第一章
という少女

 シリウス・ブラックは18歳だった。

 紅色の車体がゆっくりと走る音と親友たちのしゃべる声が交じり合って、不協和音のようにどこか煩わしくシリウスの耳に届いていた。
 しかし、苛立ちさえ感じない。何もシリウスの心を動かせなくなっていた。もうしばらく前から―― あの、クリスマスの日からだ。
 窓から見える景色は次々と後ろに飛んでいく。ホグワーツ特急から見る景色はもうこれ見納めかもしれないのに、汽車はいつもと変わらないスピードでその景色を流していってしまう。

 見納め……。

 そうだ……卒業したんだ。動かなかったシリウスの心が、ほんの少しだけ揺らいだ。シリウスは昨日、ホグワーツを卒業したばかりだった。

 本当なら、

 シリウスはふと、視線を窓から思い出話で盛り上がる親友たちに移した。

 本当なら、ここにもいたんだろうか……?

 。自分がその手を離してしまった彼女も。

 2人きりのコンパートメントは広く感じる。リリー・エバンズは窓枠に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。きっと向かい側に座る親友のルナ・アーヴィングも同じように過ごしているのだろう。
 本当なら昨日ホグワーツを卒業したばかりで、思い出話に花を咲かせていたはずだ。そう、もしこの場にいるのが3人だったら。

 わたしと、ルナと、だったら――

 でも、はもういなくなってしまった。あの、雪の降るクリスマスに。

「今ごろシリウス、何してるのかな……」

 ぽつりと、ルナが呟くように言ったので、リリーは窓から親友の方に視線を移した。ルナのブルーの瞳は、憂いを帯びて窓の外を見つめたままだった。

「そうね」

 独り言かもしれない。それでもリリーは呟いた。苦しげなシリウスの横顔が脳裏に浮かんで消えた。

「シリウスも、こっちのコンパートメントに来ればいいのに……」

 またルナは黙り込んでしまった。しかし、リリーにはルナの言いたいことがよくわかった。ルナはきっとシリウスが、彼の親友たちと同じコンパートメントにいるのは辛いだろうと思っているのだ。
 リリーもそう思っていた。ジェームズたちは―― 少なくとも、ジェームズは―― のことをよく思っていないのだ。シリウスの恋人だった、のことを。

 クリスマスの後、誰もがはシリウスを裏切ったのだと思った。それでもシリウスはを想い続け、1人で傷付いてきた。それが余計に、ジェームズには許せなかったのだ。きっとシリウスも、そんなジェームズの思いに気づいているのだろう。彼は頭がいいから。

 でも……

 リリーは思った。

 でも本当に、はシリウスを裏切ったの?

 リリーも、それにルナも、そうは思えなかった。きっとシリウスだって思っていない。は人を裏切るような子ではないのだ。ホグワーツの他の大勢の生徒がそう思っていても、彼らが一体の何を知っているというのだろうか。

 シリウスとリリーは、それぞれのコンパートメントで、全く同じ瞬間に、全く同じように窓の外に広がる空を見上げた。そして2人は同じように、とはじめて出会った日のことを思い出していた。

 それはホグワーツに入学した日。組分けの儀式。

 

 シリウス・ブラックは11歳だった。

 生まれてはじめて感じる胸の高揚に、シリウスは満足げな笑みを浮かべた。大広間は戸惑いに包まれ、本来なら拍手と歓声で新入生の獲得を喜ぶはずの寮でさえ上級生のひそひそとした声が奇妙な空気を作っている。
 それも仕方ないことだとシリウスは思った。何しろ自分は……シリウスは自分の寮の名前を思い返し、また口元を緩めた。グリフィンドール、だ。
 組分け帽子は確かにそう言った。シリウスが生まれたブラック家はみんなスリザリン出身だというのに、シリウスはグリフィンドールに組分けされたのだ。シリウスはそれを心から望んでいた―― スリザリン以外の寮に入ることを―― しかし、誰もがシリウスもスリザリンに違いないと疑うことすらしなかった。
 だからこんな雰囲気になってしまったのだ。シリウスは大して気にも留めず、真っ直ぐにグリフィンドールのテーブルに向かって、空いている席に座った。大広間の戸惑いは、次の新入生の名前が呼ばれることによって打ち消されていた。

 ジェームズはグリフィンドールに入るだろうか。

 汽車でできた友人の顔を思い浮かべながら、シリウスはぼんやりと組分けを見守っていた。

!」

 厳格なマクゴナガル教授の声が1人の少女の名前を呼んだ時、シリウスは一度瞬きをした。

 大広間中に浮かぶろうそくの赤い光が、キラキラと少女の髪に反射している。銀色だと、シリウスは思った。
 前に進み出たのは小柄な少女だった。緊張のためか赤くなった頬のままぎこちない足取りでスツールに腰掛けた彼女は、ゆっくりと帽子をその銀色にかぶせた。
 伏目がちのその瞳はシリウスの薄灰色の瞳とよく似た色をしていたけれど、シリウスは彼女の瞳に星を浮かべたような輝きを見つけた。きっと瞳もその髪と同じ、銀色なのだろう。

