第二章
そして物語は始まった

 の鞄に毒虫を入れた犯人を、シリウスは必死に探していた。

 は翌朝には退院したがその右手には白い包帯が巻かれたままで、シリウスはそれを見るたびに犯人を許せないという強い気持ちに捕らわれていた。何としても犯人を捕まえたかった。しかし、実際はそううまくいかないものだ。犯人の手がかりは全くなかった。の鞄に犯人が毒虫を入れたところを見た生徒はいなかったし、自身も、いつ毒虫を入れられたのかわからないと言っていた。
 ただ、シリウスには1つだけ確信めいた思いがあった。

 犯人は、エミリーではないのか。

 と「数占い」の課題をやったあの日、図書館で見た人影を思い出すたびにそう思う。あの時見たと思ったブロンドがエミリーのものなら、彼女がに何かする可能性はかなり高いのだ。
 エミリーとはもう別れたいとシリウスは思っていたし、どちらにしろ、一度エミリーと会って話したかった。

 シリウスはベッドから体を起こした。そう考え出すと行動に起こさずにはいられなくて、ジェームズの持ち物から「忍びの地図」を勝手に抜き出した。親友の姿は部屋になかったが、別に文句も言われないだろう。
 呪文を唱えて地図を出し、シリウスはエミリー・ハドソンの名前を探した。そして、意外な場所でその名前を見つけ出した。図書館だ。周りには誰もいないようだ。

 エミリーが……?

 別に彼女は読書が好きと言うわけではないし、シリウスと約束した時か課題をする時くらいしか図書館には行かないたちだった。シリウスだってそのくらい知っていた。それなのに、エミリーが1人で図書館にいることなんてありえるのだろうか?
 何となく嫌な予感がして、シリウスは立ち上がった。そして「忍びの地図」をベッドに放り出したまま、杖だけをベルトに挟んで図書館へと向かった。

 全速力で走ったせいか、図書館についたときには息が切れていた。乱れる呼吸を落ち着かせながら、シリウスは静かに図書館に踏み込む。不安はますます大きくなっていた。

「ブラックくん?」

 しかし、不意に聞こえた声に、落ち着き始めたシリウスの心臓はまた大きく跳ね上がった。振り返ればが不思議そうに自分を見ていた。入り口近くの本棚で、本を選んでいたらしい。

「どうしたの? そんなに慌てて……」
「しっ……!」

 口元に人差し指を当てて、シリウスはの腕を引いた。びっくりして瞬きをくり返すに「ごめん」と小さく謝って、シリウスはを連れて図書館の奥へと進んだ。

「どうしたの? 何かあったの?」
「確かめたいことがあるんだ」
「確かめたいこと?」

 シリウスは口を閉じた。毒虫のことをわざわざに思い出させたくなかった。右手の包帯の面積は、前より狭くなっている。
 耳に小さな話し声が聞こえてきて、シリウスは再びに静かにするように促した。の瞳に不安が過ぎった。何かよくないことが起きるのだと、彼女は感じているらしかった。

 話し声は、女子生徒特有のクスクス笑いのようだ。その中にエミリーの声を聞いて、シリウスは見つからないように本棚の陰に隠れ、様子をうかがった。
 エミリーの周りには、同じレイブンクローのネクタイをした女子生徒が3人いた。額を寄せ合って、何か話している。うまく聞き取れなかったから、本棚の隙間をぬって、シリウスはもう少しだけ近づくことにした。

「あっ」

 が小さく声を上げた。

「鞄……」

 の視線の先を見れば、エミリーたちの中心に鞄が1つ置いてある。どうやらのものらしい。シリウスは眉を顰めた。取り返してあげたいが、今はエミリーたちの会話を聞くほうを優先させたかった。

―― らやってやったのよ」

 甘ったるい、エミリーの声。

 「シリウスはわたしのモノなのに、手を出そうとするから!鞄に虫を入れてやったの。毒を持ったヤツをね。あんな女の手なんか、なくなっちゃえばいいのよ!」

 掴んでいたの肩が、大きく跳ね上がるのがわかった。シリウスは目の前が真っ赤になるような気がした。

 エミリーが!

 あの女がやったのだ。の白い手に傷をつけた。シリウスは震えるの肩をしっかりと抱き寄せた。エミリーたちのクスクスという人をバカにしたような笑い声がまた聞こえた。

「だけどマダムが治しちゃったわ」

 エミリーの友人の、憎々しげな声が聞こえた。

「そう、信じられないわ! 何であんな子の手当てなんかするのかしら。あんな気味の悪い子……」

 シリウスはに視線を向けた。震え、俯いたは、縋るように肩から流れる銀色の髪を握っていた。

「あの髪と目の色! 見ててゾッとする……!」
「きっと何か気味の悪い生き物の血が混ざってるのよ。いっそマダム・ポンフリーじゃなくて森番のハグリッドに手当てしてもらえばいいのに」

 三度バカにするような笑い声が聞こえ、シリウスは今度こそ飛び出して行こうと思った。毒虫を入れた犯人がエミリーだとわかったし……しかし、それに気づいたがシリウスの袖を引いたので、シリウスは思わずためらってしまった。

