第四章
ハロウィーンの夜に

「ブラック、を知らない?」

 そして迎えたハロウィーンの夜。大広間で、の姿を捜している時だった。
 顔色を悪くしたリリーとルナがシリウスにそうたずねてきた。「いや……」と短く答えながら、シリウスは嫌な予感が胸を襲うのを感じていた。

がどうかしたのか?」
「いないの。一緒にパーティーに行こうと思って……中々部屋に戻ってこなかったから、捜したんだけど……」
「図書館で本を読んでて、時間を忘れてるとか?」
「図書館に行ったけど、いなかった」

 ルナも心配そうだった。

「だからてっきり、シリウスと一緒なのかと思ったんだけど……」
「僕はジェームズたちと大広間に来たんだ。は1度だって見ていない」

 ジェームズたちのほうにちらりと視線を向ければ、彼らは首肯していた。顔を見合わせリリーとルナは、お互いに不安の色を隠せない表情をしていた。

「捜してくる」

 その不安が伝染し、嫌な予感は大きな染みとなってシリウスの心を覆った。シリウスは立ち上がり、ひと言だけそう言って大広間を駆け出した。後ろの方で友人たちの声がする。しかしシリウスは、もう振り返っていられなかった。

「パッドフット!」

 強い力で腕を引かれる感覚に、シリウスは足を止めざるを得なかった。冷たい廊下に響いたジェームズの声が、いやに反響して耳に残っていた。

「そう1人で突っ走っても、こんな広いホグワーツの中でたった1人を見つけるなんて難しいよ。僕らも手伝うから――

 ジェームズから少し遅れて追いついてきたリーマスとピーターが頷いたのを、シリウスは見た。

「手分けして捜そう……『両面鏡』は持ってるだろ?」
「あぁ」
「エバンズとアーヴィングに、談話室にいてくれるように頼んだんだ」

 落ち着いた、しかし真面目な声でリーマスが言った。

「もしかしたら戻ってくるかもしれないし、それに……」

 リーマスの言葉は、上面とは裏腹にそんなことは万に一つもありえないというような雰囲気を含んでいた。しかし、シリウスはがいつもの様子で―― 本に夢中になりすぎて時間がたつのを忘れたとかで―― 慌てて談話室に戻ってきてくれたらどんなに安心するだろうと思った。

「わかった」

 リーマスの言葉と自分の考えをさえぎるように、シリウスははっきりとした声で言った。

「手伝ってくれ」

 何にせよ、一刻も早くを見つけて、無事な姿を見たかった。

 冷たい廊下に響く足音が、徐々に耳障りに思えてきた。ジェームズとピーターと別れ、シリウスはリーマスとともに校内を走り回ってを探していた。図書館から、普段なら誰も使わない空き教室まで……頭の中に完璧なホグワーツの地図を思い浮かべて、シリウスは駆けた。
 それでもは見つからなかった。荒い息と共に立ち止まって初めて、シリウスは自分がどれだけ走り回っていたのかを実感した。もう10月も終わりだというのに、着ていたシャツは汗でべっとりとしている。走っている最中に上着は脱いだのだが、その不快感は変わらなかった。

「見つからないね……」
「くそっ!」

 同じように汗だくになって肩で息をしながら、リーマスが言った。シリウスはその言葉を追い出すように悪態をつくとリーマスから視線をそらし、すぐ傍の冷たい石の壁を拳で殴った。皮膚が破け、血が滲んでくる……しかし、痛みは感じられなかった。皮膚の破けた拳よりも、心臓の方がずっと痛い気がした。
 いつも自分たちを楽しませてくれるホグワーツが、今はこの石の壁のように冷たい。一体この城は、どこにを隠してしまったのだろうか。イライラが、酷く醜い感情が、シリウスの心の奥深くに突き刺さっていた。

「パッドフット、他に心当たりは?」

 眉を顰めて、シリウスは首を振った。思いつく限り全て探した。後は校庭くらいだったが、そこはジェームズとピーターが探している。彼らからは何の連絡もなかったが、おそらく見つかっていないからだろう……どこか絶望にも似た感覚が、シリウスの背中を駆けた。

「談話室に戻ってみようか? エバンズとアーヴィングから、心当たりの場所を聞きなおしてみよう」

 シリウスは黙って頷いた。自分よりも、今も談話室で親友の心配をしているリリーとルナの方がのことを知っている。シリウスが知らないような場所を、2人は教えてくれるかもしれない。しかし、それは甘い希望でもあった。はたいてい決まった場所にいることを、シリウスは知っていた。

「そうだな……一旦寮に戻って――

 寮? シリウスはハッとした。そうだ、寮だ。

「どうかした?」
「寮の周りだ」
「えっ?」
「まだ見てない。もしかしたら、そこに……」
「だけど寮の傍なんて……それなら、すぐに誰かが見つけてるはずじゃ……」
「だけど僕らは捜し忘れていた。近すぎて、そう思ったから捜さなかった。それを逆手に取ってるとしたら?」
「そうか……!」
「行くぞ」

 シリウスはリーマスの肩を叩いて再び走り出した。今度は寮の方向を目指して。走りながら「両面鏡」を使い、シリウスは校庭にいるジェームズとピーターに、戻ってくるよう連絡をした。根拠はないが直感的に、シリウスは自分の考えが正しいだろうと思っていた。は、絶対に今、自分たちが向かっている方向にいるのだと。

