オレンジ色の夕日が窓ガラスに反射して、一層眩しくシリウスの目に映った。
その日、シリウスは図書館にいた。背の高い本棚に囲まれた人目につかない一角で、シリウスは本棚を背に座り込んでいた。
宙に舞う埃が日の光を反射して黄金色に光っている。そこから視線をはずして埃っぽい床を見れば、グリフィンドールカラーのネクタイが転がっていた。シリウスのネクタイだ。ゆっくりとした動作でネクタイを拾い上げたシリウスは、何故かそれを首に巻きなおす気にはなれず、ぼんやりと溜息をついた。気分が悪かった。原因はわかりきっている。この臭いのせいだ。
甘ったるい臭いがシリウスのいる一角に充満し、彼の鼻孔を突いていた。臭いの原因は、さっきまで一緒にいたエミリーが好んでつけている香水だった。
エミリー・ハドソンはレイブンクローの6年生で、新学期に入ってすぐに付き合い始めたシリウスの恋人だった。ブロンドの派手な顔立ちの美人で、シリウスもそのことは認めていたが、この甘ったるい香水の臭いは認められずにいた。
それから、すぐにべたべたと腕を組んでくることも苦手だったし、甘ったるい喋り方も。それから―― そこまで考えて、シリウスは何故自分がエミリーと付き合っているのかという疑問にたどり着いた。
そんなこと、わかりきってる。
エミリーに告白された時、新学期になったばかりで、シリウスには付き合っている「彼女」がいなかったからだ。
夕食の時間が近づいている。シリウスは一度寮に戻ろうとできる限りゆっくりと立ち上がった。何をするのも億劫だ。ネクタイだって結局、あるべき場所に戻ることなくシリウスの手の中に収まっている。
窓から入る光が眩しくて、シリウスは目を細めた。
いや……
それだけじゃ、ない。眩しいのはもっと別のモノのせいだ。光のもとを確かめようと更に目を細めれば、夕日を反射する何かが見えた。何か……誰か?
ガタンと、椅子の動く音がそれまで図書館を支配していた静寂を破る。シリウスはハッとした。誰かが椅子の陰から立ち上がるのが見えて、その誰かの髪の色が月の光に似た銀色であることに気づいたからだった。
・だった。
入学したあの日、あの組分けの儀式のとき、シリウスがはじめて恋心を抱いた相手。もっとも今はその感情も思い出で、シリウスはあまり長くもたない恋人を常に隣に置くようになってしまっていたのだけれど。
シリウスはが立ち上がって振り返るまで、じっと彼女を見つめていた。視線がぶつかる音がする。は―― 人がいると思っていなかったのだろう―― その髪と同じ色の瞳を丸くして、シリウスを見た。振り返ったの首元が自分と同じように空っぽなことに、シリウスは気がついた。
・が長い間いじめを受けていることはホグワーツで有名な話だった。シリウスだってもちろん知っていた。の持ち物がなくなったなんて話はよく耳にする。だからがネクタイをしていないのはシリウスにとって大げさに驚くべきことではなかった。今度はネクタイがなくなったのだろう。
きっと今、のネクタイはゴミ箱か、それよりももっと酷いところにあるに違いない。そう思うとシリウスは何となくイライラした。
「あの……ブラックくん?」
エミリーとは違う、澄んだ鈴の音のような声がシリウスの鼓膜を震わせた。視線を逸らすのを忘れて、シリウスはしばらくと見つめあったままだった。彼女はそれに耐え切れなくなったのだろう。不思議そうに瞬く銀色の瞳に、シリウスは自分の姿が映っているのを見つけ、何となく気まずくなって顔をしかめた。
「どうしてここに? もう夕食の時間じゃ……」
「別に僕がどこにいようとには関係ないだろ」
が困ったように自分を見上げるのを見て、シリウスは後悔した。入学したばかりの頃はいつだって話しかけたくて仕方なかった彼女との、久しぶりの会話がこれだなんて……石を飲み込んだ気分に陥り、それでも項垂れるのを必死にこらえた。代わりに視線を逸らせば、気まずさばかりが増してしまった。
「ネクタイは?」