「それで、どうするの?」
「これ、見て」

 得意げにエミリーが何か出した。よく見えないが、何か容器のようだ。

「今度こそあの汚い手をボロボロにしてやるんだから……もうシリウスに近づく気にもならないでしょうね」

 エミリーが手に持っていたものを傾けた瞬間、シリウスはの腕を引いたまま本棚の陰から飛び出した。

「アクシオ!!」

 エミリーの手から飛んできた容器をキャッチする。空いていた蓋から中身がこぼれ、シリウスの手に垂れた。

「ブラックくん……!」

 焼けるような痛み。眉を顰めてシリウスは自分の左手を見る。中身は液体だった。そしてその液体は、シリウスの皮膚を溶かそうとしていた。

「シ、シリウス……!」

 動揺したエミリーの声に、シリウスは彼女を強く睨んだ。

「何をしてるんだ」

 杖を向けたままのシリウスに、エミリーは怯む。シリウスはの腕を引き、彼女の鞄の元に向かった。鞄に伸ばそうとしたの手を右手で制し、机の上に中身をひっくり返せば、持ち物のいくつかが溶けかかっている。液体が少し入ってしまったようだ。
 この鞄にが手を入れていたらと思うと……シリウスは強く杖を握り締めた。毒虫に噛まれた時よりも酷い状態になっていただろう。エミリーの言う通り、手がなくなっていたかもしれない。

「よくもこんなことが……」

 憎々しげに、シリウスは呟いた。

「だって……!」

 悲鳴のようなエミリーの声に舌打ちがしたくなる。

「だってこの子があなたをたぶらかそうとするから……! わたし、あなたが迷惑してると思ってやってあげたのよ!」

 むしろ褒めて欲しいと言わんばかりだ。シリウスは今までにないくらいの怒りを覚えた。こんな女のせいでが傷付いたなんて……!

「迷惑だっていうならむしろお前の方が迷惑だ」
「なっ……!」
「うんざりなんだよ。ハドソン、お前みたいな女と付き合ってたなんて僕はどうかしていた」

 「別れる」と言われ、エミリーは目を見開いてシリウスを見た。彼女にとって予想もしない結末だったのだろう。悲鳴のような声が上がる。なんて叫んだのか、シリウスには聞き取れなかった。

「あんたのせいよ!!」

 エミリーは杖を取り出し、にそれを向けた。しかし、シリウスの方が早かった。バーンッと大きな音がして、エミリーの体が吹っ飛ぶ。彼女の友人たちが悲鳴をあげ、駆け寄っていくのをシリウスは冷たく見下ろした。

「ブラックくん……」

 どこか呆然としたの声に振り返れば、青ざめた顔で彼女はシリウスを見ていた。

「こんなこと……」

 やりすぎだと言いたいのだろう。しかし、いくらに言われようが、シリウスはそうは思わなかった。間違ってるなんて、思えない。

 大きな音を聞きつけた司書のマダム・ピンスによって、その場にいた面々はそれぞれの寮監へと引き渡された。の腕の中には鞄がしっかりと抱きかかえられている。所々溶けかけた持ち物は、シリウスがうまく魔法で直してやった。

「それで」

 寮監のマクゴナガルは、どこか困惑したような面持ちで2人を見ていた。マダム・ピンスから状況の説明は受けたらしいが、理解に苦しむ部分があったようだ。

「一体何があったのです? どうして決闘まがいのことを図書館でやったのか説明しなさい、ブラック」

 が不安そうに自分を見たのに気付きながら、シリウスは涼しい顔で持っていた容器をマクゴナガルに渡した。

「ミス・ハドソンがこれをの鞄に入れようとしていたんです」
「これは?」
「さあ?」

 何かまではさすがにシリウスにもわからなかった。確実に毒だろうが。

「でも手が溶けました」

 左手を見せれば、マクゴナガルは表情を険しくした。

「前にが毒虫に噛まれたのも、ハドソンが毒虫を鞄に入れたせいでした」
「それで、あなたはハドソンに杖を向けたのですか?」

 マクゴナガルの声にある呆れたような響きが気になったが、シリウスは頷いた。教授はしばらくシリウスとを見つめ、やがてゆっくりと息を吐き出した。

「どんな理由があろうとも、ホグワーツの中で……しかも、図書館で杖を人に向けてはいけません」

 シリウスは、何となくマクゴナガルがに対するいじめについて知っているような気がした。は少し俯いている。どこか申し訳なさそうな雰囲気だ。

「減点はしませんが、今後一切、このようなことをしないように」
「あの」

 おずおずと、が口を開いた。

「彼女たちは……?」

 さすがにシリウスも少し呆れた。自分をいじめた相手のことを気にするなんて。マクゴナガルも同じように呆れたような顔をしている。

「フリットウィック先生と相談して決めます。彼女たちはレイブンクローの生徒ですからね。、あなたはもう少し悪意に対してそれなりの態度を示した方がいいですよ。それから、何かあったら1人で抱え込もうとしないでちゃんと友人に相談しなさい」

 押し黙ったを、シリウスは見た。確かにマクゴナガルの言う通りだ。いつも「迷惑だから」と言うのことを思い出し、シリウスは少し唇を噛んだ。あの言葉1つで、は何でも自分1人で抱え込もうとしているのだ。
 エミリーたちの心配までするのは彼女の優しさゆえだし、それは美徳にもなるだろうが、1人で抱え込む癖はの悪い欠点だとシリウスは知った。

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