あの人影はやはりエミリーだったのだろうか。確かめたかったが、シリウスはしばらくエミリーと顔を合わせていなかった。
もしエミリーが図書館で自分とが2人きりでいるのを見たとしたら、彼女の性格からに嫉妬するのは間違いない。に何かあったら……そう考えると気が気でなかった。
「数占い」で偶然空いていたの隣にさりげなく座ったシリウスは、の横顔をちらりと盗み見た。鞄から羊皮紙やインクや、図書館でシリウスと一緒にやったレポートを取り出している彼女は、いつもと変わりないと思う。最近常に視界にがいるとはいえ、別にそうマジマジと見ているわけではないのでその判断が正しいかはわからなかったが。
不意にの綺麗な眉が歪み、シリウスはどうしたのかと思わず声をかけてしまった。驚いたようにの顔が上がり、その銀色の瞳にシリウスの姿が映る。シリウスは少し後悔した。今まで大して親しくもなかった相手に、そう気軽に声をかけるべきではなかったかもしれない。でも、気になったのだから仕方ないじゃないか。
出した声は戻せなくて、シリウスは後悔するのを放棄した。困ったように顔を逸らすから、答えが出るのを待つ。
「教科書、忘れたみたい……」
ぽつりと、が呟いた。シリウスは少し眉を寄せた。は忘れ物をするタイプには見えなかったけれど、してしまったらしい。俯くと自分の教科書を交互に見て、シリウスは頭を回転させた。そして、教科書をぐいっとの方へ押しやった。俯いていたの瞳がまた上がり、シリウスを映す。
「一緒に見よう」
「えっ? でも……」
「隣同士なんだ。問題ないさ」
が遠慮するだろうと思って、シリウスは素早くそう言った。タイミングよく担当教師が教室に現れ、授業の始まりを告げる。はしばらく戸惑ったようにシリウスを見ていたが、やがてシリウスの教科書を一緒に見始めた。
普通に隣同士でいるよりも、との距離が近い気がする。シリウスは努めて授業に集中した。普段なら考えられないことだ。しかし、そうしていないと隣のがひどく気になって、うっかりするとをずっと見つめてしまいそうになる。そんなことすれば、きっとは自分のことを怪訝に思うだろう。
「あの、ブラックくん」
授業が終わり、がそっと自分の名前を呼んだのが聞こえて、シリウスは我に帰った。
は不安そうにシリウスを見ている。その顔色が何だか授業の前より悪くなっている気がして、シリウスは眉を顰めた。は色が白いほうだけれど、それにしたって白すぎないだろうか。むしろ、今は青白い気がする。
「教科書、ありがとう」
「いいよ」
のことを気にしながら、シリウスは何でもないようにそう言った。そしてふと、がローブのポケットに入れている右手が気になった。
普段なら絶対、はポケットに手を入れたままになんてしておかない。珍しい……のどこか青白いような顔を見つめ、シリウスはふと、授業前に眉を歪めたの表情を思い出した。
「右手」
「えっ?」
「どうかしたのか?」
「ど、どうして……?」
「がそうやってポケットに手を入れてるなんて珍しいなと思ってさ」
「そんなこと!」
は焦ったようにそう言って、左手を振った。その拍子に彼女の手に握られていた鞄が落ちる。慌てたようには「あっ」と声をあげ、床にしゃがみこんだ。落ちた拍子に中身が全部飛び出してしまったのだ。がこんな風にうっかり失敗してしまうことがあるなんて、シリウスには意外だった。同時に、の新しい一面が見られて嬉しかった。
が荷物を拾うのを手伝おうと手を伸ばす。インク瓶が割れなかったことが幸いだ……ふと、シリウスはその伸ばした手を止めた。「数占い」の教科書が、はっきりとシリウスの目に映った。ないはずの教科書が、何故あるのだろう。
「、教科書――」
に視線を向ければ、彼女は顔を真っ青にして固まっていた。カサリと、足元で紙が擦れる音がししてシリウスはつられるように音源を見た。羊皮紙が、うごめいている……。嫌な予感がした。思わずの腕を取って立ち上がり、シリウスは爪先で羊皮紙をどけた。
「……っ!」