場の空気を何とか変えたくてシリウスは口を開いた。しかし口から出たものは空気を変えるどころか一層気まずくするものだということに、が動揺して視線を逸らしたのを見たときに気がついた。
そして、同時にシリウスは確信した。やはりは、ネクタイを盗られたのだ。俯くの長い睫毛が、彼女の銀色の瞳に影を落としていた。ほんの少し、胸が高揚する。
以前、シリウスは確かにが好きだった。最近ではその事実さえ思い出すことは少なかったけれど、たった1つだけ、その頃と変わらずに胸に抱いている想いがあった。
は、綺麗だ。
シリウスが今まで出会った誰よりも、この学校の誰よりも、は綺麗だ。入学したあの日から、シリウスはずっとそう思い続けている。
気付けばシリウスは、片手をに突き出していた。その手にはしっかりと、さっき首に巻くのを諦めたネクタイが握られている。
「やるよ」
口から出た言葉に誰よりも驚いたのは他でもない、シリウス自身だった。一瞬、自分が何を言ったのか理解できず、ただを見つめていた。
「えっ?」
驚いたのはも同じだったらしく、その視線がパッと上がった瞬間に、シリウスはその銀色の瞳にさっきよりもはっきりと自分の姿が映っているのを見つけた。それが何だか気恥ずかしくて、もう一度「やるよ」と低く呟くと、半ば強引にの手に自分のネクタイを握らせた。
「でも……」
「いいんだ。ないんだろ? ネクタイ」
「でも、ブラックくんもネクタイがなくなったら困るでしょう……?」
「部屋に帰ればあるから」
シリウスはきっぱりとそう言った。でもきっとは、部屋に帰っても新しいものがないのだろう。そうでなければこんな風に探さないはずだ。視線をほんの少し動かせば、のローブについた白い埃がよく見えた。
「だから、いいんだ」
念を押すようにそう言って、シリウスは足早にの横を通り過ぎようとした。
「あ……あの!」
の声が聞こえた。
「ありがとう」
シリウスは振り返った。そして、そうしたことを後悔した。が微笑んでいたからだ。綺麗な、笑顔で。
ほとんど駆けるように、シリウスは廊下を寮に向かって歩いていた。夕食を食べに大広間へ向かう気にはなれなかった。の笑顔がシリウスの頭にはっきりと焼き付いていて、彼は自分の心臓がひどくうるさく鳴っているのを感じていた。
昔感じていた、あの何ともいえない緊張感を含んだ感覚が、シリウスの胸の奥深くから沸々と湧き起こっていた。
組分けの儀式で見たの笑顔を、シリウスは今でもよく覚えている。そして、図書館のの笑顔はその記憶と少しも違っていなかった。そう、だからだ。昔の気持ちまで思い出してしまった。ただ、思い出しただけ。
それだけなんだ。
言い聞かせるように頭の中で何度もくり返し、シリウスは唇を噛んだ。は綺麗だと思うし、あの笑顔に魅力があることも認める。でも、だからといって自分が今更彼女のことを好きだなんて思えなかった。
「太った婦人」の肖像画の前について口早に合言葉を言うと、シリウスはそのまま談話室を素通りし、男子寮の自分の部屋に飛び込んだ。天蓋つきのベッドに倒れこみ、大きく息を吐く。
新しいネクタイを用意しないといけない。
また、だ。
図書館でにネクタイを貸した翌日から、シリウスは自分の視界の端にが映ってばかりいることに気づいた。いつも隣にいる親友はそのことについて何も言ってこなかったから、きっと気づいていないのだろう。しかしシリウスは、のことを目で追ってしまっている自分を認めざるをえなかった。
視界の端のが首にグリフィンドールカラーのネクタイを巻いている。その光景を見るたび、シリウスは目眩がする。
はもう、新しいネクタイを買ったのだろうか。そうでなければ、あのネクタイは自分のものなのかもしれない。あのネクタイがの細い首にあることは、何故かシリウスの胸を高揚させた。
そんな日々が数日続き、シリウスは再び図書館でに出会った。はあの日のように探し物はしていなかった。図書館の奥の方にある窓際の席に座ってどうやら課題をしているらしい。その手が羽ペンを動かしているのが見える。
声をかけようか?
