第一章
という少女

 ここが……。

 何ともいえない気持ちで、リリー・エバンズは自分がこれから7年間を過ごす部屋を見渡した。
 組分け帽子によってグリフィンドールに組分けされたリリーは、宴会を終えてグリフィンドール塔の女子寮にいた。
 家族と離れて暮らす寂しさや、魔法界という未知の場所への不安が胸の中をぐるぐるとしている。それから、9と3/4番線での姉とのやりとりが。ペチュニアに言われたことを思い出すと心臓を握りつぶされたような感覚がリリーを襲った。逃げるように新しい生活のことを考え、リリーはできる限り自分の頭の中を新生活の期待でいっぱいにしようと努めていた。

 ルームメイト同士での自己紹介を終え、リリーは5人部屋のベッドの1つに明日着る制服を広げていた。他の子たちも思い思いのことをしている。ステファニーとカロリーナは高い声でお喋りをしていたし、もう1人のルームメイト、ルナ・アーヴィングはベッドに寝そべって本を読んでいた。
 そこでふと、リリーはルームメイトが1人足りないことに気がついた。ここは5人部屋なのに、ベッドが1つ空いてしまっている。上級生に言った方がいいのかしら?リリーは部屋の入り口に視線を向けた。

 バタンと、大きな音を立てて入り口が開いたのは、ほとんど同時の出来事だった。

 ステファニーとカロリーナのお喋りはピタリとやみ、本を読んでいたルナは首を伸ばすように顔を上げて入り口を見ていた。

 綺麗……。

 リリーは大広間の天井に映っていた星空を思い出した。銀色が、キラキラと輝いている。緊張を浮かべた瞳も星空を溶かしたような銀色で、リリーは彼女がきっと最後のルームメイトなのだろうなと思った。

「あの……」

 控えめな、それでも澄んだ声がその子の口から漏れた。

「遅れてごめんなさい……です」

 うかがうように彼女は視線を動かしていた。遅れてきた気まずさがあるのだろう。リリーはにっこりと微笑んで、そんなに手を差し伸べた。

「わたしはリリー・エバンズ。リリーでいいわ。あなたが最後のルームメイト?」
「う、うん」
「よろしくね」

 こくりと頷いて、は遠慮がちにリリーの手を握り返した。

「あそこがあなたのベッドよ」

 指を差して教えてあげると、はまた頷いてそのベッドに向かってしまった。

 は非常に大人しい女子生徒だった。入学して1ヶ月ほどたったが、同じ部屋のリリーでさえ、挨拶以外で喋ったことは数えるほどしかない。きっとそれは、リリー以外のルームメイトも同じだろう。何しろどんなに気をつけて彼女の様子を見ていても、他のルームメイトと一緒にいるところを見かけることがないのだ。
 大抵のとき、は1人で本を読んでいる。授業後はほとんど図書館で過ごしているようだ。そして、今日もは1人で本を読んでいた。

 話しかけるべきか迷っていた。借りていた本を返しながら、リリーはちらりと窓際の席にいるを見た。と仲良くしたくないわけではなかったけれど、今までずっと関わらずに来たせいか何となく接しづらい。

 それに……

 は大人しい性格のせいか、少し髪と瞳の色が人と違っているせいか、スリザリンの嫌味やいじめの格好の餌食になっていた。マグル生まれである、リリー以上に。
 この1ヶ月で、リリーはスリザリンがどんなに卑劣か身をもって理解した。だからこそ、と一緒にいることで、それが助長されるのは嫌だった。
 でも、そう考えてしまう自分がもっと嫌だと、リリーは思った。

 挨拶くらいしよう。

 背後を通った大嫌いな目立ちたがり屋のジェームズ・ポッターと彼の親友のシリウス・ブラックを避けながら、リリーはそう決意しての元へ1歩足を踏み出した。けれど

「や、やあ……

 リリーはそれ以上足を動かすことができなかった。ジェームズの後ろを歩いていたシリウスが立ち止まって、に声をかける姿を見てしまったからだ。
 本を読んでいたはその声に顔を上げ、挨拶を返しているのだろうか……彼女の口が少し動くのが見えた。
 2人はそれから二言三言話し、シリウスはジェームズと一緒に図書館の奥の方へ行ってしまったし、その後姿をしばらく視線で追っていたもまた本を読み始めた。

 何となく、それがショックだった。

 自分は挨拶するのにも気を遣うのに、よりにもよってシリウス・ブラックがさりげなく―― 多少、緊張していたようだったけれど―― に声をかけることができるなんて。
 ホグワーツに入学して、シリウス……というよりも、ブラック家のことをリリーは何人かの友人から聞いていた。
 そのブラック家の評判と、大嫌いなジェームズ・ポッターと一緒にいるという事実がリリーの中のシリウス・ブラックのイメージを構築していたから―― 彼の顔立ちがどんなに素晴らしいかという評判には、リリーは興味を持てなかった―― 正直あまり好感を持っていなかった。
 リリーは振り返って図書館を出た。何だかイライラする。

 寮に戻る途中、それなりに親しい同級生に出くわして、リリーは彼女たちと一緒にお喋りをしながらグリフィンドール塔に戻った。その間も、ずっとそのイライラは治まらなかった。

 消灯時間よりもずっと前に、は部屋に戻っている。それを知っていて、今日はリリーも早目に談話室から部屋に戻っていた。そして思ったとおり、今、部屋には自分としかいない。
 リリーはチラリとベッドに座って相変わらず本を読んでいるを見た。何か声をかけたかった。

 でも、何て?

