第五章
シリウスの告白

 の短い髪が風に揺れていた。彼女の銀色の瞳には、静かな湖が映っているのだろう。シリウスは湖を見つめるの背中をじっと見つめながら、少し乱れた息を整えていた。

 月の光に似た銀色の髪が、昨晩と変わらず瓶の中でぼんやりと輝いていた。シリウスは少しためらってから、それを昨晩と同じようにローブのポケットの奥深くに突っ込んだ。

 翌朝、ジェームズたちには先に大広間へ行ってもらい、シリウスは1人談話室でを待っていた。いつも通りリリーとルナの2人と一緒に談話室へ降りてきたは、少し目元を赤くしていて、彼女が昨日ずっと泣いていたのだとシリウスは改めて実感した。

「おはよう」
「ブラックくん」

 何気ない風を装ってシリウスが声をかけると、は驚いたように目を丸くした。その表情があまりにもいつもの様子と変わらなくて、それがシリウスには何だか寂しかった。

「おはよう。どうしたの?」

 首を傾げるの、短くなってしまった銀色の髪が揺れる。リリーの手で綺麗に切りそろえられたそれはによく似合っていたけれど、やっぱり彼女は長い髪のほうがいいと、シリウスは静かに思った。

と一緒に朝食に行こうと思って……たまにはいいだろ?」

 最後の言葉はにというよりも、むしろリリーに向かってシリウスは言った。不満そうなりリーの明るいグリーンの瞳が値踏みするようにシリウスを見つめていたが、彼女は好きにしなさいとでも言うように顔をそらした。
 リリーの許可が出れば、はすぐに頷いてくれた。「行こう」との一歩先を歩いて、シリウスはと2人で大広間へと向かって行った。

 昨晩の出来事をほとんどの生徒が知らないのだと、大広間に踏み込んでシリウスはまず実感した。
 何か事件が起きたら……そして、その当事者が大広間に入ってきたら、普段ならホグワーツの生徒はみんなその当事者のほうを向いてひそひそと話し声を立てるものだ。シリウスがジェームズと大掛かりな悪戯をしたときは必ずそうだったし、それによって手ひどい罰則を受けたときもそうだった。

「おーい!」

 空いている席はないかとグリフィンドールのテーブルに視線を走らせると、真ん中あたりに陣取っていたジェームズが大きく手を振った。どうやら席を取っておいてくれたらしい。それも、何を察してか数人分。

「駄目よ!」

 すぐ後ろにやって来たリリーが、そんなジェームズの声を聞きつけてうなるように言った。

「何が?」
「あなたとが一緒に食事をするのはかまわないけど、ポッターとが一緒に食事をするのは許せないわ!」
「そうだな」

 振り向いたシリウスにそう告げたリリーに、半ば苛立ちながらシリウスは言葉を続けた。どうしてリリーはこうも口うるさいのだろう。特に、ジェームズのことになると……。

「だけど僕とが食事する席がたまたまジェームズたちの近くだったっていうだけだ」
「2人とも朝からやめなよ。が困ってるよ」

 寝起きのせいか、いつも以上にのんびりとした声でルナが言った。

「それにわたしたちだって2人一緒に座れる席がほとんどないんだから、ここはポッターの好意に甘えるべきじゃない? わたしたちの席も確保してくれているみたいだし」

 ルナの言葉には有無を言わさない響きがあった。何より、彼女はそう告げるとさっさと1人でジェームズたちが座る方へと歩いて行ってしまった。困ったように自分を見上げたにシリウスはちょっと肩を竦め、そんなルナの後に続いた。後ろのほうでリリーを説得するようなの声が聞こえてきた。

 それはホグワーツでは珍しい光景だった。あの、リリー・エバンズが、あの、ジェームズ・ポッターと一緒に朝食を食べているのだから。しかし、シリウスはこの席について初めて気付いたことがあった。

「2人きりで食べようと思ってたんだけどな……」
「でもわたし、こうしてみんなで朝食を食べるのも楽しいわ」

 あまりにもが綺麗に笑うので、シリウスは少し拍子抜けしてしまった。

「……そうだな」

 でも、何だろう

「その代わり、昼食は一緒に食べよう。今度は、2人きりで」
「うん……」

 シリウスは何となく違和感を覚えていた。俯いて頷いたは、はにかんだように微笑んでいるけれど、あまりにもその雰囲気がいつもと変わらなすぎて、それが何だか不安だった。あんなことがあった翌朝なのに?

