第二章
そして物語は始まった

「医務室に行かない?」

 マクゴナガルの事務室を出てすぐ、が控えめにそう言った。

「手当てしないと……」

 彼女が自分の手のことを言っているのだと気づいて、シリウスは小さく頷くと、と2人で医務室へ向かって歩き出した。
 微妙な空気だった。エミリーたちにしたことについて、シリウスはあれでよかったと信じていたし清々していたが、はそうでもないらしい。どこか沈んだような表情は、何もマクゴナガルに言われたことが気になっているからだけではないようだった。

「前と、反対ね」
「えっ?」

 不意に、重苦しい沈黙を破るように聞こえたの声に、シリウスは横を向いた。は少し微笑んでいる。場の空気が、少し和らいだ。

「前は、ブラックくんがわたしを医務室につれて行ってくれたから」

 毒虫の時だろうとシリウスは思った。「そうだな」と短く返し、口端にそっと笑みを乗せる。自然に笑えた。

 医務室につくとちょうど他の数人の生徒もマダム・ポンフリーを呼びに来たところだった。マダムは忙しなく手当てに必要な薬と包帯をに渡すと、彼女にシリウスの手当てを頼んでその生徒たちと一緒に出かけて行ってしまった。医務室は入院患者もいなかったから、シリウスはと2人きりだった。
 どこか慣れた手つきで、はシリウスの爛れた手に薬品を塗る。その手つきは優しいが、少し、染みた。

「慣れてるんだな」

 沈黙は居心地が悪かったので、シリウスは口を開いた。

「うん……時々、マダム・ポンフリーに教わってるの。傷の手当の仕方とか、薬の作り方とか」
「どうして?」

 薬瓶を置くに、シリウスはたずねた。包帯を手にしながら、は少しシリウスを見上げた。

「わたし、癒者になりたくて……」
「癒者?」
「そう。それで、マダムによく相談に乗ってもらってるの。アドバイスを貰ったりとか……」
「へぇ」

 感心したように、シリウスは頷いた。そういえば、は「魔法薬学」や「薬草学」が得意だったような気がする。頭のいい彼女の親友が、彼女に教わっているのを談話室で見たことがあった。

 の白い手が包帯を丁寧に巻き終えた。その手が離れていくことに名残惜しさを感じながら、「ありがとう」とシリウスは呟いた。

「ううん……わたしの方こそ、ごめんなさい……」
「何で謝るんだ?」
「だって」

 どこかためらった様子で、は口篭った。

「わたしの問題だったのに、巻き込んでしまったから……」

 俯いたの表情は見えない。シリウスの表情も、には見えないだろう。シリウスは思い切り眉を顰めた。

「巻き込まれたなんて思ってない。それに、そもそもの原因は僕なんだ」
「そんなことない。ハドソンさんがあんなことをしたのはわたしがブラックくんに……その、色々、頼ったから……」

 たしなめるような口調で、シリウスはの名前を呼んだ。

「もし君の言ってることが、ネクタイを貸したり『数占い』の課題を手伝ったりしたことなら、あれは僕が言い出したことだ。そうだろう? あいつはそれを自分勝手に解釈して君を責め立てたんだ。君はなにも謝るようなことをしていない」
「でも、2人は恋人同士なのに……」

 「さっきまではね」とシリウスは言った。それからためらいがちにを見た。の手には、まだ包帯が握られている。

「それに僕はあいつのことが好きで付き合ってたわけじゃないんだ。ただ、告白されて何となくOKしただけで……」

 こんな時でさえ、の銀色の瞳は綺麗だった。そしてそれがひどくシリウスの心を痛ませた。

「軽蔑するだろ?」

 普段なら絶対に―― ジェームズたちにさえそんなことは聞かないのに、シリウスはたずねずにいられなかった。はどう答えていいかわからないというように瞳を揺らし、それから困ったように微笑んだ。

