第四章
ハロウィーンの夜に

 駆けつけたリリーとルナに連れられて、は寮に戻っていった。残ったシリウスたちは、杖を振って黙々と床に散らばったままのの髪を片付けていた。
 の、銀色の髪。の瞳と同じ、銀色の―― シリウスは、この髪が好きだった。あの組分けの儀式のときからずっと、に対する気持ちがなくなっても、この髪を綺麗だと想い続けてきた。

 それなのに……

 シリウスは、床に落ちている髪をひと房掴んだ。から切り離されても、髪はその美しさを失っていなかった。しかし、それが逆にこの髪は最初からの一部ではなかったのだと言っているようで、シリウスは酷く暗い気分になった。

「パッドフット」

 気遣うような声が聞こえて顔を上げれば、やはり気遣うような瞳で自分を見るジェームズと視線が合った。気づけば髪は全て片付き、床には元通り埃が薄らと積もっているだけだった。残っているの髪は、今、シリウスが握っているほんの僅かだけだ。

「大丈夫かい?」

 「何が?」そうたずねそうになった声を、シリウスは飲み込んだ。その声が酷く冷たい響きを含むことがわかったからだ。何か黒い感情が、シリウスの胸の奥にさっきからずっと渦巻いている。この感情が何か、シリウスはもう気づいていた。

「大丈夫だ」

 呟くようにシリウスは言った。

「寮に戻ろう……が、心配だから」

 の髪を握ったまま、シリウスは踵を返してその部屋を後にした。もう二度と、ここには来たくなかった……。

 談話室に戻ると、ぼんやりとソファに座ったルナの姿が飛び込んできた。他に生徒はいない。まだ宴会がつづいているからだろう。ルナは帰ってきたシリウスたちに気がつくと立ち上がり、戸惑いがちに視線をそらした。ルナにしては、珍しい。

「片付け、ありがとう」
「いいよ」

 どこか落ち込んだルナの声に答えたのはリーマスだった。彼の瞳が酷く心配そうに彼女を捉えているのに気づいたが、シリウスは何も言わずにルナへと視線を戻した。

は?」
「うん……リリーと部屋にいる。髪を、整えないと……それに目も腫れてたし……他の人が戻ってきたとき、そんな状態だとまずいでしょ?」
「そうだな……」
「ねぇ」

 ルナのスカイブルーの瞳が、自分をはっきりと映しているのにシリウスは気づいた。

「何も考えてないよね?」
「何が?」

 心臓がゴトリと嫌な音を立てるのに気づかないふりをし、シリウスは短くそう言っていた。ルナはいつだって、こうやって何かを見透かしているような瞳でシリウスを見る。それがシリウスは苦手だった。今もそうだ。

「何か、悪いこと……にこれ以上、辛い思いさせないでよ。わたし、シリウスには――

 ルナの言葉の続きは、新しい足音でかき消されてしまった。だから、ルナが何を望んでいるのか、そのときのシリウスにはわからなかったのだ。
 新しい足音は、女子寮から降りてきたリリーのものだった。いつもなら気の強いリリーも、どこか落ちこんだ雰囲気をしていた。目元が赤いのは、泣くのを我慢したせいだろう。彼女も、傷ついたに心を痛めているのだ。

「リリー……は?」
「泣き疲れて、眠ってるわ。髪はちゃんと揃えたけれど……」
「そう……」
「大丈夫かい?」

 不意に、ジェームズが口を開いた。いつもの浮かれた様子はなく、真剣にリリーを見つめている。

も辛そうだった。でも、君たちも辛そうだよ」

 リリーとルナは同時にジェームズを見たが、すぐに首を横に振った。

「大丈夫よ……のことを思うと、やっぱり辛いけれど……わたしたちが泣くわけにはいかないもの」
はね」

 ルナが言った。

「とっても自分の髪を大事にしてたの……理由は知らないんだけど」

 の髪を握る手に、力がこもった。心臓が、ゴトリと重い音を立てて転がった気がした。が大切にしていたもの、自分が特別に想っていたものが失われたのだ。こんな、無惨にも……改めてそれを実感して、シリウスは目の前が真っ暗になるのを感じた。

「だから、今日のこと、余計に辛かったんだと思う……あんな風に泣いたところなんて見たことなかったし……いつものなら、こっちが心配になるくらい辛いことも我慢して、何でもないって……悲しそうに笑うのに……あんな……」
「正直」

