女子生徒が石にされる事件は、あれから3件、立て続けに起こった。ホグワーツにはびこる不安は日ごとに色濃くなり、前までの活気溢れる雰囲気は、クィディッチのシーズンが始まっても戻っては来なかった。
ルナ・アーヴィングは事件が起きて間もなく訪れたもう1つの異変に気がついていた。最近、がシリウスを避けているのだ。ルナの目から見て、シリウスと一緒の時間を過ごすようになったはいつだって幸せそうだった。
しかし、最近はそんな時間作ろうともせずいつも独りでいるし、シリウスを見つめることさえほとんどしなくなってしまった。2人に何かあったのは明白だった。
「一体、どうしたの?」
監督生の集まりが増えたせいで、リリーは今、部屋にいない。他のルームメイトは談話室にいるのだろう。運よくと部屋で2人きりになったルナは、思い切ってシリウスとのことをにたずねてみた。
ルナの親友は、あからさまに彼女の質問にうろたえた。銀色の瞳を宙にさまよわせ、困ったように眉を寄せる。
「ケンカでもした?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、シリウスがいきなりキスしてきたとか」
「そ、そんなことしないわ!」
の白い頬が真っ赤に染まり、彼女はそれを隠すようにパッと両手で頬を包んだ。
「ブラックくんとは友達だもの……そんな」
「でも、あの、シリウスだよ?」
「ブラックくんは好きでもない子ともう付き合うのはやめるって……」
の瞳は真剣だった。それでも信じられなくて、「そう言ったの?」とルナは思わず聞き返していた。
「シリウスが?」
「うん……わたしが、1人で色んなこと、抱え込むのをやめたら自分もそうするって」
「でも、は今抱え込んでるよね? わたしやリリーにも言えないこと」
最近、いつもが不安そうな表情をしていることにルナもリリーも気づいていた。そして、それは図星のようだった。はますます困った顔をして、俯いてしまった。
「何かあったの?」
「何も……」
「シリウスにも、相談できない?」
の答えはなかった。しかし、ルナはの表情にあった不安の色がますます濃くなるのを見逃さなかった。シリウスに、相談できない。の悩みは、そのシリウスのことなのだ。ルナは直感的にそう思った。
まさか
思ったことを飲み込んだ。にたずねても、きっと答えはでない。
消灯時間を過ぎ、部屋は静かな寝息で満たされていた。ルナはそっと起き上がり、ベッドサイドにおいてあった杖を手に取ると、月明かりを頼りに部屋をこっそりと抜け出した。
リリーにばれると渋い顔をされるが、こういう真夜中の秘密の散歩がルナは好きだったし、部屋を抜け出すのもお手の物だった。「太った婦人」の肖像画を抜け、傍にあった石像の影にしゃがみ込む。勘が正しければ、ここならば大丈夫のはずだ。
これから寮を抜け出すであろう、シリウス・ブラックを待ち伏せするのは。
シリウスは当たり前のようにベッドから抜け出し、当たり前のように部屋から抜け出した。今日で、全て終わる。復讐する相手はあと1人だけだった。寒さをしのぐために羽織ったローブのポケットに手を入れると、シリウスの骨ばった指先に、冷たく硬い感触がした。あの瓶だ。シリウスは肌身離さずそれを持っていた。
浮き足立つ気持ちが、それに触れると落ち着いてくる。しかし同時に、胸の奥から沸々とあのどす黒い感情が沸き起こってくることも、シリウスは心のどこかで気づいていた。
でも、今日で終わるんだ。
歪む口元を隠す必要の無い暗闇の中で、シリウスは冷たい瓶を握り締めた。終わる、のだ。「太った婦人」の肖像画をくぐる。それだけで笑い出しそうな気分だった。
「シリウス」
しかし、その衝動を止めたのは、この暗闇に不釣合いなはっきりとした声だった。シリウスは驚いて振り返り、その聞き覚えのある声の主を見た。
ルナ・アーヴィングだった。
立ち止まって真っ直ぐに自分を見つめるルナをマジマジと見つめながら、シリウスは何故彼女がこんなところにこんな時間に立っているのか混乱した。そして、ルナのスカイブルーの瞳が全てを見透かしたように自分を見つめていることにひどく動揺していた。
「どこに行くの?」
無視をして足を進めればいいのに、シリウスは立ち止まってルナと向き合ってしまっていた。探るようなルナの視線が、シリウスは嫌いだった。
「僕がどこに行こうと、関係ないだろ。そっちこそ何でこんな時間にこんなところにいるんだよ」
「シリウスを待ってたから」
淀みのない声。
「シリウスが寮を抜け出すんじゃないかと思って」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
シリウスは口をつぐんだ。どうすればルナをうまく交わせるだろうか。
「がシリウスとの約束を破って1人でいろいろ抱え込んでるから、シリウスももしかしたら約束を破ってるんじゃないかと思って」
「どうして約束のことをお前が知ってるんだ?」
「から聞いた」
ルナは悪びれなく答え、それから探るようにシリウスを見た。
「ホグワーツでどんな事件が起こってるか知らないわけじゃないでしょ? いくらシリウスが成績優秀で通っていても危ないんじゃない?」
「そういうお前はどうなんだ? 襲われてるのはみんな女子生徒だ。お前の方が襲われるかもしれないだろ。寮に戻った方がいいんじゃないか?」
「そうかもね」
鼻で笑って言い返しても、ルナは顔色1つ変えない。それが妙にイライラした。
「だけどたぶん大丈夫なんじゃない」
ルナにとってシリウスの警告はどうでもいいことのようだった。軽い口調で返事をしつつ、しかし、瞳はまだ鋭い光を湛えていた。
「ねぇ、最近と何かあった?」
それは唐突な問いだった。
「何も」
一瞬、シリウスの脳裏に湖でのできごとが過ぎった。しかし、彼はそのことを口に出さなかった。何故、ルナにそんなこと聞かれないといけない? そして、自分はそれに正直に答える必要なんて無いはずだ。
「最近、、元気が無いんだ」
嫌な気分だった。心臓が不快な音を立てて軋んでいる。
「どうしてだと思う?」
「僕が知ってると思うのか?」
「は今起きてる事件のことで不安になってるんだよ」
ルナは何が言いたいのか、わからなかった。
「、犯人を知ってるみたい」
一瞬、思考回路がどこかに行ってしまったような感覚がシリウスを襲った。
何、を?