 ハロウィーンの宴会に生徒が出払ってしまい、人けのないグリフィンドール塔の入り口、「太った婦人」の肖像画の前にシリウスとリーマスはいた。

を見なかったか?」

 肩で息をしながら、シリウスは「太った婦人」にたずねた。

「あら? あなたたち、パーティーはどうしたの?」
「パーティーなんかどうだっていい! を見なかったか!?」

 イライラとたずねるシリウスの切羽詰った様子に、婦人は目を丸くして驚いた。

「え、えぇ、見たわ」
「いつ!?」

 期待していた答えに、シリウスは食いつくように身を乗り出した。婦人はその勢いに押されて多少退くような動作を見せ、「ずっと前よ」とシリウスを失望させる答えを返してきた。

「ミス・ストーンに声をかけられていたわ。それから2人でどこかに行ってしまったのよ」
「ストーン?」

 反応したのはリーマスだった。

「知ってるのか?」
「グリフィンドールの1つ下の……栗毛の子だよ」

 眉を顰めながら言うリーマスに、シリウスもまた眉を顰めた。同じグリフィンドールの後輩だろうと、に声をかける女子生徒なんて、リリーとルナ以外、シリウスは見たことがなかった。あったとしても、それは他のルームメイトがほとんど機械的なあいさつをするくらいだろう。それか、悪質な言葉を吐き出すような奴らばかりだ。
 嫌な予感がシリウスを襲った。背中を気味の悪い何かが駆け上がっていくのを感じ、彼はリーマスをじっと見つめた。

「君、彼女に告白されたんじゃなかったのかい……?」

 「ジェームズが言ってたよ」リーマスの言葉が、まるで耳元で鐘を鳴らしたかのようにシリウスの頭の中で響いた。

 まさか

「どっちに行ったんだ!?」

 シリウスはただ叫んでいた。「太った婦人」がその答えを返した瞬間、彼はリーマスの声も聞かずに駆け出していた。

 まさか

 廊下を駆け、その途中にある扉を片っ端からシリウスは開いた。使われている教室、使われていない教室、隠し部屋―― シャツは相変わらずべっとりとしていて、更に不快感を増していたが、そんなことはシリウスにとってもう大した問題ではなかった。

っ!!」

 今度こそ―― そう思って開いた扉の取っ手が、シリウスの手に吸い付いたように離れなくなった。ただ、呆然と、シリウスは言葉を失くして立ち竦んだ。立つことしか、立って、見つめることしかできなかったのだ。

 視界が急に真っ赤に染まったようだった。シリウスは自分の心臓が急激に凍っていくのを感じ、鳥肌を立てた。駆けつけてきたのだろう―― ジェームズが自分の名前を呼ぶ声が、どこか遠くから聞こえる……埃臭さで、鼻が泣きそうだった。

「そんな……」

 リーマスが掠れた声でそう言うのだけが、酷くはっきりとシリウスの耳に届いた。

 は、そこにいた

 その部屋は他の空き部屋と同じように、薄暗く、壁沿いに詰まれている埃をかぶった古臭い机のせいで狭く感じられた。扉を開けて真正面に飛び込んでくる窓だけが唯一の光源なのに、今は真っ暗な闇しか通していなかった。ただ、その中で、机と同じように埃をかぶった床だけが眩しい。

 あぁ……これは、彼女の髪だ――

 シリウスはぼんやりと遠くの方でそう思って、じっと床を見つめていた。眩しい、そして何よりも綺麗な銀色に彩られた汚い床。そこに向けていた薄灰色の視線を動かせば、シリウスが今まで生きてきた中で最も悲しい光景が、そこにあった。

 あの、綺麗な髪がバラバラと床に散らばっている。そしてその分、の髪は短くなっていた。部屋の真ん中に座り込んだは少しも視線を動かさず、じっと宙を見つめていた。その頬に―― その、青白い頬に、シリウスは、ひと筋の、涙の跡を見つけた。
 今この瞬間、は泣いてはいなかった。氷柱に突き刺されたような冷たさと痛みがシリウスの瞳を貫いていた。こんな悲しい光景を、1度だって見たことがない。

 見たくなんか、なかった……

 気付けばシリウスは、すぐ傍に温もりを感じていた。無意識の内に、彼はを抱き締めていた。床に座り込んだまま、シリウスたちが来たことに気付くことさえできなかったを。

……」

 掠れた声で、名前を呼んだ。シリウスは、が肩を小さく揺らし、ゆるゆると自分にその銀色の瞳を向けるのを見た。壊れたガラス玉のような瞳に、シリウスは言葉が出ずに息を呑んだ。目頭が、熱かった。
 泣いてはいけない。シリウスは、強く己に命じた。泣くべきは、自分ではない。シリウスは、震える唇を開いた。漏れそうな嗚咽を、グッと飲み込みながら、彼は自分の言うべき言葉を探した。見つからないそれの代わりに、シリウスは自分の乾いた唇から、もうずっと前に言葉にしたいと願ったことがある言葉を紡いでいた。

 あの頃の自分は、何度彼女をこう呼びたいと願っただろうか。

 2度、そう呼んだとき、壊れた銀色のガラス玉が大きく揺れたのをシリウスは見た。胸に軽い衝撃を感じ、の悲痛な嗚咽が心臓に響いた。その嗚咽が悲痛な泣き声に変わっていく中で、シリウスはただ、の細い体を必死で抱き締めることしかできなかった。他に彼女のためにできることが、わからなかった。
 悔しさと、何かもっとどす黒い感情が、胸の奥から沸々と沸き起こってくるのを、シリウスは感じていた。この光景に似合わないような温かさを持ったの涙を自分のシャツ越しに感じ、それが余計に悲しくて噛み締めた唇から、血の味がした。

 が、泣いている―― ……

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