「俺はに、危ない目にあって欲しくないんだ」

 その言葉が、本心からのものであるのはわかっていた。

「……兄がそれを言うのか?」

 不敵な笑みを口元に浮かべて白哉と対峙していた楼侍の表情が強張ったのを、白哉は見逃さなかった。

「どういう意味だよ? 俺はただを守りたいだけだ」
を守りたいと言いながら、兄の言動にはいつも傷ついている」

 苦虫を噛み潰した相手に、白哉は背を向けた。

「自分の思うようにいかぬからと言って、私を巻き込むな」

 確かに白哉にとっては大切な友で、危険な目にあって欲しくないという気持ちもわからなくはない。しかし同時に、白哉はの実力を認めていたし、彼女が自分で隊長代理を引き受けることを決めたのならそれをどうこう言うつもりはなかった。

 避けられている理由を、問いつめたい気持ちはあったが……。

 もしもこれがもっと幼い頃であれば、きっと自分も楼侍のようにを危険から遠ざけようとしたのだろう。はじめて出会った頃、彼女はいつも何かに怯えているようで、まさかその手に斬魄刀を握り、戦いの場に出るようになるとは思えなかった。何よりの家に生まれたことが、彼女にそれを選ばせないだろうと思っていた。

***

 家の者は護廷十三隊に所属しない――白哉は知識としてそれを知っていた。

 あの雪が積もっていた日からしばらくして、父、蒼純に改めて紹介されたのは家の継嗣であると、家で暮らしている孤児の忍牙屋楼侍だった。祖父や父が家の当主とどういうやり取りをしたのか白哉は知らなかったが、二人はこれから定期的に朽木家に通い、白哉と共に鍛錬をすることになったという。
 顔に出た不満は父になだめられ、白哉は渋々それを受け入れた。そもそも護廷十三隊には入隊しないという家の者が死神として鍛錬に励む意味はあるのだろうかとも思ったが、白哉が思っていた以上にも楼侍も実力の片鱗が垣間見え、鍛錬の足を引っ張るようなことはなかったのには安堵した。

 その日はたちと共に家の当主での母でもある夢梨も朽木家を訪れていた。まるで対になるように片目を隠したと楼侍は白哉の目から見てもいつもより鍛錬に熱がこもっているように思えた。相手を変えて手合わせをする中で、その剣筋から感じるものがある。

「普段から鍛錬をしているのか?」

 ふと、それまで疑問に思っていたことを白哉はたずねた。

「えっ?」
「鍛錬用の木刀だが、刀の扱いにも慣れている。家の者は護廷十三隊には入隊しないのだろう?」
「……基本的なことは母から教わっています。白哉さまのおっしゃるとおり、の歴代当主も母も護廷十三隊には所属していませんが、母は学院を出ていますから。でも、母はあまり体が強くないので白哉さまのように鍛錬というほどのことは今までできていませんでした」
「そうか」
「だからこのような時間を作っていただいて、とても感謝しています。わたしも、白哉さまのように強くなりたいのです」
「そ、そうか」

 同年代の子どもからこんなに純粋な尊敬の眼差しを向けられたのははじめてで、白哉はくすぐったさを必死に隠しながらなんとかそう返事をした。と同時に、別の方向から大きく舌打ちの音が飛び込んできてその気持ちをあっという間に霧散させ、白哉はぎろりと音の出所を睨みつけた。

「何だ? 言いたいことがあるならはっきりと言え」
「別に~」
「……」
「ろ、楼侍!」
「何だよ? 別に何も言ってないだろ」
家に世話になっている分際で随分と不遜な態度だな」
「は? 俺がにどういう態度を取ろうとお前に関係ないだろ」

 火花を散らす二人の間でがおろおろとしていた。

 楼侍は朽木家にはじめて来た時から白哉に対して不機嫌な態度を隠そうともしない。弱気なの態度にも苛立ちを覚えたが、彼女は接していくうちに心を開いてくれたのか内気さはあるも苛立つほどではなくなった。しかし楼侍はそれに反比例するようにどんどん機嫌を悪くしていた。

 が白哉を慕うのが気に入らないのだろう。

 子どもたち自身はどうかわからないが、少なくとも彼らを見守る大人はそのことに気づいていた。

「申し訳ありません、蒼純様。楼侍がご子息に失礼な態度を――
「いえ、白哉の言い方もよくなかった。それに子ども同士のことです」

 縁側で子どもたちの鍛錬を見守っていた夢梨は、楼侍の態度に眉を下げながらとなりに座る蒼純に頭を下げた。二人はまだ何か言い争っていたが、さすがにが間に入ったようだ。おどおどとしながらも二人をなだめる様子は、少し前では見られなかっただろう。

「白哉さんと知り合って、あの子は変わりつつあります。銀嶺様と蒼純様には本当にどうお礼を言っていいか……」
「いいえ――私の方こそ、同世代と接することで白哉の頭に血がのぼりやすいところが治まってくれたらと思っているので、お互い様ですよ」

 「まだ道のりは長そうですが」と目の前の光景に苦笑いをする蒼純に、夢梨は笑った。

 親たちの会話こそ聞こえなかったが二人が笑っているのが見え、「笑われているぞ」と白哉は楼侍を鼻で笑った。

「は? 笑われてるのはお前だろ」
「私のどこに笑われる要素がある? 貴様と一緒にするな」
「何だと……?」

 木刀を持つ手に力がこもる楼侍を見て、白哉もまた手に持っていた木刀をさりげなく構えた。

「二人とももうやめて!!」

 さすがにまずいと感じたの白い手がさっと木刀を握る楼侍の手を包んだ。ヒリついた空気は薄まり、睨みあっていた二つの視線はどこか驚いたようにへと向けられた。

「……そんな大きな声も出せるのだな」

 ぱちりと、きょとんとした赤茶色の瞳が瞬いたと思うと、の白い頬がぱっと赤く染まった。

「そ……そんなことは……」

 おどおどと俯いたを見ると、何となく肩の力が抜けた。不意に彼女がどこにでもいる普通の少女のように思えた。自分と同じ、貴族の嫡子という立場ではなく、町中を友人と歩きながらおっとりと何でもない日常のことをおしゃべりしているような、そんな――

 自分もそうなのだろうか?