は何を知っていると、今、ルナは言っただろうか? 背中を嫌なものが伝う。
「それで?」
震える声を押し込め、できる限りそっけない返事をシリウスはした。
「それを僕に言ってどうしろっていうんだ?」
ルナは何も言わない。シリウスは何も言わずに、ルナの横を通り過ぎようとした。
「これからデート?」
「お前には関係ないだろ」
通り過ぎざまにかけられた言葉は、どこか軽蔑したような響きを含んでいるように聞こえた。それは、忠告だったのかもしれない。
が犯人を知っている
そしてそれをどう思っているのか
もしそれが本当なら、彼女は自分を軽蔑しただろうか?
埃臭い空き教室につけば、勝ち誇ったような笑みを浮かべたエミリー・ハドソンがそこにいた。
シリウスはローブのポケットに手を入れた。冷たい瓶の感触が、シリウスの心を落ち着けてくれる。しかし、頭に貼りついたルナの言葉は、何故かはがすことができなかった。
―― 、犯人を知ってるみたい
だったら何だって言うんだ。
冷たい声が、胸の奥から響いてきた。
彼女のための復讐なんだ。今日で全てが終わるんだ。
「やり直そうって言ってくれて嬉しいわ。シリウス」
甘ったるいエミリーの声がする。そうだ、全てが終わるのだ。シリウスはその声に視線を返した。
「わたしも色々と反省したの。あなたを束縛しすぎたんだわ」
上っ面だけの言葉に吐き気を感じた。それでもシリウスは甘い微笑みを浮かべ、エミリーの傍に寄った。
「今度はわたしたち、もっとうまく行くと思うの」
当然のように首に腕を回してくるエミリーから、甘い香水の臭いが漂ってきた。頭が痛くなるのを感じた。ガンガンという痛みと共に、ルナの言葉がくり返された。
―― 、犯人を知ってるみたい
あの日の湖の会話で彼女は気づいたのか? 彼女は自分をどう思った? の誤解を解かなければ――
何を言ってるんだ。自分がやったことじゃないか――
早く終わらせなければと、シリウスは思った。に軽蔑されていたらと思うとたまらなかった。しかし、復讐を止めるわけにはいかなかった。あの綺麗な銀色の髪を傷つけた奴らを、許すことだけはできなかった。
「終わらせないと……」
ぼそりと、シリウスは低く呟き、首に回されていたエミリーの腕をはずした。期待に満ちたエミリーの瞳がシリウスを見上げている。しかし、それは一瞬の内に恐怖の表情へと変貌した。シリウスは、真っ直ぐエミリーに向かって自分の杖を突きつけた。
「シリウス……?」
呪文を口にしようとした瞬間、事態を察したエミリーの口から甲高い悲鳴が漏れ、シリウスは我に帰って己の失態に気づいた。しかし、その時にはもうエミリーは転がるように廊下に駆け出していた。
うかつだった。いつもならもっと油断させたところで呪いをかけるのに……。
「誰かっ!!」
今は一刻も早くエミリーを黙らせ、復讐を遂げなければ。シリウスは杖を振り上げた。
「エクスペリアームス!」
冷たい声が、暗い廊下を木霊した。シリウスは自分の杖が大きく宙を舞うのを見た。
うかつだったのだ。
腕をしっかりと掴まれるまで、シリウスは愕然とその場に立ち竦むことしかできなかった。冷たい光を帯びたブラウンの瞳が、何の感情もなしにシリウスを見下ろしている。エミリーの耳障りな泣き声が、どこか遠くで響いている。
シリウスを捕まえたのは、レオン・グリフィスだった。