子どもの頃からよく同じ夢を見ていた。
乾いた風が土と、ほんの少しの緑の匂いを運んでくる。地面も空もどこまでも遠く遠くつづいている。「ここではないどこか」でわたしは「わたしではないわたし」だった。石造りの大きな建物の中にいて、人目を忍んで廊下を進んでいた。
奥へ奥へと進むにつれて廊下に差し込んでいた太陽の光はうっすらとした陰鬱さに遮られて行き、どこか別の空間に迷い込んでしまったかのように薄暗さが支配していった。
それでもかまわず奥へ進むと、大きな扉の前にたどり着く。「わたしではないわたし」は何のためらいもなく扉をノックすると、返事を待つこともなく扉を開いた。
廊下と同じように薄暗い部屋の奥、窓辺に男の子が座っている。
この薄暗さに似たさみしさが彼の周囲を包んでいた。
不機嫌そうに振り返った彼は勝手に部屋に入ったことに苦言を呈した。「わたしではないわたし」はさして気にも留めずに持っていた花束を彼に差し出す。色合いも何も考えられていない、古紙で包んだ手作りの花束だ。
草原色の瞳が差し出された花束を一瞥し、彼はふんと鼻を鳴らした。花の香りの中で、彼の草原色の瞳がやさしげにやわらいだことに「わたしではないわたし」は気づいていた。
わたしは、そんな草原色の瞳の男の子のことが好きだった。
いつの間に眠ってしまったのだろう? 目の前は真っ暗で、今が何時かもわからない。いや、それどころか眠ってしまう前に何をしていたのか、どこにいたのかもわからない――頭の中がぼんやりとしていて、思い出そうとしても記憶がぐるぐると渦巻く感覚だけがして必要な情報を引き出すことができなかった。
は春に高校へ入学したばかりの女子高生だ。子どもの頃はよく不思議な夢を見てはそのことをまるで本当にあったかのように話すため、変わった子だと思われていた。
今はそんなこともなく、五人兄弟の末っ子という以外は平凡で、特別趣味も特技もなく、かと言って退屈を感じるほどでもない日々を過ごしていた。
少なくとも、平日だったはずだ。学校から帰って、それから……はとりあえず起きようと腕に力を入れて体を起こした――はずだった。
「痛っ!?」
ガンっと鈍い音が響くと同時に目の前に星が散った感覚がした。はてなマークを頭に浮かべながら何にぶつかったのか腕を伸ばそうとしてはじめて気がついた。真っ暗で見えなかったが、自分はどうやらどこか狭い箱のような物の中にいるようだった。一体、どうして……?
狭い中でなんとか手を動かしあちこち触れてみると、そこはぴったりと体が納まるくらいの大きさで、意外とやわらかく手触りのいい布で周囲は包まれている。とにかくここから出なければとはあちこち力いっぱい押してみたがどこもかしこもビクともしない。
その時だ。ガタガタと外から音がした。誰かが何かしゃべっている。入っている箱のような物が揺れ、ほとんどぴったりのサイズとはいえ地味に体のあちこちがぶつかり、はぎゅっと身を縮めた。うっかり叫べば、舌を噛みそうだ。
「うーん、この蓋、重たいんだゾ……! こうなったら奥の手だ!!」
「ふな~」と気の抜けた叫び声が聞こえたかと思うと今まで感じたことのない熱が襲いかかってきた。驚いて目を開くと同時に視界を遮っていた暗闇が吹き飛ばされ、代わりに青い炎が目の前を横切った。
「か、火事!?」
「ぎ、ギャー!!?」
勢いよく起き上がると炎はいつの間にか消えていた。代わりに、黒い毛玉がの視界に飛び込んできた。
「な、何でオマエもう起きてるんだ!?」
「ね、猫!? えっ!? しゃべってる!!」
「猫じゃねぇ!! グリム様だ!!」
ぷにぷにとしたお腹がかわいい――ではない。よく見れば確かに猫に似ているものの、耳元には先ほどと同じ炎があるし、しっぽの先は三つに分かれている。混乱する頭で辺りを見渡せば全く見知らぬ部屋の中だった。黒い棺がいくつも浮いている……そしてが閉じ込められていたのもまた、同じ黒い棺だった。シャンデリアの下でぼんやりと光っているように見える。
「何、ここ……?」
呆然とするの上着をグリムと名乗ったその猫のような生き物がしっかりと掴んだ。よく見ると着ている物も見覚えがない。フードのついた、長めの裾と広がった袖の服だ。裏地や袖口などに金色の糸で緻密な刺繍が施されている。この薄暗い部屋の中でも、不思議とその服の深みのある黒は印象的にの目に映りこんだ。
同時に、その見覚えのない服以外にも猛烈な違和感を覚えた。何だろう――? 見下ろしたその服から違和感の正体をつかむ前に、視界ににゅっと丸くて黒い手が伸びてきた。グリムだ。
「着ている服をオレ様によこすんだゾ!」
ぐいぐいと引っ張るグリムの手を「やめてよ!」と力づくで引きはがした。
「コイツ……! よこさないなら、丸焼きだ!!」