シリウスは1年生だった自分を思い出した。あの頃、こうやっていつも考えていた。そして緊張で硬くなりながら、に声をかけていた。
あの頃と同じように今も迷っている。でも、自分は声をかけないだろうとシリウスは思った。今更、だ。
何となく居辛くなって踵を返そうとしたシリウスの視界に、が顔を上げたのが映った。視線が、合う。胸が奇妙なまでに揺れ、シリウスは棒のようにその場に立ち竦んだ。
「ブラックくん?」
鈴の鳴る音がした。一瞬前まで感じていた居辛さを忘れ、シリウスはのほうに向かっていた。
「……何してるんだ?」
緊張を押し込めて、シリウスは短くたずねた。「課題を」と、は答えた。
彼女の手元には書きかけのレポートと、教科書がある。「数占い」だ。シリウスもその科目を履修していたが、がやっている課題はもう終わってしまっていた。
「ブラックくんは、もう終わった?」
「まぁな」
「そう」
さらりと落ちた銀色の髪を、は自然な動作で耳にかけた。露になった細い顎のラインは、の全てを凝縮したみたいに綺麗だ。
「今回はそう難しくなかったよな」
心臓を落ち着けようと、シリウスは会話を続けた。はちょっと首を傾げ、困ったように微笑む。
「うん……でも、どうしてもわからないところがあって」
「教えようか?」
咄嗟にシリウスはそう言っていた。が瞬きをして、少し驚いたような表情でシリウスを見上げている。
がいる図書館に、自分も一緒にいられる理由が欲しかった。ともっと話したい。をもっと見ていたい。そんな思いがシリウスの胸の中で木霊していた。
「でも、迷惑だから……」
遠慮がちなを押し切って、シリウスはの正面に座ると、「どこがわからないんだ?」との羊皮紙を覗き込んだ。最初はまだ戸惑っていたも、おずおずと自分のわからない場所をシリウスに伝えた。その声は、まだ遠慮がちではあったけれど。
シリウスの手にかかれば「数占い」のレポートなんてあっという間に終わってしまう。シリウスはそれが少し寂しかった。せっかくの傍に座って、同じ時間を過ごせたのに。
を見つめれば見つめるほど、シリウスの中のは美しくなっていった。飽きることはなかった。むしろ、ずっとこうしていたいとシリウスは心のどこかで思っていた。まるで中毒者みたいに。
課題を無事に終えたが、この前と同じ笑顔で「ありがとう」と言ってくれたのに満たされた気持ちになりながら、シリウスはが教科書を鞄に詰めるのを見つめていた。
「もう寮に戻るの?」
「うん。夕食の前に、荷物を置いてこようと思って」
「じゃあ、一緒に戻らないか?」
さりげなく言いながら、シリウスは自分の心臓がうるさく鳴っているのがわかった。が頷いたのにほっとして、シリウスも席を立つ。
「そうだ、ブラックくん」
一歩先を歩こうとしたシリウスを、が呼び止めた。
「これ……」
が鞄から出した小さな紙袋を受け取って、シリウスはその中身を確かめた。ネクタイだ。きっと、自分が渡した。それなら今、の首に巻かれているのは新しく買ったものなのだろうか……少し、気分が沈む。
「ありがとう……貸してくれて」
シリウスは押し黙った。これを受け取ったら、もうこうしてと話す機会がなくなってしまうような気がした。何故かはわからない。それでも、シリウスはそのことがひどく残念に思えた。
シリウスはに紙袋をつき返した。驚いて、がシリウスを見上げている。そんなこと気にならなかった。
「ブラックくん?」
「が持ってればいい」
何て言えばいいのかわからなくて、シリウスは必死に言葉を探した。
「またなくしたときに使えば……僕は予備があるし」
「でも」
「それに、僕は貸すんじゃなくてやるって言ったんだ」
あの時……これは屁理屈だろうか。困ったようなの顔を見ながら、シリウスはそう思った。
「でも、やっぱりそんな……」
「いいんだ」
強引に、の手に紙袋を握らせた。触れたの手は冷たかった。は少し粘ったが、やがてシリウスに何を言っても無駄だと思ったのか、大人しくネクタイを鞄に入れ、また小さな声で「ありがとう」を言った。渋々だったけれど、その声にどこか嬉しそうな色が含まれているのに気づいて、シリウスは思わず頬が緩みそうになった。
「戻ろう」
今度こそ、の一歩前を歩く。図書館の扉に視線を向けたとき、シリウスの薄灰色の目に誰かが図書館を飛び出していく姿が映った。
気のせいだったかもしれない。
しかしその人影が、綺麗なブロンドをなびかせていたような気がした。