 図書館でのシリウス・ブラックの姿が脳裏に浮かんだ。また、イライラする。
 それを誤魔化すように、リリーはベッドサイドの机に置きっ放しだった読みかけの本を手に取った。ホグワーツに来るとき何冊か持って来た、お気に入りのマグルの世界の小説だった。入学したばかりは寝る前に少しずつ読んでいたのだが、魔法界の本が面白くて、ずっとそのままにしておいたのだ。
 2人が本のページをめくる音だけが部屋に響いていた。でもリリーは、ちっとも本に集中することができなかった。

 どうして、

 どうして、こんなにイライラするのだろう。次の日も、次の日も、の姿を見るとあの図書館でのことが思い出されて、リリーはそのたびにイライラした。しかもシリウス・ブラックがに声をかけるのをそれから何度か目撃して、リリーはますます嫌な気分に陥っていた。

「魔法薬学」の授業で、たまたま同じペアになったシリウス・ブラックとの後姿を見ながらリリーはほんの少し眉を顰めた。2人の間にほとんど会話はなかったけれど、時々シリウスが内緒話をするようにに顔を寄せて喋るのが気に入らなかった。

「どうかした?」

 一緒のペアになった同室のルナ・アーヴィングが、そんなリリーの顔を首を傾げながら覗き込んだ。そういえば、彼女ともほどではないけれどそんなにお喋りをしない。

「何でもないわ」

 幾分か落ち込んだ声で、リリーは短くそう言った。それから一緒に授業を受けているスリザリンの方を見た。スリザリンの友人は、ペアになっている同級生に目もくれず、黙々と作業を進めている。
 彼に悩みを打ち明けようかと思った。リリーは誰かにこのイライラのことを話したい気分だった。ルナがまだ自分をじっと見つめてるのに気付いて、リリーは今度はルナに眉を顰めて見せた。

「わたしに、何か言いたいの?」
「別に」

 ルナはちょっと肩を竦めた。

「そんなにとシリウスが気になるのかなって」
「えっ?」

 何でもないことのように言ったルナのセリフに、リリーは明るいグリーンの瞳を丸くした。

「どうしてわたしがあの2人のことを気にしてると思うの?」

 課題はもう出来上がっていたので、それをしっかり瓶に詰めて蓋をしてから、リリーはルナのほうをしっかりと見た。

「だってさっきからずっと見てるし……何だかイライラしてるなって」
「どうしてイライラしているって思ったの?」

 何だか聞いてばかりだと思いながら、それでもリリーは聞かずにいられなかった。

「うーん……何となく? でも、ちゃんと見てればわかることって、多いよ。みんなちゃんと見ていないし、中々気付かないけど。ほら、“夜の騎士バス”にマグルが気付かないみたいに……」
「ナイト・バス?」
「あー、リリーはマグル生まれだっけ? 寝台バスだよ。魔法使いの……ロンドンとかをよく走ってるけど、乗り心地は最悪なんだ……“夜の騎士バス”はロンドンの街中をどんなに走っても、絶対マグルには気付かれないの」
「それって、魔法?」
「どうなんだろう?」

 ルナはそう言って首を傾げると、空っぽの瓶に作った「縮み薬」を入れて蓋をした。リリーはその横顔をじっと見つめていた。ルナのどこか他の人とは違う雰囲気が、リリーの胸の奥をくすぐった。

「あのね」

 リリーは思い切って口を開いた。

「わたし、なんだかあの2人を見てるとイライラするの……ブラックが、に話しかけてるのを見ると」
「ふぅん」

 瓶に名前が書かれたラベルを慎重に貼りながら、ルナは相槌を打つ。一見、あまり興味がなさそうな返事だったけれど、ルナはちゃんと聞いてくれているような気がした。

「どうしてだと思う?」
「それは、きっとあれだよ」

 ラベルが綺麗に貼れたのか、ルナは満足そうだ。

と仲良くなりたいからじゃない?」

 「リリーの課題も出してくるね」ルナはそう言って、生徒の課題を受け取るスラグホーンのところへと行ってしまった。

 リリーはしばらくぽかんとその姿を見つめていた。と仲良くなりたい? それは、別に仲良くなりたくないと思っていたわけではないけれど、改めて言われると何だか変な気分だ。
 それに、それと2人を見るとイライラするのと、一体何が関係あるのだろうか。