思い切り息を吸い込んだグリムの口に先ほど見た青い炎がちらつく。こんな至近距離で炎を出されては、丸焼き――少なくとも酷い火傷を負うのは間違いない。は転がるように棺から飛び出ると、「待つんだゾ!」という声を背中にその暗い部屋を飛び出した。
石造りの廊下も、広い庭も、通り過ぎたいくつかの広い部屋も、何もかも見たことがない。自分はいったいどうしてこんなところにいるのか、ここはどこなのか、不安が吐き気のようにこみあげてきて、視界が滲みそうになる。
夢なら早く醒めて欲しい――
パッと飛び込んだ部屋は、緑色の光のランプで照らされた天井までつづく高い本棚が所狭しと並んだ部屋だった。図書室のようだ。異様なことに、何冊かの本が宙にふわふわと浮いている。信じられない光景に立ちすくむと、再びあの青い炎が視界を横切った。
「追いつめたゾ、ニンゲンめ! 大人しくその服を――ふぎゃっ!?」
しかし恐れていたことは起きず、突然襲って来た紐がグリムのぷにぷにとした体を拘束した。カラスを思わせる黒い仮面をつけた男が、険しい雰囲気をまとってそこに立っている。グリムを止めたのはその男のようだった。
「やっと見つけましたよ。君、今年の新入生ですね?」
頭を抱えたくなった。散々を追いまわしたグリムが追い出されたことで騒動は去ったが、そんなことどうでもよくなる程だった。どうやら自分は異世界らしき場所に来てしまったらしい。
ツイステッドワンダーランドもナイトレイブンカレッジも魔法士も何もかも全く初耳だ。最初に逃げ込んだ図書室に仮面の男――この学園の学園長であるクロウリーと共に再び訪れ、その事実を突きつけられたはもう言葉も出なかった。
「魔法を使えない者をこの学園に置いておくわけにはいかないですが、かと言って着の身着のままの若者を放り出すのも教育者として胸が痛みます。私、優しいので。そうですね……学園内に今は使われていない建物があります。掃除すれば寝泊まりくらいはできるはずです。そこをしばらく宿として貸し出しますから、その間に元いた場所に帰る方法を探るというのはどうでしょう?」
「早速向かいましょう」と連れていかれた寮は想像以上にオンボロだった。汚れている、どころか、壁紙ははがれ、床板もところどころ浮いたり穴が空いたりしている。カーテンはボロボロで、天井は今にも落ちてきそうだ。
「雨風くらいはしのげるでしょう」
「雨風って……」
しのげるか……? は天井の染みを不安げに見上げた。それに……
「あの、ちなみに鍵とかは……?」
「ありますが、使えませんね」
「せめて鍵があるところはないですか? その、ここって、男子校なんですよね?」
先ほどそう説明を受けた。「そうですが?」とクロウリーは不思議そうに聞き返した。
「さすがに男子しかいない中で過ごすのは……」
「どうしてです?」
「一応、女子――」
そう言ってはハッとした。最初にここで目を覚ました時、見覚えのない服以外に感じた違和感の正体に気がついたからだ。見下ろした体はゆったりとした作りで比較的サイズも大き目なその服に包まれている。が、その体はよく見ればが見慣れた自分の体と全く違っていた。それなりに女性らしい体つきになりかけていたはずなのに曲線らしいものが感じられなかった。
「えっ?」
「えっ?」
自分の体の変化に驚いたと、の発言に驚いたクロウリーの声が重なった。そしてほとんど同時に瞬きをした次の瞬間には、の体はよく見慣れた、自身の物になっていた。
「えぇっ!?」
大げさなクロウリーの声にはパッと顔を上げた。
「あ、貴方! 今の今まで確かに……!?」
確かに、男子だった。
「一体どうして……本当に魔法を使えないんですか?」
「使えないです! そもそも、わたしがいたところに魔法なんてなかったんですから!」
「う~ん……しかし、どう見ても魔法……いや、しかし魔力のようなものは感じられませんね……」
を上から下まで眺めながらクロウリーは首を傾げた。
「……それを含めて、調べてみましょう。今のできごとから考えるに貴方が女性だとわかると本来の見た目で見えるのかもしれません。女性だということは黙っておいた方がいいでしょうね。鍵付きの部屋もありませんし……」
「そんな……」
「学園内もあまりウロウロしない方がいいでしょう。では、私は一旦戻ります。適当に過ごしていてください」
「はあ……」
気の抜けた返事をしたを残し、クロウリーは颯爽とオンボロ寮を後にした。
空はの内心を現すようにどんよりと曇り、一体これからどうなってしまうのだろうという不安が募るのに合わせたかのように雨が降りはじめた。一人で過ごすには気味が悪く、心細い建物だ。天井から雨粒が落ち、床に音を立てて落ちた。
これから先、こうしてここにこもって一人で過ごさなければならないのだろうか?
元の世界に戻れるのだろうか?
心細さに顔が自然とうつむいていく。でもまさか、その心細さを吹き飛ばす黒い毛玉がまた目の前に現れるなんてその時のは思っても見なかったのだった。