「ブラックくんがそれを悪いことだと思っていて、もうしないのならきっとしないわ」

 安心した。シリウスは少し微笑んで、包帯が巻かれた手を開いたり閉じたりした。

「それなら……」

 の顔と自分の手に巻かれた白い包帯を見ながら、シリウスは続けた。

「君も悪い癖を直す?」
「えっ?」
「君が君の悪い癖を直すなら、僕も僕の悪い癖を直せると思う」

 は何のことかわかっていないのだろうとシリウスは思った。その表情は、戸惑いに満ちている。シリウスはその薄灰色の瞳でを見つめた。

「マクゴナガルも言ってただろう? 君は何でも1人で抱えこもうとする……いじめのことだって、エバンズやルナにも相談してないんだって?」
「それは……」

 は少し眉根を寄せ、俯いた。哀しそうな表情だった。

「心配、かけたくなくて……」
「何も言われない方が心配さ」

 次の言葉を考えようとした。しかし、それは叶わなかった。気づけばシリウスの口は「僕だってそうだ」とに伝え、シリウス自身はそれにひどく驚いていた。

 でも、そうかもしれない。

 の綺麗な手がこれ以上傷付くのは見たくない。誰だって、宝石箱に大切にしまってある宝石を傷付けられたら胸を痛めるだろう。怒りだって覚えるだろう。
 だから宝石が傷付けられる前に、それを守りたかった。傷付けられないように注意しなければ。

「ちゃんと相談するんだ。そうすれば、今回みたいに酷いことはそう起きなくなるかもしれない」
「迷惑じゃない……?」

 弱い声だと思った。彼女は何かを恐れているようだったが、しかし、それが何かシリウスにはわからなかった。

「友達からの相談事を迷惑だなんて思う人間はいないさ」

 ああ、でも、ジェームズからの恋愛相談だけは迷惑だな……。胸の中でうんざりとした溜息をつきながら、シリウスはそう思った。

「だから、もう1人で抱え込むのはやめるんだ」
「そうしたら、ブラックくんも好きじゃない子と付き合うのはやめるの?」

 悪戯っぽく笑うに、「約束するよ」とシリウスは軽く笑った。

 医務室に戻ってきたマダム・ポンフリーに、「手当てが終わったなら早く出て行きなさい」とそこを追い出され、シリウスとは並んで寮に向かう廊下を歩いた。
 会話はなかった。シリウスはとした「約束」を胸の奥でくり返していた。これで、彼女が抱え込んでいるものが減ればいい。そう思いながらも、まだどこか心配だ。はちゃんと「約束」を守ってくれるだろうか。破るようには見えないけれど……。それに、自分はちゃんと「約束」を守れるだろうか。
 それを思うと急に心を不安が襲った。その不安をシリウスは時折感じる。しかしその正体が、シリウスはもうずっとわからずにいた。
 隣を歩くを、シリウスはちらりと見た。この不安を感じなくなるのは、ジェームズたちと悪戯をしている時か、その時の「彼女」を抱いている間くらいだ―― そのことに、シリウス自身気がついていた。急に心配になった。この不安に耐えられなくなって、との「約束」を守れなくなる気がした。そうなれば、きっと今度こそは自分を軽蔑するだろう。

 思わず、シリウスはを呼び止めていた。は不思議そうにシリウスを見上げ、小さく首を傾げた。

「君は本当に、約束を守るのか?」

 なんて卑怯な質問なんだろう。最悪だと、シリウスは思った。包帯の巻かれた手を握り締め、ほんの少し唇を噛む。の銀色の瞳が、驚いたように見開かれていた。罪悪感が、シリウスを襲った。

「ごめん……」

 そもそも「約束」だって自分から言い出したことなのに、何を言っているのだろうか。ただ、ひどく耐え難い感情が胸の奥から湧き起ってくるのだけはわかった。

「守るわ」

 「ごめん」のひと言に、が何を思ったのかはわからない。それでもそう言った彼女は図書館でシリウスにお礼を言ったのと同じくらい、綺麗な笑顔だった。
 耐え難い感情が、急激に引いて行く。は綺麗だと、シリウスは唐突に思った。

、君の傍にいてもいいか?」

 母親に縋る子供のように、シリウスはたずねた。はまた少し、戸惑ったように首を傾げた。そうだ、傍にいよう。そうすればを悪質ないじめから守れるし、自分も「約束」を破らずにいられるような気がする。

「君がもう1人で抱え込まなくていいように、僕が君の傍にいる」

 本音を隠した、ひどい建前だ。傍にいたいのは自分のほうだと、シリウスはどこかで感じていた。

 は何も言わなかったが、また綺麗に微笑んでくれた。

back/close/next