不揃いに伸ばされた薄茶色の髪が風になびいている。その背中を凍てつく視線で睨みつけていた白哉に気づいたのか、綜合救護詰所を出てすぐに楼侍は振り返った。
「久しぶりだな、白哉」
「兄にそのように気安く呼ばれる筋合いはない」
「に逃げられたからって俺に当たるなよ」
ひょうひょうとした口調でそう言えば、白哉の眉間にはますますしわが寄った。そんな彼の様子に、楼侍はのどを鳴らして笑った。
「と会うのは五十年ぶりくらいか? もう少し考えて声をかけろよ。折角顔を合わせられたっていうのに。逃げないように捕まえててやっただろ?」
ひらりと振った手のひらはまだ赤い。
「何故五十年もは私を避ける?」
「……さあ? 俺が答えられることは何もないね」
「兄の目的はなんだ?」
「俺はさ――お前が嫌いなんだよ、白哉」
張り詰めた糸のような空気に、白哉は目を細めた。
彼女がそう言ったのは、今とは真逆の雪の降る冬のことだった。その日のことを、楼侍は今でもよく覚えている。怒りのような、妬みのような、悲しみのような、感じたことのない感情が胸を染めたあの日のことを。
「おかえりなさいませ! 姫昭さま!」
冬の寒さで冷え切った廊下は素足にキツイものがあったが、それをものともせず楼侍は玄関まで駆け抜けていった。とは言っても彼が生まれ育った流魂街に比べれば大したことのない冷たさだ。“忍牙谷”は七十を越えた地区で、当然のように治安が悪く、ボロのような着物と素足でいつも駆けずり回っていた。
「ただいま戻りました。楼侍、廊下は走ってはいけませんよ」
「ご、ごめんなさい……」
当主の姫昭――夢梨にやさしくたしなめられ、楼侍は素直に謝罪をした。
「お土産をいただいたから、お茶にしましょうか」
微笑んでそう言った夢梨にうなずき、彼女の後ろを黙ってついて行く大人しい少女にちらりと視線を向け、楼侍は留守番をしていた間のことを細かに報告した。流魂街から楼侍を拾ってくれた夢梨は恩人であり、母だった。もっとも、この家には昔から流魂街にいる霊的素養のある子どもを拾って育てる風習があり、楼侍もたまたまその風習に乗っ取って拾われただけであるのだが。
夢梨の部屋で机に広げられた土産だという和菓子は、見るからに高級そうだった。花の形になっているそれは、綺麗すぎて本当に食べられるのか疑ってしまうほどだ。
たしか今日は朽木家に行くと言っていた。とは言え、楼侍には朽木家がどういう家なのかわからない。夢梨がどんな用事で行ったのかも。ちらりと夢梨を見上げると、まるで楼侍の気持ちを察したかのように「今日は朽木家のご当主様とお話があったの」と告げた。
「朽木家は、どんな家なのですか?」
「四大貴族の一つで、ご当主の銀嶺様は護廷十三隊の六番隊隊長を務めていらっしゃるわ」
「隊長……」
「お孫さんの白哉さんはやあなたと同じ年頃かしら……」
黙って土産の菓子を少しずつ食べていたの顔がハッと上がった。
「白哉さまと、お話をしました」
控えめな声はいつも通りだったが、その頬は心なしか紅潮しているように思えた。がこうして表情を緩めているのをはじめて見た気がする。いつもは楼侍を意味なく苛立たせるくらいビクビクしているのに。それでも楼侍はのことを放っておけないのだが。
「わたし……白哉さまのようになりたい」
「は?」と口から飛び出そうになった声を楼侍は寸でのところで飲み込んだ。その姿を思い出すようにどこかを見ているの横顔は今まで以上に美しく輝いて見える。その細い肩を掴んでその視線をこちらに向けたい衝動を、楼侍はどうすることもできなかった。
はじめて会った日からずっと、朽木白哉のようになりたいと思っていた。
子どもの頃はいつも何かに怯えていて――暴力をふるう父や、に蔑んだ視線を向ける使用人たちや、を忌み嫌う貴族たちに――母の傍だけが心休まる場所だった。楼侍のことでさえ、最初の頃は苦手だったのだ。
家の当主である母が、そんな内気なのことを案じていたことには気づいていた。自分が跡取りであることも自覚していたし、母が自分に何を望んでいるのかもわかっていた。それでも全てが恐ろしく、うつむく顔を上げることは永遠にできないと感じていた。
それはある冬の日、前日に降った雪が残っていたある日のことだった。
その日、は母、夢梨に連れられて四大貴族の一つである朽木家を訪れていた。家は昔から他の貴族から忌み嫌われていたのだが、母の努力によって心ある家はその印象を改め付き合いを持つようになってくれていたのだ。
も朽木家に行くことになったのは、その日は母以外も貴族の当主が集まることになっていて、その子どもたちも朽木家を訪れるだろうと母が考えたからだった。つまり、に友人ができればと母は願っていたのだろう。
「お前、虚なんだってな」
椿の匂いがいっぱいに広がっていた。冷たい冬の空気をものともせず、親の集まりに連れられて朽木家を訪れた子どもたちは、美しく整えられた庭で思い思いに過ごしている。そんな中、人目につかないような物陰で鈍い音が響いても、そこにいる子どもたちは誰も気がつくことはなかった。
