心臓がゴロゴロと嫌な音を立て、シリウスはハッと我に帰った。あの、6年生のハロウィーンの晩の記憶と共に、あの日シリウスが感じたどす黒い感情までが思い出されていた。
記憶の渦から現実に戻れば、駅のホームの喧騒が一気に耳に溢れてくる。軽い目眩を感じながら、シリウスはピーターがまだ不安そうに、心配そうに自分を見ていることに気がついた。そんな気遣うような視線さえ心臓の嫌な音を掻き立てているようだった。
シリウスはトランクを持ち直した。一刻も早く、家に帰りたい。独りに、なりたい。
「帰っちゃうの?」
どこか慌てた口調で、ピーターが声をかけた。
「迎えなんかないからな」
「そうじゃなくて、プロングズとムーニーに何も言わなくていいのかなって」
「さっきムーニーが言ってただろ。どうせまたすぐに会うんだ」
「でも……」
ピーターが口篭った。少しイライラしてシリウスは爪先で地面を叩いた。
「それにあの2人は自分の彼女にさよなら言うのに忙しい。違うか?」
「でもパッドフットが先に帰ったらプロングズは怒ると思うよ」
「それで怒るなら勝手に怒らせておけばいいさ」
知ったことじゃないとシリウスは投げやりに言った。ピーターが辺りをきょろきょろ見回すのが見えた。それが困った時の彼の癖だということをシリウスは知っていた。
以前は失敗したりいじめられたりするたびに、こうして助けを探していた。だけどピーターもこの7年間である程度のことは自分で解決できるくらいに成長し、助けを探す必要もほとんどなくなった。だからその仕草だけが、癖になって残ったのだ。
でも今は以前のように、助けを求めているようにも見えた。
「やあ、ワームテール」
不意に飛びぬけて明るい声がシリウスの耳に飛び込んできた。ジェームズとリーマスが揃って手ぶらで現れた。おそらく、迎えに来た両親に荷物を預けてきたのだろう。
「ちゃんとパッドフットを引き止めておいてくれたんだね」
ジェームズの言葉にシリウスは眉を顰めた。そういうことだったのか。
「ワームテール、ご両親があっちにいたよ。僕らはここにいるから」
「うん」
ジェームズの言葉に、ピーターは重いトランクを引き摺って人ごみに消えていった。それを見送った後、シリウスはイライラとジェームズに視線を移した。
「何の用だ?」
一刻も早く帰りたいのだという意味を存分にこめて、シリウスはそう言った。しかし、ジェームズには通じなかったらしい。その笑顔が曇ることも、声のトーンが落ちることもなかった。
「何の用かだって? 実は僕の家で卒業パーティーをしようと思ってね」
「昨日もしただろ」
シリウスはリーマスを見たが、彼は肩を竦めただけだった。昨晩、卒業パーティーと称して部屋で遅くまで散々騒いだ4人は、寮監のマクゴナガルから最後の雷を落とされたのだ。
しかし、どうやらこの目の前にいる親友はまだまだ騒ぎ足りないらしい。リーマスでは、ジェームズを止められないことはわかりきっている。
「男4人水入らず、話すことは尽きないさ」
「僕はもう尽きた。だから帰って寝させてもらうぞ」
「水臭いな。君がいないと退屈なんだ」
「リリーを誘えよ」
ジェームズの興味を少しでも逸らせようと、シリウスは彼がご執心の恋人の名前を出した。しかし、シリウスの当ては外れてしまったようだ。ジェームズが大げさに溜息をつき、首を振る様子にシリウスはそれを悟った。
「残念なことにリリーは今日、ルナと2人だけのパーティーをするんだって言うんだ。女2人、水入らずでね」
ジェームズは「寂しいよね」という視線をリーマスに投げかけたが、リーマスはまた肩を竦めただけだった。代わりにシリウスに視線を向け、リーマスはやっと口を開いた。
「パッドフット、本当は僕もワームテールも帰りたいんだよ」
「どういう意味だい? ミスター・ムーニー?」
「君が来てくれないと、プロングズは手に負えない」
