汽車はホームに滑り込んでしまった。親友たちがそれぞれ荷物を手に持って、降りる準備を始めている。それでもシリウスは、なかなかその場から立ち上がることができなかった。理由なんて、考えなくてもわかる。汽車を降りたら自分とホグワーツをつなぐものがなくなってしまうからだ。
と過ごした、そしてが消えてしまったホグワーツとのつながりが、なくなる。
そのことは、との永遠の別れを意味しているようにさえ思えた。それでも、汽車を降りなければいけない。足ばかりが重くなり、シリウスはのろのろとその仕度をした。今だって、引き返せばが待っていてくれるような気さえするのに、どうして汽車を降りなければいけないのだろうか。
虚ろな思考のまま、シリウスは汽車を降りた。何かがすっぽりと心の奥から抜け落ちてしまったような気分だった。
「あぁ、お別れだね」
大袈裟なジェームズの声が耳に飛び込んでくる。
「どうせまたすぐに会うじゃないか」
呆れたようなリーマスの声も。
4人が4人とも、闇の勢力に対抗するためにダンブルドアが組織した騎士団に入ることになっていたから、リーマスの言うことは正しかった。またすぐに会うことになるのだ。
重いトランクを引き摺り、シリウスは汽車から少しずつ離れていった。何度も立ち止まりそうになった。が後ろについてきてくれているような気さえした。
ホームは人で溢れていた。再び疲れがシリウスを襲い、彼はまた口から溜息をこぼした。この中のほとんどがまた9月にこの場所に集い、ホグワーツに行くのだ。と過ごした、ホグワーツに。自分はもう、そこに行くことはないというのに。そのことはシリウスの心を重くするばかりだ。
「大丈夫?」
不意に傍で気遣う声がして、シリウスはハッと顔を上げた。隣にいたピーターが、心配そうに覗き込んでいるのが見えた。
「えっと……何だか疲れてるみたいだったから。顔色も悪いし……」
機嫌を損ねたとでも思ったのか、ピーターはどこか焦った口調だった。シリウスは別に怒ってはいなかった。ただピーターがどうしてそんな風に思ったのかがわからなくて、少し眉間に皺を寄せた。
「疲れてないし、顔色も普通だ」
嘘だ――
心の奥で、否定の声がする。顔色のことは鏡を見ないとわからないが、本当はひどく疲れていた。シリウス自身ちゃんとわかっていた。少しでもはやく家に帰って、眠ってしまいたい。のことを考えずにすむかもしれない……そんなこと、ありえないけれど。
それに……
シリウスは気づいていた。疲れの別の原因が、友人たちにあることを。あのクリスマスの日以来、彼らは必要以上にシリウスに気を遣ってくれていた。だけどこれ以上、シリウスは周りに余計な気を遣われたくなかった。ありがたさとか、申し訳なさだって感じている。でも、もう放っておいて欲しい。壊れ物を扱うようにされたって、逆に参ってしまう。
「でも」
ピーターが言いよどむ声に、シリウスは再び視線を彼に向けた。
「パッドフット、のことがあってから――」
「黙れよ」
ビクリと、ピーターが肩を揺らした。自分でも嫌になるくらい冷たい声が頭の奥を揺らしていた。の名前を友人たちの誰かから聞いたのは、随分と久しぶりのような気がした。
「ご、ごめん……」
申し訳なさそうな声。その声に、シリウスはひどい自己嫌悪を感じた。誰も、何も悪くないのに……彼らは自分を心配しているだけなのだ。ピーターだって。それのどこがいけないというのか。
それなのに、僕は……。
「ごめん……本当に大丈夫なんだ。だから、放っておいてくれないか」
また溜息がこぼれた。ピーターはまだ何か言いたそうにシリウスを見ていたが、やがて小さく頷いた。何もかもうまくいかない。
どうして
どうして、こうなってしまったのか。何が、誰が悪かったのか。何度もくり返される思考の渦に、シリウスはまた落ちていった。
談話室はいつも以上に騒がしかった。特にグリフィンドールの寮生が集っている掲示板の周りは。シリウスも例外ではなくそこに立ち、マジマジと掲示板に貼り出されたお知らせを見つめていた。
ホグズミード週末だ。
新学期に入って初めての。もうすぐハロウィーンだから、きっとダンブルドアが気を遣ってくれたのだろう。今の時代、ホグワーツの外で安全な場所はほとんどなかった。生徒たちの安全のためにホグズミード週末はほとんど行われなかったし、あったとしても必ず何人かの教員が引率した。
