第五章
シリウスの告白

 それはシリウスにとって、清々しい朝だった。しかしそんなシリウスの感想とは逆に、大広間はどこか落ち着かない雰囲気に包まれていた。
 自分だけが落ち着いているようだ。シリウスはそう思った。朝一番に監督生であるリーマスは呼び出されたため、その場にいるのはシリウスとピーターだけだった。ジェームズは起き抜けに飛び込んできたニュースに関して、もっと情報を集めようと飛び回っていた。

「早く食べろよ、ワームテール」

 きょろきょろと辺りを気にするように視線を動かすピーターの手が止まっていることに気づき、シリウスは片眉を上げた。

「授業に遅れるぞ」
「パッドフットは気にならないの?」

 ピーターの表情には僅かに恐怖の色が浮かんでいた。

「クリス・ストーンの事件……」

 歪みそうになる口元を、シリウスは必死で抑えた。

 クリス・ストーン。

 今日の朝、起きた瞬間から、ホグワーツ中にそのニュースが駆け巡っていることをシリウスは知った。グリフィンドールの5年生、クリス・ストーンが石になって発見されたというニュースだ。それを耳にしたとき、シリウスの脳裏に真っ先に浮かんだのが恐怖で歪んだ顔のまま固まってしまったクリスの哀れな姿だった。当然の報いだと、シリウスは思った。

 あの、綺麗な銀色を奪った当然の報いなのだ。

「プロングズ」

 ピーターの声に、シリウスは顔を上げた。ジェームズが残念そうに肩を落として自分たちのいるテーブルに向かってくるのが見えた。情報収集をやめて戻ってきたのだ。朝食を食べずに動いていたのだから当然だろうとシリウスは思った。何も食べずに午前中の授業を受けるなんてこと、考えられない。

「何かわかった?」
「噂以上の情報はないみたいだ」

 恐怖よりも興味が勝ったらしいピーターがパンに手を伸ばしたジェームズに声をかけた。

「昨日の夜、ストーンは部屋に戻ってこなかったらしい。それで今朝、同室の女の子たちが探しに行ったら空き教室で石になって倒れていた。それだけだね。ムーニーが監督生の集まりから戻ってこればもっと何かわかるかもしれないけど」

 ジェームズは大広間の入り口にヘーゼルの瞳を向けたが、彼の期待は叶わなかった。シリウスは食後の紅茶を飲みながら、親友が朝食を取るのを黙ってみていた。本当に、彼は今回の事件について他に何の情報も仕入れられなかったらしかった。

「それにしても犯人はユーモアのある奴だねストーンを“ストーン”にするなんてさ」

 投げやりなジェームズの言葉に、ピーターが笑っていいのかわからないと言うような微妙な表情をした。シリウスはちょっと肩を竦めて紅茶のカップを置いた。そろそろ授業に行かなければいけない時間だ。

 結局、リーマスと合流したのは「変身術」の教室だった。さっそく監督生の集まりのことを聞くと、彼は眉をしかめてひと通りのことを説明してくれた。

「ダンブルドアだってまだ何もわかっていないみたいだった」

 ホグワーツの中で、ダンブルドアが知らない、ということはかなり重要なことだった。彼が今現在最も偉大な魔法使いであることは誰もが納得する事実だったし、このホグワーツの中では特にダンブルドアの存在は大きかったからだ。逆に、ダンブルドアが何もわかっていないということは、生徒の不安を余計にあおった。

「ただ、最近は闇の勢力も大きくなっているから……その関係が全くないとは言い切れないだろう?」
「スリザリンには死喰い人の候補が何人もいることだしね」
「くれぐれも気をつけるようにって……今はただそれだけさ。先生たちも犯人を捜すのに尽力するからって。それから、どんな危険があるかもわからないから余計なことはするなって」

 特にジェームズのほうを見ながらリーマスは言った。

「僕が余計なことをするっていうのかい?」
「勝手に犯人探しをするなってことだよ」

 リーマスの口調には呆れたような響きがあった。

「犯人がどんな相手かわからないのにそんなことをするのは賢明じゃないってことさ」
「ああ、そうだろうね」

 おそらくジェームズは犯人探しをするだろうとシリウスは思った。自分の親友はことさら闇の魔術を憎んでいたし、少しでもそれに関わっている可能性のある事件を放っておける性格はしていなかった。そして、自分も……だけど……シリウスは思った。今回は、別だ。

「ストーンは大丈夫なの?」

 ジェームズの態度にムッとしたリーマスの注意を逸らすように、ピーターがどこか慌てた口調でたずねた。

「マダム・ポンフリーがマンドレイクから元に戻るための薬を作ってくれるって……」

 教室に来たマクゴナガルが授業開始を告げ、リーマスの言葉は中断された。

 午後の「数占い」の授業で、シリウスはその日初めてと2人きりになれた。そしてどことなく彼女の顔色がさえないことに気付いた。また、何かされたのだろうか? クリス・ストーンが襲われたことは、彼女に何か悪い影響を及ぼしたのだろうか。
 授業が終わってすぐに教室を出て行ってしまったを、シリウスは追いかけた。いつも通り図書館に行ったがそこに彼女はいなかった。他にいそうな場所と言ったら、湖の辺くらいだろう。
 少し肌寒い空気を感じながら、シリウスは真っ直ぐに校庭を横切って湖に向かった。人の気配はない。授業が終わったばかりだからか、それともいい加減寒くなってきた校庭でわざわざ夕食までの時間を過ごそうと、誰も思わないからだろうか。

