第三章
シリウスと

 今日もシリウスはと2人で課題をやっている。2人がいる談話室の一角に、ピーターは忙しなく視線を送っていた。

「そんなに気になるのかい?」

 彼の課題を教えていたジェームズは、やや呆れたように口を開いた。

「プロングズは気にならないの?」
「そりゃあ、気になるさ」

 肩を竦めてそう言うジェームズからは、しかしそんな素振りが少しも見えなくて、ピーターは首を傾げてた。

「あの2人、付き合ってるのかな?」

 それでも好奇心に任せ、ピーターは次の質問をした。ジェームズなら知っている気がした。いつだって、彼は何でも知っていたから。

「付き合ってはいないみたいだよ」
「パッドフットがそう言ってたの?」
「まあね」

 ジェームズは少し考えるような顔をして、シリウスとの方に視線を向けた。つられてピーターがまたそちらを向けば、2人はそれぞれお互いのレポートに向き合っていた。

「早く終わらせなよ、ワームテール」

 ジェームズにそう促されて、ピーターもまた、レポートに向き合った。

 それから数日後、ピーターは1人廊下を早足で歩いていた。うっかり教室に教科書を忘れてしまい、それを取りに戻っていたのだ。
 教科書にはこれからする悪戯の計画書が挟んであった。シリウスとジェームズに呆れた視線を向けられたのを思い出し、ピーターはまた少し焦った。幸い教科書も計画書も無事だったからよかったけれど、遅くなったらまた彼らの機嫌が悪くなってしまうかもしれない。

 急いでいた足を更に速める。しかしピーターは、唐突にその足を止める羽目になった。はっきりと、大きな物音が耳に飛び込んできたからだ。びくりと肩を揺らして驚き、ピーターは恐る恐る振り返った。しかし、恐怖心より好奇心が上回り、彼はゆっくりとだがその物音の方に足を進めた。怖いもの見たさだった。その先に何があるかなんて、ちっとも考えていなかった。

 だからその物音の出所がどこか知ったとき、ピーターはひどく後悔する羽目になった。3階の女子トイレ……「嘆きのマートル」がいるトイレだ。マートルは苦手だった。そもそも、ゴースト自体あまり得意ではない。
 物音もきっとマートルが立てた音に違いない……踵を返そうとしたところで、またピーターの耳に大きな音が飛び込んできた。そして、明らかにマートルの声とは違う笑う声が。
 訝しげに眉を顰め、ピーターは女子トイレの入り口を見た。物好きな誰かが―― ゴーストかもしれない―― マートルに話しかけでもしたのだろうか。笑い声は複数のようだった。不意に人の気配がして、ピーターは咄嗟に傍の柱の陰に隠れた。
 笑い声は、どうやらトイレから出てきた数人の女子生徒のものだったらしい……確かにここは女子トイレだが、わざわざここを使う人がいるだろうか?ピーターは彼女たちの首に巻かれたスリザリンカラーのネクタイと、歪んだ口元を目に留めた。
 クスクスという笑い声が、木霊する。嫌な笑い方だった。きっと彼女たちは、マートルをからかってきたに違いない。

 女子生徒たちの姿が完全に見えなくなり、ピーターはそっと女子トイレをのぞいた。マートルがかわいそうだとかそういう気持ちはなかったが、何となく気になったのだ。

 できる限り足音を立てないように女子トイレに踏み込んだ。水の跳ねる音が奥の方から響いてくる。それとは違う、ガタンと大きな音がしてピーターは思わず飛び上がった。マートルだ。

「おおおおおおぉ! 男子がいるぅう」

 そう叫んだマートルがまき散らす水を何とか避けながら、ピーターはトイレの奥へと進もうとした。マートルはそれに対してますます大きな声をあげ、ピーターの行く手を阻むように彼の目の前に立ちふさがった。彼女はゴーストだから体をすり抜ければいいのだろうけれど、ピーターにその勇気はない。