シリウスはリーマスとジェームズの顔を交互に見た。リーマスは本気でそう思っているのだろう。ジェームズはともかく、リーマスの申し出を断ることは得策でないことをシリウスは知っていた、彼は、本気で怒らせるとたちが悪い。
「……わかったよ」
シリウスは渋々そう返事をした。ピーターが戻ってきたのは、ちょうどその時だった。
「よし、みんな集まったね」
嬉々としたジェームズの声に、シリウスはまた疲れを感じたのだった。
「パーティーをしよう」と言った親友が、少しでも自分を元気付けようとそんな計画を立てたことに。そしてそんな親友の気遣いを、疲れを感じながらも無碍にできない自分自身に。
全てが悪循環しているように思えた。その晩のパーティーは楽しかったが、シリウスは心から笑うことができなかった。あのクリスマスの日からずっと、心から笑うことができていないことをシリウスは自分で気づいていた。悲しみだけがシリウスの心を満たし、他の感情を一切排除してしまったように。
そして親友たちはそんな自分にまた気を遣うのだ。シリウスは苦痛を感じた。やはり独りで家に帰るべきだったのかもしれない。親友の誘いを断ってでも。
ポッター家の2階の寝室に魔法で4つのベッドを入れて、シリウスたちはホグワーツと同じようにそこで一緒に寝ることになった。その寝室の窓辺で、シリウスはぼんやりと空に浮かぶ三日月を見ていた。
4人が4人とも寝付けない夜だ。他の3人が色々なことを―― ホグワーツでの思い出を語り合っているのをシリウスはどこか遠くで聞いていた。
「パッドフット?」
穏やかな色を含む、リーマスの声が聞こえて、シリウスは視線をそちらに向けた。
「もう眠いのかい?」
「いっそ寝た方がいいかもね。君は朝に弱いから」
からかい混じりのジェームズの言葉に、シリウスはムッとすることさえできなかった。深い暗闇に、心が沈んでいる。銀色に光る三日月が、その心を捕らえている。
「別に眠いわけじゃない」
静かにそれだけ言って、シリウスは再び月に視線を向けた。
「何を見てるんだい?」
訝しげなジェームズの声が聞こえた。そして、彼が近付いてくる足音も。
「月?」
シリウスの横から窓の外を覗いたジェームズの声の色が変わったのに、シリウスは気付いた。ジェームズに視線を向ければ、彼のヘーゼルの瞳には確かに怒りの色が浮かんでいた。
何に対しての怒りなのか、シリウスは何となくわかっていた。おそらく彼は、自分が月を見ながら考えていたことに気付いたのだろう……そしてそれに対して怒っているのだ。
シリウスが考えていることは、たった1つだった。彼女のことだ。そしてジェームズがそのことをよく思っていないことを、シリウスは知っていた。
だけど自分の口から何か言う勇気はなかった。ジェームズに軽蔑されたくなかったからだ。彼女を失って、親友までいなくなってしまったら、自分には何もなくなってしまう。それが怖かった。でも……。
じっと自分を見つめる、ジェームズのヘーゼルの瞳をシリウスは自らの薄灰色のそれで見返した。ジェームズは何も言わない。きっとそれを口にすれば、自分が傷付くとでも思っているのだろう。だからあえて何も言わずに、自分が彼女のことを忘れるのを待っているのだ。それならば自分は、いつまでも意気地なしのままでいるわけにはいかない。
シリウスは溜息をついた。
「僕が何を考えてるのか、わかってるんだろ」
「シリウス……」
あぁ、やはりそうなのだ。困ったようなジェームズの声音が、それを雄弁に語っている。ジェームズは一瞬躊躇った後、意を決したように言葉を続けた。
「彼女のことはもう忘れるんだ」
「忘れられない」
自分でも驚くくらいはっきりとした声が、口から飛び出した。シリウスは真っ直ぐにジェームズを見据えた。
「忘れられるわけがない。そんなすぐに忘れられるような軽い気持ちで彼女を想っていたわけじゃない」
「彼女は君を裏切ったんだぞ!」
頭を鈍器で殴られたような感覚がシリウスを襲った。ジェームズが彼女に対して怒りを覚えていることをシリウスは気付いていたけれど、実際言葉にされるとそれはショック以外の何物でもなかった。