 リリーは「魔法薬学」が終わった後もルナの隣を歩いていた。マグルと魔法使いのハーフだというルナは、リリーと共通の話題も持っていたし、リリーの知らないことも知っていた。
 でもそれよりもリリーがルナともっと喋りたいと思った理由は、彼女がリリーの悩みに的確なアドバイスをくれるような気がしたからだ。

「要するに、リリーはシリウスがに普通に話しかけてるのが気に入らないっていうか……まあ、気に入らないんでしょ?」

 夕食に出てきたソーセージをフォークでつつきながら、ルナは思うままにリリーに話していた。

「うん」
「リリーはシリウスにやきもちを妬いてるんじゃないかなぁ?」
「やきもち?」
「そう。リリーはと仲良くなりたいって思ってる。でも、うまく話しかけられない。それなのに目の前で大嫌いなシリウス・ブラックがリリーのできないことをやってのけた。それが、リリーには悔しかったんだよ」

 ルナはフォークでソーセージを半分に割った。

「でもやきもちって、好きな男の子が他の女の子と仲良くしているときにするものじゃないの?」
「そうでもないよ」

 リリーは少し考えた。ルナの言うことは正しいかもしれない。自分は、と仲良くなりたいのだ。そのために、話しかけたいのだ。でもそれができなくて、簡単にやってのけたシリウス・ブラックを妬んでいるのだ。
 でも、その気持ちがわかったところでどうすればいいのだろう? 話しかけることができるのだろうか? そもそも、今更何て話しかければいい?

「わたし、どうしたらいいのかしら……」
「さあ?」

 ミニトマトをさっきのソーセージのように半分に割ろうと苦心しながらルナは言った。ルナは興味がなさそうで、それでいてちゃんと話を聞いてくれているのだということが、リリーにはもうちゃんとわかっていた。それでも、何だか不安になる。

「でも結局、仲良くなりたいなら話しかけるしかないんだよ」

 ルナはそれだけ言って、半分に割るのを諦めたミニトマトを口の中に放り込んだ。

 そうは言っても、急すぎるんじゃないか。夕食後、ルナに手を引かれてリリーは談話室に立っていた。いつもなら早々に部屋に引っ込んでしまうが、今日は暖炉の前でいつも通り本を膝の上に広げていた。
 少し離れたところでジェームズ・ポッターと騒いでいるシリウス・ブラックがそんな彼女をちらちらと気にしているように、リリーもルナものことを気にしていた。

 リリーは不安そうに隣にいるルナを見た。ルナの澄んだブルーの瞳は、真っ直ぐにを見つめていたが、彼女が何を考えているのかリリーにはさっぱりわからなかった。

「チャンスだよ」
「えっ?」

 ルナは唐突にそう言って、リリーの腕を引っ張って1人で本を読んでいるに向かって歩き始めた。そしてすぐに、が座っているソファの空いているスペースに、リリーと一緒に滑り込んでしまった。

「何読んでるの?」

 リリーはその明るいグリーンの瞳を大きく見開いてルナを見た。頭の中が洗濯したばかりのシャツみたいにさっぱりとしている。

 そっか……。

 そう言えばよかったんだ。は読書が好きで、いつも本ばかり読んでいることをリリーは当然のように知っていたのだから。それを話題にすればよかったのだ。リリーだって、本を読むのが好きなほうだったし。
 そしてリリーは、何だかルナがこの世で一番のものしりのように思えた。ルナはリリーの疑問にいつだって明確な答えをくれるような……どうして今までルナと仲良くしてこなかったのか、リリーにはさっぱりわからなかった。

 ルナに唐突に話しかけられたに、リリーは視線を向けた。は驚きにその銀色の目を丸くして、まじまじと2人を見つめていた。

「何を読んでるの?」

 ルナがもう一度たずねた。

「えっ? あの……薬草学の教科書を……」
「薬草学、好きなの?」
「う、うん……」

 戸惑ったようには視線を動かしながら、右手で肩から流れる銀色の髪に触れた。

「あの、どうしたの……?」

 それからは遠慮がちにリリーとルナにそうたずねた。きっと、どうして突然話しかけられたのかわからないのだろう。リリーはルナと顔を見合わせた。

「別に何か特別な用事があるわけじゃないの」

 リリーは少し考えてから口を開いた。

「ただ、わたし……ねぇ、って呼んでもいい?」
「えっ?」

 パチリと、は一回瞬きをした。

「それって……」
「わたしたち、と仲良くしたいなって思ってるだけだよ」

 イタズラっぽくルナが言うのに、リリーも笑顔で頷いた。の白い頬が真っ赤に染まって、彼女は2人をしばらくの間見つめていた。

「ダメかしら?」

 大きく首を振ったに、リリーとルナは安心したように頬を緩めた。の右手は、もうその銀色の髪に触れてはいなかった。

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