 

 頭の中でその名をくり返せば、じんわりとの名前はシリウスの脳に染み渡っていく。は綺麗だった。シリウスはほど綺麗な子を見たことがなかった。

 同じ寮だったらいいのに。

 もしそうでなかったら、帽子を引き裂いてやる……シリウスはじっとの組分けを見つめた。ひどく長い時間がかかったような気がした―― いや、本当は一瞬だったかもしれない。帽子は他の新入生の時と同じように大きな声で寮の名前を叫び、帽子をはずしたは安心したような微笑みを浮かべていた。

 グリフィンドール……! 帽子が自分と同じ寮に彼女を組分けしたのだ。の微笑みを見て、シリウスは何だか急に胸が苦しくなった。自分の時とは違い、は上級生に歓迎されながらグリフィンドールのテーブルについた。シリウスと、少し離れた席に。

 あの、笑顔のままで。

 もし時間が永遠にあったら、きっと自分はのことを見つめ続けるのだろうと、その時のシリウスは信じて疑わなかった。
 宴会の最中に横目で見るは、戸惑いながら上級生の話に相槌をうっている。もっと席が近ければ、自分もと話せただろう。はどんな声をしているのだろうか。とても想像できなかった。

 しかし宴会が終わり監督生の引率でグリフィンドール塔に向かう時になって、シリウスは今の今まで視界の端に入れていたはずのの姿を見失ってしまった。新入生の列はもう動き始めていたが、先頭から最後尾まで見渡してもの銀色の髪は見当たらない。
 周囲は他の寮の新入生の列や、同じように寮に戻ろうとする生徒であふれかえっていた。
 もしかしたら、はぐれたのだろうか……シリウスは心配になった。そうなると、いてもたってもいられなかった。
 ジェームズに声をかけ、シリウスは1人列から外れてを捜しに行った。自分より背の高い上級生の間を潜り抜けるのはひと苦労だ。そんなシリウスより背の低いは、大丈夫だろうか?

 列から大分離れたところで、シリウスはやっとの姿を見つけることができた。彼女は壁を背に立ち竦んで、人がいなくなるのを待っているようだった。離れたところからでも、が困ったように眉を下げているのがよくわかる。シリウスは、に駆け寄った。

 頭の中にしみこんでいた名前を、シリウスは呼んだ。ハッとしたようにが顔を上げたのに、シリウスは自分の心臓が大きく揺れるのを感じた。

「えっと……ブラック、くん? どうして……」

 初めて聞くの声は、小さな鈴が鳴る音に似ていた。それはとても心地よく、シリウスの耳に届いた。

 「ここにいるの?」そうたずねたに、「君の姿が見えなくて」とシリウスは口篭った。
 「捜しに来たんだ」シリウスは自分の顔が熱くなるのを感じた。はシリウスの言葉に驚いたように目を丸くした。「どうして?」というの言葉が、どうしてがいなくなったことに気づいたのかという意味と、どうしてわざわざ捜しに来てくれたのかという意味のどちらなのかわからない。

「気になって……」

 無難に、シリウスは答えた。はまだ不思議そうな顔をしていた。

「いなくなったのに気づいたから。他は、誰も気づいていなかったみたいだし……」

 瞬きをする、のまつ毛は長かった。「ありがとう」とお礼を言って微笑んだの表情がひどく綺麗で、シリウスは言葉が出なかった。

「行こうか?」

 何とかそれだけ言って、シリウスはがもうはぐれたりしないように、の白くて小さな手をしっかりと握り締めた。

 赤と金のネクタイを締めた上級生を見つけ、シリウスとは何とか無事に寮に行くことができたし、合言葉を知ることもできた。
 初めて入る談話室は赤が基調とされた温かで居心地のよさそうな場所だった。親切な上級生が男子寮と女子寮の入り口を教えてくれた時、シリウスはここでとはお別れなのだと気がついた。
 そっと手を離すと、何だか無性に寂しくなった。

「ブラックくん」

 鈴の鳴る声が聞こえ、の指先を見ていたシリウスは顔を上げた。

「ありがとう」

 ふんわりとは微笑んだ。シリウスはぎゅっと唇を噛み、その返事を探したが、見つけることができずに首を縦に動かした。

「また、明日ね?」

 「おやすみなさい」とは言って、女子寮の階段を上っていった。

「おやすみ」

 その背中にかけた小さな声が、ちゃんとの元に届いたか、シリウスにはわからなかった。

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