何か言いたかった。しかし、シリウスの声は震えて形にならなかった。
ジェームズは、何も知らない。自分が何も言わないから、ジェームズは何も知らないのだ。シリウスはいつだって、1番大事な部分を親友たちに話していなかった。あのクリスマスの日のことも、それよりもっと前のことも。自分が弱いばっかりに……。
だけど……シリウスは思った。話さなければいけない。軽蔑されるのは怖かったけれど、それ以上に彼女がこのまま誤解されているのは耐えられないことだとシリウスは気が付いた。
「それは、違う」
ショックと震えを抑え、絞り出すような声でシリウスは言った。
「彼女は僕を裏切ってなんかいない」
驚いたように見開かれたジェームズの視線から、シリウスは視線を外した。
「裏切ったのは」
噛み締めた唇から、血の味がする。
「僕だ」
沈黙が流れた。そして、それを破ったのはジェームズだった。
「そんな……」
戸惑いに満ちた親友の声に、シリウスは、声と同じ色を浮かべた親友の瞳を見つめた。
「そんな、だって、彼女が君を捨てて姿を消した! 闇の魔法使いだったから……それが、僕らにばれたから!!」
「違う」
「違うだって!? 彼女を庇うのはよせ! 君は騙されていたんだぞ!?」
「違う!」
「違わない! 彼女は闇の魔法使いだった! 僕らは見たじゃないか!! 彼女が、ホグワーツの生徒を襲うところを……ホグズミードで、人を殺したところを!!」
「全部誤解だ! 彼女は何も悪くない!!」
「君はそうやって騙されて……利用されてたんだ!!」
「利用なんかされてない!!」
「馬鹿げてる! そうやって信じ込んで……だから傷付いたんだ!! いい加減目を覚ませよ!!」
「目なら覚めてる!!」
「2人ともやめるんだ!」
殴り合いになりそうだった2人を、咄嗟にリーマスが止めた。シリウスは一瞬リーマスに視線を走らせたが、すぐにジェームズを真っ直ぐ見据えた。その真剣な瞳に、ジェームズは言葉を詰まらせた。もうずっと、シリウスの瞳は暗く沈んだままだったのに、今、ジェームズが見ている彼の瞳は違う。
「目なら覚めてる……」
落ち着いた声で、シリウスは言う。
「ジェームズ、聞いてくれ。リーマスも、ピーターも……全部、誤解なんだ。彼女は僕を利用してないし、僕を捨ててもいない。闇の魔法使いだったなんてことも、ありえない」
ジェームズが何か言いたそうに口を開いたのを無視して、シリウスはゆっくりと話を続けた。
「ジェームズが彼女をよく思っていないことには気付いていた。だけど、今までずっと何も言えなかった……怖かったんだ。本当のことを話したら、軽蔑、されると思ったから……」
「軽蔑?」
「言っただろ……僕が、彼女を……僕を想っていてくれた彼女の気持ちを、裏切った。それも、最低な方法で……」
あの日のことを、シリウスは今でも鮮明に思い出せる。そしてそれだけで死ぬほどの自己嫌悪に陥ることができる。あの頃、自分はどうかしていた。だから、彼女にあんな酷いことをしてしまったのだ。後悔しても、何もかも手遅れだということはわかっているけれど……。
「彼女を失って、それでジェームズたちにまで軽蔑されたら、僕にはもう何もなくなる……それが怖かったんだ。だからずっと黙ってた」
シリウスは俯いた。全てを話す決意はしたつもりでも、親友たちの目を見て話す勇気はまだ無かった。
「全部……僕が悪かったんだ。僕が全ての原因だった。あのクリスマスのことも……その前に起きたことも。6年生のときの、ハロウィーンと同じように」
駅のホームで蘇った記憶が、再びシリウスを襲っていた。「覚えているだろ?」と、彼は親友たちを伺うように見た。誰もが小さく頷いていた。
窓の外に浮かぶ三日月の幽かな光が部屋の中の4人の表情を照らしていた。その光は、あの日切られてしまった彼女のやわらかな髪と、同じ色をしていた。