息を呑んで、シリウスは退いた。羊皮紙がうごめいていたのではない。その下にいた、気味の悪い紫色の虫がうごめいていたのだ。シリウスは前にその虫をどこかの本で見たことがあった。確か、猛毒を持っていたはずだ。
まさか……シリウスはハッとしてを見ると、強引に彼女が隠していた右手を引っ張り出した。が驚いて息を止める音が聞こえたが、そんなこと、気にしてなんかいられない。
「……」
愕然とシリウスは呟き、青ざめたの顔を見つめた。が隠していた右手は、赤紫色にはれ上がっている。何かに噛まれた痕もあったが、それを見つけなくてもシリウスは彼女の身に何が起きたのか理解できた。授業の前、教科書を出そうとして、はこの毒虫に噛まれたのだ。
「だ、大丈夫だから……」
「大丈夫なわけないだろ!」
震える声でそう言ったに、シリウスは思わず怒鳴ってしまった。その声に大きく揺れたの肩を見て、シリウスはしまったと顔を顰めた。怯えさせてしまった。は何も悪くないのに……自己嫌悪に襲われて、シリウスはの右腕を強く握っていた手から、少し力を抜いた。
「ごめん……とにかく、医務室に行こう」
シリウスは手早く杖を振って散らかったままだったの鞄の中身を片付け、床にいた気味の悪い毒虫を焼き殺した。床に黒い焦げ目が残ってしまったが、知ったことじゃない。管理人が文句を言いながら掃除をするだけだ。
あの毒虫は、おそらく誰かがの鞄に入れたのだろう……いじめにしては悪質すぎる。
それに……
の白かった手が見る影もなくなっているのを、シリウスはちらりと見た。猛烈に腹が立った。あの綺麗な手をこんな風にするなんて、絶対に許されないことだ……。
医務室につくとすぐに、マダム・ポンフリーがの治療をしてくれた。何て酷いだとか、かわいそうにとか、ずっと呟いているマダムの声を聞きながら、シリウスはイライラと膝を揺すった。時間が経てば経つほど、の白かった手を見れば見るほど、犯人に対する怒りは募る。
「!」
その貧乏揺すりを止めたのは、焦ったように医務室に飛び込んできたリリーの声だった。隣にはルナもいる。シリウスが毒虫を見つけたときまだ周りに生徒が残っていたから、あの光景を見ていた誰かが2人にがここにいることを教えたのだろうとシリウスは思った。
「リリー」
「大丈夫? 一体誰がこんな酷いことを……」
マダムが薬を塗っているの手を覗き込んで、リリーが眉を顰めるのが見えた。
「シリウスがを連れてきてくれたの?」
そうたずねてきたルナに、シリウスは無表情で頷く。いつも飄々としているルナも、さすがに心配の色が隠しきれていない。親友がこんな怪我をしたのだから当然だろう。
「誰がやったかわかる?」
余裕のない声でリリーにたずねられ、シリウスは少し眉を顰めた。
「わかってたらここにいない」
きっとその犯人に仕返しをしに行っているだろう……シリウスは思った。同時に、何故のことで自分はそこまで怒りを覚えるのかという疑問が、ふと脳裏を過ぎっていった。
最近の自分は、のことばかりだ。シリウスはそのことに気づいていたが、それが何故かわからなかった。ただ、のことばかり考える自分は嫌ではなかった。
「は?」
ルナの質問に、は困った顔をして首を横に振った。見当もつかないのだろう。彼女にこんなことをする人間なんて、このホグワーツには何人いるかわかったもんじゃない。
「ミス・は今晩ここに入院ですよ」
ひと通りの手当てを終えたマダムが言った。
「毒はほとんど抜いたけれど、今晩傷口から熱が出るかもしれませんからね。本当に厄介な傷だこと……」
最後はほとんどぼやくようなマダムの言葉に、の2人の親友はそれぞれ心配そうな視線を彼女に向けた。
「大丈夫よ」
親友を安心させるためか、はゆっくりと、微笑んでそう言った。それでも2人の視線は変わらなかった。
「心配なのはわかるけれど、もう行きなさい。は静かに休まないといけませんからね」
放っておけばいつまでもそこにいそうな2人に、マダムがそう言い聞かせた。
「明日の朝、一番に来るわ」
「ゆっくり休んでね、」