「あんたもあの子を笑いに来たのね」

 ピーターの前に立ちふさがったマートルが、探るようにピーターを見た。

「あ、あの子?」

 「知っていてきたんじゃないの?」と、マートルは片眉を上げて言った。それからまた少し観察するようなマートルの視線を受けていると、ピーターの耳に、不意に聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「マートル? 誰かいるの……?」

 すぐにはその声の主が誰なのかわからなかったが、ピーターは、半透明のマートルの体の向こう側にいる声の主の姿を見つけた。
 ピーターも、そして声の主も同時に息を呑んだ。同じような表情でお互いを見つめている。

「ペティグリューくん……!」

 澄んだ声が自分の名前を呼ぶのを、ピーターははじめて聞いた。トイレの奥にいたのは、だった。

 どこか気まずさを感じながらの傍に歩み寄ったピーターは、彼女が全身ずぶ濡れであることに気がついた。そして同時に、自分が聞いた物音がなんだったのか気がついてしまった。
 がいじめられているのは有名で、ピーターだってよく知っている。おそらく、さっきピーターが見たスリザリン生に、ここでいじめられたのだろう……。

「どうして……ここに……?」
「それは……僕、物音を聞いて……気になって、のぞきにきたんだ。その……大丈夫?」

 不躾な聞き方にならないよう気をつけて、ピーターはそっとにたずねた。はまたハッとしたような顔をして、自分の姿を見直すと、小さく溜息をついた。困ったように眉根を寄せるは愛らしいと思う。こんな時にそんなこと考えている場合じゃないけれど……。

「ありがとう……大丈夫」

 水浸しの床を見渡しながら、はゆっくりとそう言って、それからピーターに力なく微笑みかけた。

「風邪ひくよ。早く乾かさないと……」

 ピーターはそう言って杖を取り出すと、同じように杖を取り出したが自分のローブや銀色の髪を乾かすのを手伝ってやった。すっかり乾いた後、がまた困ったように水浸しの床を見たので、ピーターは少し首を傾げた。どうしたのだろうか? ここのトイレの床はマートルのせいでしょっちゅう水浸しだったし、そんなに気にすることはないはずだ。

「どうかしたの?」
「これ……」

 溜息交じりの声が響いた。

「鞄だったの……その、色々あって、水みたいになってしまったけれど……」
「スリザリンにやられたの?」
「えっ?」

 の驚きは、おそらく何故ピーターが知っているのか、という驚きだったのだろう……彼女はすぐに眉を顰め、そして俯いてしまった。また気まずさを感じたピーターは、それでもに言葉を続けた。

「スリザリンが、ここから出てくるのを見たから……何かされたんでしょう?」

 ギュッと唇を噛み締めて俯くを、ピーターはじっと見つめた。がピーターの問いに答える気配はなかった。しかし、そのことが逆に何もかも肯定しているようで、ピーターは何だかが放って置けない気分になってきた。
 小柄で細身のは、意気地がないとよく言われるピーターから見ても儚げだ。俯いた彼女の長い睫が震えているのを見ると、ピーターでさえ自分が彼女を守らないといけない、という気持ちになってくる。いつも守られてばかりいる自分よりもか弱い存在……ピーターは気持ちが高揚するのを感じた。今、彼女の力になれるのは自分だけだ。
 辛抱強くの言葉を待っていたピーターの耳に次に届いたのは、の声ではなくマートルの声だった。

は何も話さないわよ」
「マートル」

 焦ったように口を開いたにお構いなしに、マートルはスーッと音もなく天井を滑り、ピーターの目の前にたどり着くと含みを持った笑みを見せた。

「いつだってそうだもの。だから誰も何も知らないのよ」
「君は知ってるの?」

 素早くたずねたピーターに、マートルは嬉しそうに口を開いた。誰に知らないことを自分だけが知っているというのが、彼女にはよほど嬉しいことらしい。しかし優越感に満ちたその表情は、ピーターには気にならなかった。