 昨日のあの教室で見た光景を、シリウスはひと晩明けた今でもはっきりと思い出すことができる。
 あんな、悲しい光景の次の日だというのに、はもう大丈夫だとでもいうのだろうか? 髪が元に戻ったわけではない。が大切にしていたというあの長い銀髪は、もうの肩にかかっていないのだ。それを思うとシリウスは胸の奥でどす黒い何かが渦巻いた。それなのに、髪を切られた本人であるは何も感じていないのだろうか? そんなはずはない。

 しかし、この場でそれを問いただすことはできなかった。そんなことをすれば、今度は自分がを傷つけてしまうような気がした。はきっと、この場で昨日のことを話して欲しくないのだ……ここには他の生徒の目もあるし、きっとシリウスがを問い詰めれば、昨日のことだって他の生徒の知ることとなる。

 は、それを望んでいない。

 シリウスはそう判断し、暗示をかけるように自分に強くそう言い聞かせた。そうでなければを問い詰めてしまいそうだった。
 シリウスにできることは、授業中も移動の時間も昼休みも、ずっといつもどおりのを心配そうに見つめることだけだった。がもし少しでも普段と違うところを見せたのなら、すぐに手を差し伸べられるように。

 約束どおり、昼食の席はと2人きりになった。ジェームズたちは気をきかせたのか、大分離れたところに陣取って騒ぎながら昼食をとっている。シリウスは目の前のソーセージを軽くつつきながら、向かい側に座るの様子を伺うように見た。は今朝と変わらずいつも通りの表情で、目の前のスープをかき混ぜていた。

「どうかした?」

 シリウスの視線に気付いたのか、が顔を上げた。

「いや……」

 フォークがソーセージを刺すブシュッという音にかぶせるようにシリウスは呟き、から視線をそらした。を見ていたとはいっても、いざこうして声をかけられると何を話していいかわからなかった。まさか、昨日のことを持ち出すわけにはいかない。

「あのさ、

 シリウスは再び顔を上げての銀色の瞳を見た。彼女は不思議そうに首を傾げて、自分の薄灰色の瞳を見てくれている。それが―― 不謹慎だとは思ったけれど―― ほんの少し、嬉しかった。

「もうすぐ、クィディッチのシーズンだよな」

 当たり障りのない話題。シリウスは昨日の出来事を、できる限り自分の頭の奥深くに押しこめた。

「そうね」

 そんなシリウスの思いを、は勘付いていないようだった。それがシリウスにはありがたかった。

「ブラックくんは、今年も選手なんだよね」
「あぁ」

 ほんの少し微笑んで視線をスープに向けたに、シリウスは頬を緩ませた。

「今度……練習、見に来てくれないか?」
「えっ?」
に見に来て欲しいんだ……」
「いいの?」

 シリウスはソーセージの最後のひと口を口の中に放り込みながら頷いた。自分が来て欲しいからそう言っているのだ。よくないなんて言うわけがない。はにかむの、短くなってしまった髪が、揺れた。

「そろそろ移動しようか」

 その様子をあまり見ていたくなくて……見ていると、また胸の奥でどす黒い感情が渦巻くのが嫌で、シリウスは腕時計に視線を向けてそう言うと、立ち上がって隣に置いてあった鞄を持った。

 大広間から出る直前、クリス・ストーンが自分を見たのにシリウスは気がついた。

 一緒に大広間から出はしたが、午後の授業は一緒ではなかった。それでも放課後になればきっとは図書館にいるだろうと思い、シリウスの足は自然と図書館に向いていた。さすがに今日はジェームズも悪戯をする気にはなれないようだったし―― 昨日のことを、彼らもそれなりに受け止めているようだった。

