから、もしかしたら顔合わせるかもと思ってついて来たのになぁ」
恋次なら畏縮するような視線が楼侍に向けられていたが、彼は少しも気にしていなかった。
「あの……隊長と先生……いや、隊長って知り合いだったんスか?」
そうたずねる恋次は、まだ白哉が入院していた時、隊主会の内容を報告した際のことを思い出していた。
あの日、新しい隊長代理の名前を聞いた白哉の反応は、いつもと何か違う気がした。それは本当にごくわずかな違いで、恋次はその時、気のせいだと思ったのだ。
しかし気のせいではなかった。
恋次の問いに白哉は「そうだ」とうなずいただけでそれ以上は何も語ろうとせず、困惑する恋次とイヅルを助けるように楼侍が白哉の肩を叩いた。
「二人とも、彼女のお見舞いに来たんだろ? 邪魔しちゃ悪いから俺たちは行こうぜ」
「馴れ馴れしくするな」
余所行きの顔を脱ぎ捨てた彼にあ然とする二人を置いて、白哉と連れ立つように楼侍もまた雛森桃の病室を去ったのだった。
残された二人はこのよくわからない状況に顔を見合わせた。「何だったんだ……?」とぼやく恋次にイヅルも同意した。
「でもせ、隊長と朽木隊長が知り合いなのは家同士の付き合いがあるからじゃないかな?」
「えっ?」
「家は古くからある名家で上位の貴族だし、朽木家と付き合いがあってもおかしくはないよ」
「そうか……」
「まあ、僕も家についてはよく知らないんだけどね」
イヅルからしてみるとと朽木白哉の関係より、あの従者らしき男の方が気になったが……寝台で眠る雛森に視線を向け、彼はそっと息を吐いた。彼女が目覚めた時、余計な苦労が少しでも増えていなければいいのだけれど。