「スリザリンの女たちがここにを連れ込んだの」

 困惑したの表情を一瞥し、マートルは言葉を続けていく。

「あの子たち色々わめいてたわ。の髪が気持ち悪いとか……でも一番は……何だったかしらね?」
「マートル」
「そう―― シリウス・ブラックに近付かないで!!」

 大きな笑い声と共にマートルはそこら中を水浸しにした。ピーターは驚いてを見た。確かに最近、彼女とシリウスは恋人同士みたいに仲がいい。でも、他の寮生に知られているとは思わなかった。しかも、それが原因でいじめられるほどに。

「それから杖を取り出してトイレを水浸しにしながらに呪いをかけようとしたわ。最初はうまく避けていたのに、この子ったらすぐに避けられなくなったの。しかも呪文を避けるのに鞄なんて盾にして!」

 再び笑い声を上げたマートルは、そのまま水道管へと姿を消してしまった。ピーターは、朱色に染まった顔を困ったように俯かせていると2人きりになってしまった。

「それじゃあ……」

 沈黙に耐え切れなくて、ピーターは口を開いた。

「鞄はそのせいでこんな風になっちゃったの……?」

 は小さく頷くと、パッと顔を上げた。その銀色の瞳が真っ直ぐ自分を見ているのを見て、ピーターは何だか落ち着かない気分になった。

「このこと、誰にも言わないで」
「えっ?」

 突然の言葉に戸惑いがちに視線をやると、はまた俯いてしまった。

「その、リリーとルナに、心配かけたくないの……それに……」

 ためらいがちに言葉を止めたの口から、小さく息が漏れた。ゆっくりと上げられた視線は不安そうで、ピーターは思わず表情を強張らせた。普段とは違う状況に、緊張したからだろう。普段、自分はどちらかといえば助けてもらう立場なのに、今はを助けてやる立場になっているのだ。

「ブラックくんにも―― ペティグリューくんは、ブラックくんと仲がいいでしょう?」
「うん」
「ブラックくんにも、もう、迷惑、かけたくないから……」
「迷惑?」

 はそれ以上何も言わなかった。ピーターもまたそれ以上何も聞くことができず、俯いたの長い睫を見つめていた。自分の知らないところで、彼女とシリウスに何か関わりがあるのかもしれない。「数占い」が一緒というだけではなく、もっと、別の……もちろん、それを確かめることなんてできやしないのだけれど。

「僕、黙ってるよ」

 少しの沈黙の後、ピーターはそっと言った。

「僕もそうなんだ。1人でいると、よくスリザリンに嫌なこと言われるんだ。でも、みんなに黙ってる……だから、の気持ち、わかるよ」

 の銀色の瞳が真っ直ぐ自分を見つめているのが何だか恥ずかしくて、ピーターは視線を下げた。そして、「ありがとう」と遠慮がちなの声が聞こえるまで、その視線を戻すことはなかった。
 マートルが戻ってこない女子トイレの中は静かだ。時々どこかで水の落ちる音が機械的に響くだけのその空間で、ピーターはの鞄だった「もの」をふと目にした。彼女は、明日からどうするのだろう……きっと鞄の中身だって残っていないはずだ。

、鞄……」

 顔を上げて呟いたピーターに、は困ったような顔をして、一度杖を振って見せた。小さく水の跳ねる音がした後、足元に鞄の切れ端のようなものが浮いたが、それ以上形にはならない。溜息をついて杖をしまったに、「どうするの?」とピーターはたずねた。

「新しいのを買うわ」

 力なくは言った。

「鞄は……もしかしたらあるかもしれないけれど……教科書はないもの」
「何か必要なものがあったら、僕、貸すよ」

 咄嗟にピーターはそう言った。俯いたを放っておくことは、自分にはできないことらしい。

「ありがとう……でも、大丈夫」

 綺麗に微笑んだを見て、ピーターは改めて自分が助ける立場になれる人を見つけたことを感じた。何だか前より自分が強く、成長したような気がして、胸の奥が熱かった。

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