 言葉を詰まらせたルナの掠れた声と、それに被せるように聞こえたリリーの深いため息が耳に届き、シリウスは視界を取り戻した。

「どう接していいのかわからないの……。いつもなら、何か声をかけてあげられるのに……今日は、声をかけたり励ましたりしたら、余計にを傷つけそうな気がして……」
「そんなことないよ、エバンズ」

 ジェームズの真っ直ぐな声に視線をずらせば、親友は深刻な顔で彼自身の想い人を見つめていた。

「君やアーヴィングの言葉が、を傷つけるなんてことない。君たち2人はの親友じゃないか。親友に励ましてもらって喜ばない人間なんて、僕はいないと思うよ」

 ジェームズがこんな風にリリー・エバンズの前で喋ることができるなんて、シリウスはちっとも知らなかった。いつもの姿からは考えられないな……こんなときだというのに、シリウスはぼんやりとそう思った。
 むしろ、こんなときだからこそ何てことないことに思考を飛ばしたかったのかもしれない。胸の奥にある黒い感情は、秒針が進むにつれて大きくなっていった。そしてシリウスは、その感情が自分を蝕んでいくのをはっきりと感じていた。このままでは、いつか飲み込まれてしまう……それが、何だかとても恐ろしいことのように思えた。

「ポッター……」

 リリーの声には、どこか驚いたような、戸惑ったような響きが混じっていた。

「ありがとう」
「えっ?」

 しかし、その響きはリリーにお礼を言われたジェームズの驚きの響きに比べれば微々たるものだった。いつも邪険に扱われているから、彼にとってお礼の言葉をかけてもらえることは本当に信じられないことだったのだ。

「あー……うん、何てことないさ。その、どうやって声をかけたらいいのかわからなかったら、傍にいるだけでも十分だと思うし……」

 顔を赤くして、それを誤魔化すようにごにょごにょと口ごもるジェームズに、リリーの表情が和らぐのをシリウスは見逃さなかった。

「あなたいつもそうだったらいいのに……」
「えっ? 何?」
「何でもないわ。わたしたち、もう戻るわね。の傍にいるわ……」
「色々ありがとう」

 リリーとルナの言葉に、シリウスたちは黙って頷いた。2人が女子寮の階段を上っていくのを見送ってから、シリウスたちも男子寮の自分たちの部屋へと戻っていった。今日はもう、何もしたくなかった。何もする気になれなかった。何も―― ……

 ―― 何も考えてないよね?

 不意に、ルナの言葉が脳裏によぎり、シリウスはハッとした。

「パッドフット? どうかしたのかい?」

 訝しげに声をかけてきたジェームズに何でもないと首を振って、シリウスは他の誰とも視線を合わせないようにベッドの天蓋のカーテンを閉め切った。心臓が鳴り響いている。嫌な音を立てて。何も考えていないかって? その問いに、シリウスは答えられなかった。何を考えているのか、自分でもわからなかったからだ。ただ、黒い感情だけが胸の奥で渦巻いている……。

 シリウスは自分の手を開き、ずっと握っていたの髪の最後のひと房を見つめた。その美しさは失われていない。シリウスがいつも見ていたのと同じまま、綺麗だ。
 しかし、から離れても髪が綺麗なままなのは、これがとは違う意思を持っている生き物だからじゃないかという気がして、シリウスは何だか気味が悪くなった。その髪を持っていることが、急に恐ろしくなった。今まで一度だっての体の一部分に対してそんな感情抱いたことなんてなかったのに……。
 その感情に嫌悪感を覚えたからか、まるで何キロも走ったかのような息苦しさを感じ、シリウスは自分の呼吸が荒くなるのを感じた。背中を伝う汗でシャツがべっとりと張り付き、気持ちが悪い……気付けばシリウスは引き出しの奥から小さな空き瓶を取り出し、美しい銀髪をその瓶の中にしまっていた。きっちりと、蓋を閉じて。
 また、目の前が真っ暗になったような感覚がシリウスを襲った。そしてその視界が戻ったとき、シリウスはその瓶をローブのポケットの奥にしっかりとしまっていた。

 何も考えていないかって?

 頭の中で、自分のものではないような冷たい声が響いた。しかし、その声も、それに答える声も確かにシリウス自身の声だった。

 考えているに決まっている……

 シリウスは、を傷つけた人間が許せなかった。許せないと、思った。

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