 しかしは湖の辺にいた。シリウスはためらうことなく昨日と同じように湖を見つめるの背中に声をかけた。
 銀色の短くなった髪が揺れ、はシリウスを不思議そうに振り返ったが、その瞳にはシリウスが予想していたような傷ついた色は見えなかった。それよりも彼女はどこか不安げだった。

「大丈夫か?」

 シリウスが来たからだろうか、彼女は膝においてあった古ぼけた絵本を大事そうに閉じ、そっとそれを鞄の中にしまった。俯いて影になっていても、やはり彼女の顔色は悪いように思え、シリウスは思わずにたずねた。

「えっ?」
「いや、顔色が悪いみたいだから……」
「そうかしら……?」

 頬に手を当てて、彼女は視線を伏せた。

「何か悩みでもあるのか?」

 自覚がなかったのなら、きっと体調が悪いのではないだろう。

「悩みというか……」

 シリウスはの隣に座り、その銀色の瞳を覗き込むように見つめた。は自分の顔色が悪い原因を、ゆっくりと考えているようだった。

「あんな事件があったから、少し不安になってるのかも……」

 ぽつりと、は呟くように言った。

「こんな時代だし……彼女がマグル出身だって、誰かが話しているのを聞いたから余計に」

 それは知らなかったな。シリウスは思った。だけど、ちょうどいいのかもしれない……犯人は闇の陣営に傾倒する人間だと思うだろう。

「もしホグワーツが安全じゃなくなったら……」
「大丈夫」

 シリウスはの白い手をそっと握った。

だけは、僕が必ず守るから」

 の銀色の瞳は、複雑な色を持ってシリウスを見上げた。彼女が何を思っていて何を言いたいのか、シリウスにはわからなかった。ただ漠然と、が自分の身を心配しているのではないことにシリウスは気がついた。
 彼女は、何が不安なのだろうか……の手が無意識にもともと髪があった肩の辺りに触れるのを見ながら、シリウスは逆に自分が不安になるのを感じた。

「こんな時代だから……」

 の瞳はシリウスから湖の、遠くの方に見える風景に移っていた。

「こんな時代だから、人には『ここは必ず安全なんだ』と思える場所が必ず1つは欲しいと思うの。そしてそれはたぶんホグワーツなんだと思う……ダンブルドアがいるホグワーツ……だから親は安心して子供を預けられるのだし、わたしたちもこうして普通の生活を送ることができるんだわ」

 静かな言葉だった。しかしシリウスはその言葉に強さも感じていた。

「それなのに、そこが安全じゃなくなってしまったら……」

 の微かに漏れたため息は、シリウスの心を深く傷つけた。そしてその傷口から、シリウスはあのどす黒い感情があふれ出してくるのを感じた。無意識に空いていた手をローブのポケットに入れると、あの瓶の冷たい感触が指先に伝わってきた。

「君にとってここは本当に安全なのか?」

 気付いたときには、シリウスはそう口を開いていた。が驚いたように目を丸くして自分を見上げるのが見えたが、シリウスはそれでも言葉を止められなかった。

「ハロウィーンの夜、あんな目にあったのに? それより前からずっと君は酷い目にあっていたじゃないか」
「それは……」

 戸惑ったように、は視線を泳がせた。自分の手から抜け落ちそうになったその手を、シリウスは強く握ってつなぎ止めた。絶対に離したくなかった―― 彼女を。

「ストーンは罰を受けたんだ」
「えっ―― ?」
「あの晩、君を呼び出したのはクリス・ストーンなんだろう?」

 冷たい風が、シリウスの頬を打った。の顔色が変わり、愕然とシリウスを見上げていた。

「ど、どうして……」
「それを知ってるのかって? あの晩『太った婦人』が僕らに教えてくれたんだ。君を見なかったかってたずねた僕らに、君がストーンに声をかけられて、2人でどこかに行ってしまったってね」

 はじっとシリウスを見つめていた。その銀色の瞳は混乱しているようだった。

「君の髪は綺麗だ……」
「ブラック君……?」
「なのに、あの女はそれを――
「やめて!」

 不意にの髪に向かって伸ばした手は、乾いた音を立てて振り払われた。シリウスは驚いてを見た。こんなことは初めてだった。

「あ……」
……」
「ご、ごめんなさい……わたし……」

 シリウスの手を振り払った手を胸元で握り、は俯いた。一瞬、の瞳が不安で大きく揺れたのをシリウスははっきりと見た。何故、あんな顔をするのだろうか。

「でも、そんな目は……やめて」

 絞り出すような声だった……自分はどんな目をしているというのだろう……?
 握っていたの手が、急に冷たくなったように思えた。の声は掠れていて、風にかき消されてしまえばすぐに聞こえなくなってしまった。不意に気まずさがこみ上げ、シリウスはから顔を背けた。自分は、一体何を言った?

「寮に、戻ろうか……」

 少なくとも、そこでは2人きりになることはない。今はただ、この2人だけの空間が耐えられなかった。いつも通りに振舞うことができないような気がしたからだ。

「うん……」

 それはきっと、も同じだったのだろう。

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