 月曜日の図書館は、いつも以上に人が少ない。休日の後などそんなものだろうと、ぼんやり考えながらシリウスは図書館に足を踏み込んだ。誰も週の頭に出たばかりの課題をすぐにやろうと思わないし、休日の気分をほんの少し引きずって、談話室で過ごす生徒が多いのだ。
 しかし、はそんな月曜日でも図書館にいることが多いことをシリウスは知っていた。というよりも、彼女は休日でさえもここで過ごすことが多い。談話室にはリリーとルナが一緒ではないとほとんどいないし、何より彼女は読書をしているときが1番楽しいらしかった。休日でも、それは同じだった。

「あれ?」

 いつもの窓際の席についたときシリウスは思わずその薄灰色の目を見開いた。が、いない。
 昨日の今日でまた誰かに呼び出されて何かされているのだろうか……そう思うと妙に焦ってきて、シリウスはすぐに図書館から飛び出した。真っ直ぐグリフィンドール塔に戻り、ジェームズのベッドの上に無造作に置かれていた「忍びの地図」を掴むと、再び肖像画をくぐった。「慌しいわね」と、「太った婦人」が不満そうに言うのが聞こえたが、シリウスの気に止まらなかった。

 呪文によって現れた地図が示したの居場所は、湖の傍だった。そういえば、はその場所も好きだった気がする。なぜ気付かなかったのだろうとシリウスは少しの落ち着きを取り戻し、地図を消してローブのポケットに突っ込んだ。
 の名前の周りに、他の名前はなかった。それでもシリウスの足は、すぐに彼女に会いたいとでも言うように、いつのまにか駆け足になっていた。

 冷たい風がシリウスの頬を掠めた。湖の辺に座るの背中を、シリウスは見つけた。呼吸を整え、しばらくその背中を見つめていた。どうしても話しかけるタイミングをつかめない。彼女が、振り返ってくれればいいのに……。

 そんなことは無理だと知っていたから、足元の落ち葉を風が巻き上げたのと同時に、シリウスはの名前を呼んだ。短くなった銀色の髪が揺れて、振り返ったの表情は、シリウスの心配をよそにいつもと変わらないように見えた。

「ブラックくん」

 シリウスがそこにいることを予想しなかったかのように、が目を丸くした。立ち上がるの傍に歩み寄り、シリウスは少し、彼女が今まで見つめていた静かな湖に視線を向けた。

「どうしたの?」
「図書館に行ったらいなかったから捜しにきたんだ」
「えっ? あ……ごめんなさい」

 申し訳なさそうにそう言うに、シリウスは黙って首を振った。

「本でも読んでいるのかと思ったけど、違ったんだな」

 の表情がいつも通りなら、自分もいつも通りでいたかった。

「うん……湖を見てたの」
「湖なんて、退屈だろう?」

 それでも、シリウスは自分がいつも通りでないことを感じていた。

「そんなことないわ」

 の白い手が無意識に動き、肩辺りに触れた。ふと、その銀色の瞳を彼女が悲しそうに伏せたのを見て、シリウスはその手が触れた位置に、昨日まで彼女の髪があったのだと気付いた。そして無意識に動いたその手が、そうして何かあるときに髪を触るのが彼女の癖なのだと語っていた。
 シリウスは思わず眉を顰めた。また、あのどす黒い感情が胸の奥で渦巻く。それは時間がたつにつれ、熟成され、その濃さを増していっていた。
 はやはり、髪を失ったことを悲しんでいる……そう思うと、喉が熱くなるようだった。

「でも、もう冷える。戻ろう、寮に」
「うん……」

 名残惜しそうなの手をとると、それは氷のように冷たくなっていた。授業が終わって、ずっとここにいたのか、それとも、もっと前からここにいたのかはわからなかった。どちらにしろ、はこの小さな手が冷え切るまでここにいたのだ。この寒い、湖の辺で、悲しそうに湖を見つめていたのだ。

 その事実でさえの髪を切った犯人のせいに思えて、シリウスはに気付かれないように静かに唇を噛み締めた。

 そうしないと、あの今にも自身を呑み込みそうな黒い感情が、あふれ出してきそうだった。

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