目の前の男の子は、より幾分か年上に見えた。壁に追い詰められたようにはり付き、うつむいた顔を上げることができない。長い前髪と額に結ばれた紐から垂れた薄布が彼女の幼さの残る顔をその表情ごと隠していたが、誰の目から見ても彼女が怯えているのは明らかだった。そこに誰の目もないだけで。
自分を囲む男児に「ちがいます」と言いたくても震えて言葉にすることができない。自分の家がどんな風に周りから思われているのかは幼いなりに知っていたがこんな風に同年代の子どもたちに囲まれることははじめてで、はただ小さくなって震えることしかできなかった。
子どもたちは身近な大人たちの様子を見て、家が異質で蔑んでもいいものだと信じていた。皆、それなりの身分の生まれだ。その事実が彼らを傲慢にさせ、怯える少女に対して残酷にさせた。
「何とか言えよ」
また鈍い音が響いた。足元の小石を拾った男児が、にそれを投げつけた音だった。石の当たり所が悪かったのか、顔を隠していた綺麗な布がはらりと落ち、石が当たった場所が熱くなる。庇うように顔を隠してますます壁に向かって縮こまっても子どもたちの罵詈雑言と礫は止まることはなかった。
「何をしている」
そう、凛とした声がその陰の中に響くまでは。
子どもたちの息をのむ音が聞こえ、は恐る恐る顔を上げた。日の光が眩しく、その声を発した少年の姿はよく見えない。年は同じ頃だろうか……? 「何をしている」と再度放たれた声は、先ほどよりも幾分か怒りを含んでいるように思えた。
「答えられないようなことか?」
「そ、それは……」
今度は子どもたちがすっかり縮こまる番だった。はそこではじめて声の主が誰なのかを察した。
「己の立場を省みて行動をしろ。客人とはいえ勝手な振る舞いは許されないぞ」
ざりっと地面を踏む音にはじかれるように、子どもたちは口々に謝罪の言葉を述べながらその場から逃げ出した。薄暗い陰の下に残されたのは彼と、だけだった。
壁から体を離し、俯いたまま上目遣いには目の前の少年の様子をうかがった。彼が一歩歩み寄ったことで、日の光が隠していた表情がの目にもしっかりと映った。怒っている……。はそっと視線を逸らした。「どうして何も言わない」と彼は言った。
「言い返せばいいだろう」
黙り込んだに、深いため息が落とされる。
「行くぞ」
どこに? そうついて出そうだった言葉をは飲み込んだ。庭に出ても、子供たちの冷たい目やひそひそとした声が付きまとうばかりだ。もうすぐ親たちも出てくるだろう。そうすれば、その親たちもきっと同じようにするだろう。にはとても耐えられなかった。
一緒に来た母親が早く出てきてくれたらと、は心から願った。また、ため息が落ちる――不意に袖に重みが加わり、は思わず顔を上げてしまった。最後まで顔を隠していた前髪が揺れ、の幼い表情をあらわにした。
まだ少年らしさのある涼やかな瞳が、を見下ろしている。
決して優しい視線ではなかった。しかしその瞳には他の子供たちにあるような蔑みはなく、ただ呆れたようにを見ているだけだ。それでもにとって、同じ年頃の子供から向けられるはじめての色だった。
袖の重みは少年が掴んでいたせいだとは袖を引かれてやっと気がついた。戸惑い、慌てたように前髪で顔を隠すをよそに少年は庭を横切り、先ほどまでと打って変わってやわらかな冬の日差しの下にを連れ出した。庭を彩る、椿の傍に。
「どうしてそうびくびくする?」
は困ったように視線をさまよわせた。
「貴族なら、貴族らしい振る舞いをしろ」
厳しく、冷たい声音だった――しかしさまよっていた視線が止まり、は思わず瞠目して少年を見上げていた。彼は自分を同等に見ているのだと、その時はじめては実感した――立場的に言えば彼の方が随分と格上ではあったけれど、幼いはまだそのことを知らなかった。
心の奥がこの日差しのように温かい――長い間が空いてしまったが、それでもは「はい」と小さく返事をした。返事があると思わなかったのか、驚きを隠せなかった少年が少し意外で、はこっそり表情を和らげた。
彼のように――朽木白哉のように凛とした人になりたいと、心からそう思った。
「俺はさ、お前が嫌いなんだよ、白哉」
が白哉に対する憧れを口にした瞬間から、楼侍はずっと白哉が嫌いだった。
幼いが他人にそういう感情を示したのは後にも先にもあれきりで、母である夢梨はそれを大切にしたいと思ったのだろう。それからしばらくして、今度は楼侍も共に朽木家を訪れた。
が夢梨と訪れた時とは違い、何か集まりのようなものがあるわけではない。夢梨が朽木家の当時の当主である銀嶺に頼んで、白哉と共に斬術や歩法の基礎を学べるように計らってくれたからだ。楼侍もそれに参加した――白哉への対抗心が自身の力になったことは感謝しているが、それ以来、と白哉が友情を育んでいったのには複雑な気持ちを抱いていた。
「だけどはお前を慕ってる――唯一と言ってもいい友だからな」
楼侍がどう思おうとも、それは変わらない事実だ。
「がお前をいくら避けているとはいえ、俺よりお前の言葉の方がには響く」
「何が言いたい?」
「に隊長代理を辞めるよう言ってくれないか?」
はっきりとした口調で楼侍は言った。
「俺はに、危ない目にあって欲しくないんだ――」