もっとも、シリウスたちは自由にホグワーツとホグズミードを行き来することができたけれど。それでも、こうしてちゃんとしたホグズミード行きがあるのは嬉しかった。それに――
シリウスは談話室の一角に視線を向けた。掲示板に少しも興味を持たず、が静かに本を読んでいる。ちゃんとしたホグズミード週末なら、を誘うことだってできる。と過ごす時間が増えるたびに、シリウスはもっとと色々なところに行きたくなっていた。ホグズミードにも。
彼女は誰かと行く約束をしているだろうか? リリーやルナ以外で相手がいるをは思わなかったが、その2人に誘われていたとしたらシリウスは断られてしまう気がする。が自分と親友2人を同じように大切に思っていることに、シリウスも気づいていた。
「」
それでもと、シリウスはに声をかけた。読みかけの本から銀色の視線がシリウスに向けられる。
「掲示板、見たか?」
「ううん、」と彼女は首を横に振った。
「何かあったの?」
「ホグズミード週末なんだ」
の視線がちらりと掲示板を捉えた。人ごみの理由に納得したような顔をして、再びシリウスに視線が向けられる。ほんの一瞬のことだったのに、シリウスははやくつづきが言いたくて仕方なかった。
「一緒に行かないか?」
「えっ?」
ぱちりと、1度瞬きをして、は驚いたようにシリウスを見つめた。
「あー……2人きりが嫌なら……」
その視線に居た堪れなさを感じて、シリウスは付け足すように言った。この際、妥協できる。
「そ、そうじゃないの」
焦ったように、は言葉を続けた。
「ただ、わたしでいいのかなって……」
「どうしてそんなこと思うんだ? 僕から誘ったのに、じゃダメだってことあるはずないだろ」
「それは……」
口篭るに、シリウスは気づかれないように溜息をついた。は時々こうやって、よくわからないときに遠慮をする。きっと自分のことを、彼女は過小評価しすぎているのだ。誰かの隣を歩くのに、自分は相応しいかどうか思わず考えてしまうほどに。
「一緒に行ってくれる?」
「わたしでよければ」
綺麗に微笑んで、は頷いた。その言葉には、今度は自分を否定するような色が込められてはいなかった。それが、どこか嬉しかった。
ホグズミード週末がこれほど楽しみだったことは今までにないだろう。シリウスはそう確信していた。が一緒に行く、というだけでこんなにも浮かれることができるなんて。今ならきっとかなり強力な守護霊を生み出すことができるだろうなと、シリウスは思った。
「デートの報告はちゃんとしてくれよ」
からかうような親友の声に、シリウスはさっきまでの浮かれた気分が嘘のように眉間に皺を寄せた。
「デートじゃない」
「2人きりで出かけることは何だってデートっていうのさ、友よ。たとえ2人が恋人同士でなくたってね」
「ああ、そうだな」
相手にするだけバカバカしい。シリウスは話半分で返事をし、杖をしっかりとベルトに挟んだ。
「冷たい返事だな」
さすがに不満を覚えたジェームズが、今度は眉を顰める番だった。
「久しぶりのホグズミードに、どこに行こうか話を振った親友に、君ときたら“ああ、と一緒に行くことにしたんだ”だって? そんな薄情な奴だったなんて思わなかったよ」
「ホグズミードならいつも行ってるだろ」
「せめてごめんのひと言くらい言えないのかい? はエバンズたちに“ブラック君と一緒に行くことにしたの。ごめんね”って謝ってたっていうのに」
そんなの姿が、シリウスの脳裏にはっきりと浮かんだ。彼女なら確かにそうしそうだ。自分は絶対にしないけれど。何しろ肝心の親友が口から生まれてきたような男なのだから。
「お前だってホグズミード週末があるたびに、僕より先にエバンズを誘ってるじゃないか、プロングズ。一体どの口がそんなこと言えるんだ?」
「何のことかな」とジェームズは肩を竦めた。シリウスは少し苛立ってつま先で地面を叩き、ますます眉間に皺を寄せた。今から出かけるっていうのに……!
「遅れるよ、パッドフット」
険悪な空気を感じて、リーマスが口を挟んだ。時計を見れば、約束の時間になっていた。彼女はもう談話室にいるのだろうか。真面目なのことだから、きっと時間より早くそこにいるのだろう。
「ホグズミードで見かけたら真っ先に声をかけるよ」
「絶対に邪魔するなよ」
にやりと笑うジェームズに釘を刺し、シリウスはが待つ談話室へ階段を2段飛ばしに駆け下りて行った。