あなたもですよと、ひと睨みされ、シリウスはどこか名残惜しさを感じながらリリーとルナの後に続いて医務室を出て行こうとした。
「ブラックくん」
鈴の鳴るような声に呼び止められ、シリウスはドキリとしながら振り返った。
「迷惑かけてごめんなさい……それに、ありがとう」
の笑顔は、こんな時でさえ綺麗だった。
同じ寮に戻るため、シリウスは自然とリリーとルナの後ろを歩くことになってしまった。距離はあったが、何とも奇妙な感じだ。この2人と一緒に歩くなんてこと、普段なら絶対にありえない。
「ねぇ、ブラック」
ふいにリリーが振り向いて声をかけてきたので、シリウスはますます驚いてしまった。
「本当に、心当たりがない? あんなことした犯人に……授業の前とか、何も見なかった?」
本気でを心配しているリリーに、何となく申し訳なさを感じながらもシリウスは首を横に振った。
「だけどをいじめてる奴なんか大勢いるんだろ?」
「それは……」
リリーが眉を顰めながらも口篭ると、代わりにルナが口を開いた。
「スリザリン生とか、他の寮にも確かに心当たりはあるけど、今までこんな酷いことなんてされてなかった……と思う。呼び出されて、何か言われるとか物を隠されるとかだけ。がわたしたちに話してくれてないだけで、ホントはあるのかもしれないけど……」
「それならもう一度に確かめてみればいいんじゃないのか? 今度は話してくれるかもしれないだろ?」
「無理よ」
きっぱりとリリーが言った。
「は絶対にわたしたちには言わないわ。全部1人で抱え込んで……特にいじめのことは、迷惑になるからって」
確かには迷惑だからと口にすることが多い気がする。どうしてそんなに気を遣うのか、シリウスにはさっぱりわからなかったけれど。
「でもわたしたちからしたら、このままにしておけないのよ。ねぇ、もし何か気付いたら……」
「あぁ、ちゃんと教えるよ」
頷きながらも、シリウスは実際に犯人について何か気付いたり知ったりしても、彼女たちには何も言わないだろうと思った。もし犯人がわかったら、教える前に仕返しに行く。何故そこまでのことを考えて行動してしまうのか、相変わらず理由はわからなかったけれど、これだけは言えた。
のあの美しさを少しでも傷つけるような奴を、絶対に許せないということだけは。
「そうか……」
部屋に戻ってベッドに仰向けに寝転んでぼんやりしていたシリウスは唐突に呟いた。
「何?」
ジェームズがその呟きを聞き取ってたずねてきたのに「何でもない」と答えて、シリウスは自分の思考に耽った。何故、が気になって仕方ないのか、その理由がわかった気がした。
以前のように、再び彼女に想いを抱いているわけではなかった。ただ、それとは別の意味でシリウスにとっては「特別」だったのだ。ずっと忘れていた……いや、覚えてはいたけれど当たり前のようになっていたその想いを、最近になって自分は改めて実感したのだ。おそらくあの、図書館でにネクタイを貸した日に。
入学した日、大広間での光景をシリウスは一度だって忘れたことはない。あの日から、・はシリウスにとって宝石箱の中にしまわれた宝石だった。シリウスにとってこの世で最も綺麗なモノになったのだ。
だからを目で追ったり、気にしたりしてしまったのだ。そして、その美しさを傷つけた人間に、ここまで怒りを覚えているのだ。
「そういえば」
今度はリーマスが唐突に口を開いた。
「が毒虫に噛まれたらしいね」
「よく知ってるな」
訝しげに眉を顰めると、さっき談話室で誰かが話していたんだとリーマスは言った。
「ついでに君が彼女を医務室に運んだってこともね」
「何だって?」
食いついてきたのはジェームズだった。興味津々といった様子でこちらを見るジェームズをひと睨みして牽制してから、シリウスはことの次第を話して聞かせた。
「彼女に対するいじめも相当だね」
「だけどこんなことははじめてらしい……エバンズたちが言ってた」
部屋の中を重たい空気が包んだ。深刻な顔をして黙り込み、シリウスは直感的に、何か……漠然とした、不安のような、そんな嫌なものを感じとっていた。