 縁側でこちらの様子を見ている父に視線を向けると、その視線に気づいたのか父は穏やかな笑みを浮かべた。自分はまだ子どもなのだろうか? ごく普通の――いや、こうして些細なことで目の前の同世代と言い争いをしているようではきっとそうなのだろう。

 押し黙った白哉にがどこか遠慮がちな、不安そうな視線を向けていた。

 ふと自分の表情が和らぐのを白哉は感じた。の赤茶色の瞳が驚きに見開かれ、そこに映った自分の表情に、内心で驚きを禁じ得なかった。

***

 大きくため息をつきながら、くさくさした気持ちで楼侍は帰路についていた。白哉はああ見えて優しいところがあることを昔からの知り合いである楼侍は知っていたし、のことを大切な友人でどこか妹のように思っているらしいということも知っていた。
 が今、復職――しかも隊長代理になんてなったら、これからはじまるという大きな戦いに否応なしに巻き込まれるのは間違いない。だから白哉を焚きつければ、の就任を反対すると思ったのだ。そうすればもしが隊長代理を断れなくても、危険なことをするのに足踏みするだろうと。

 流魂街で毎日生きるか死ぬかの生活をしていた楼侍が家に拾われて随分立つ。ここまで育ててくれた恩もあるが、何よりも先代の当主――楼侍を拾ってくれた張本人である夢梨が死の床で願ったことを、忘れたことはなかった。

――あの子を守ってあげてね

 細くなった手を握り、楼侍はその約束を守ると誓ったのだ。だからずっと、を守ってきた。自分なりのやり方で。

「あれ?」

 握りしめた拳が不意に背後からかけられた声に緩められ、楼侍は振り返った。

「珍しい。楼侍くんじゃない」
「京楽隊長!」

 偶然通りかかったのだろう。八番隊の隊長である京楽が副官である伊勢七緒と共に目を丸くしてこちらを見ていた。

「お久しぶりです……七緒も、デカくなったな」
「忍牙屋さんもお変わりなく」

 「楼侍でいいって昔から言ってるだろ」と笑いながら言えば、七緒は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。かつて八番隊に所属していた楼侍は席官を務めていたため、七緒にとっては上官だった。そう気軽に名前で呼ぶのは難しい。

「こんなところでどうしたの?」
「あー、いや……四番隊にの付き添いで……ほら、五番隊の副隊長の子をお見舞いに行くってが」
ちゃんは?」
「先に帰られちゃって……」

 バツが悪そうな顔をする楼侍に、京楽は首を傾げた。

 白哉が忍牙屋楼侍と対峙してから数日、は慣れない隊長業務をうまくこなしているようだった。霊術院で教鞭を取っていたのもあり、隊員にも受け入れられているらしい。そのことを直接本人から聞いたわけではないのは、白哉が相変わらず彼女に避けられているからだった。

 どうしてに避けられるようになったのか理由はわからない。が、よそよそしくなったと感じたのは緋真が死んだ頃だったと思う。緋真の妹を捜すことに協力してくれた彼女は、ルキアが見つかると途端に白哉との関係を断ってしまった。

 五番隊の隊舎に彼女はいる。しかし通りかかったそこを見上げることはできても、一歩踏み出すことはできなかった。

 白哉が話をしたそうにしていることはわかっている。

 今日も五番隊の隊舎の近くに彼の霊圧を感じた。そのことを思い出すと口から無意識のため息がこぼれる。それを耳にして「お疲れですか?」とたずねたのはちょうど隊主室に書類を受け取りにきた三席の石和厳兒いさわげんじだった。

「いや、何でもない」
「……それならいいんですけど、あまり無理しないでくださいよ」

 急に決まった隊長代理である彼女だったが、慣れない仕事もそつなくこなしてはいた。しかし破面との戦いのこともあるし、傍から見ている以上に疲れが溜まっている可能性は高いだろう。せめて表情や顔色がわかれば判断もつくのだろうが、覆面で隠されたそれはうかがうことができない。

「正直、隊長が代理になってくれて助かったんです。俺だけじゃやっぱり回せないところも多くて」

 ぽつりと、厳兒は告げた。

「でも隊長だって、突然の就任だったし、無理させていたら申し訳ないというか……」

 もし倒れられたら大変だ。仕事もそうだが、霊術院での講義を受けていた卒院生の中にはに憧れる者も多く、それはこの五番隊にも当然いた。何かあれば恨まれそうだ。

「無理はしていない」

 きっぱりとした口調は突き放すようにも聞こえたが、不思議とどこか優しさを含んでいるようにも思えた。

「わたしのことよりも隊員たちに気を配っていてくれ。わたしだけでは目が足りないからな」
「は、はい」
「書類はこれで全部だ」
「ありがとうございます」

 硯と筆を片づけ、立ち上がったは。

「少し……外の空気を吸ってくる」
「そういえばそろそろ昼時ですね」

 閉め切られていた隊主室の扉を開ければ、こもっていた空気が息を吐くように外へと流れて行った。見上げた空は澄み切った青空で、穏やかな風がの頬を撫でて行く。平穏な時間だった。この時間が、もう間もなく終わろうとしていることなど信じられない程には。

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