第六章
瓶詰めの髪

 あの冷たい瓶を手放してから、シリウスの心に沸き起こっていたどす黒い感情は日に日に薄まっていった。全てが悪夢だったようにさえ思えるほどに。
 もっとも、始まったばかりの罰則はひどくうんざりするもので、それはそれで悪夢のようではあった。魔法使いの家で―― しかも、屋敷しもべのいる―― 育ったシリウスにとって、マグル式の掃除は信じられないくらい面倒で厄介なものだった。
 やたらと時間がかかりながらもやっとその晩の罰則を終えて寮に戻った時、もうほとんど真夜中に近く、シリウスはすぐにでも部屋に戻ってベッドに倒れこみたい気分に陥っていた。ジェームズたちはきっともう眠ってしまっただろう。捕まった翌朝、シリウスは起き抜けに、親友たちに全て自分がやったことだということと、これから毎晩罰則を受けなければいけないことを伝え、ひどく顰蹙をかってしまったから。
 半分眠っていた「太った婦人」に合言葉を告げて談話室に入ると、暖炉の炎がまだ小さくくすぶっているのが見えた。シリウスは、ハッとした。
 もう全く灯にはならない炎の傍に、はっきりとした灯がある。それは間違いなくランプの火で、その赤い火が見覚えのある銀色に反射していた。

?」

 半信半疑で、シリウスはその名を呼んだ。振り返った銀色の瞳と、シリウスの薄灰色がぶつかる。そこにいたのは間違いなくだった。

「どうして……」

 シリウスの呟きが聞こえたのか、は戸惑ったように視線を泳がせた。「眠れなくて……」という細い声がシリウスの耳に届いた時、彼女の頬は赤く染まっていた。

「罰則だったの?」
「あぁ……」

 シリウスはの座るソファの、空いている部分に腰を下ろした。眠気はもうどこかに行ってしまったようだった。「そう……」と言って瞳を伏せるの表情はどこかさえない。シリウスは、がまだ今回の事件のことで、自分にも責任があると思っているのだと気がついた。

「紅茶を淹れたばかりなの。ブラックくんも飲む?」

 しかし、何て声をかけたらいいのかわからなかった。も同じように思っている気がしながら、シリウスは頷いた。

 の淹れた紅茶はどこかほっとしたような気分にさせてくれる。罰則の疲れが取れるようだった。シリウスもも黙って紅茶を飲み、消えかかった暖炉の炎を見つめていた。

、もしかして……」

 少しだけのほうを向き、シリウスは呟いた。

「僕のこと、待っててくれたのか?」

 1回、は瞬きをした。その瞳がまた少し泳いだことに、シリウスは気がついた。

「どうして? 僕のことなんか、気にすることないんだ。君が……」
「でも……」

 紅茶の水面に視線を落とし、は言った。

「やっぱり、わたし、ブラックくんだけが罰則を受けるなんて……元々は、わたしが――
「原因が君でも、僕が勝手に起こした事件だ。、君がそんなに気にすることはないんだ」
「それでも帰りを待つくらいはさせて」

 の銀色の瞳にはっきりと自分の姿を見つけ、シリウスはどきりとした。彼女の眼差しはどこまでも真摯で、シリウスはその瞳を断る術を知らなかった。

 それに

 それに、どこか幸せを感じていた。が、そう言ってくれたことに。

「おかえり」

 上着をベッドに放り投げると同時に、不機嫌そうなジェームズの声が聞こえた。ジェームズは上体だけを起こし、そのヘーゼルの瞳でじろりとシリウスを見つめていた。

「もう少し落ち込んだ顔で帰ってくると思ったけど、随分と罰則が楽しかったみたいだね」
「言い方に随分棘があるな」

 シャツのボタンに手をかけながら、シリウスは鼻で笑った。しかしジェームズにとってその態度はひどく不服だった。

が談話室で僕を待っててくれたんだ」

 そんなジェームズの様子に気づいて、シリウスはそう付け足した。

? どうして?」
「責任を感じてるみたいだった」
「君が勝手にやったことじゃないか」
「僕だってそう言ったさ。でも、彼女はそういう性格なんだ。退学になりそうだったときも庇ってくれたし――
「退学だって? 誰が?」
「僕がさ」

 何でもないことのようにシリウスは言った。

が庇ってくれたから、そうならずにすんだんだ」

 ジェームズは何か言いたそうにシリウスを見た。しかし1度開きかけた口を閉じ、それからやれやれと肩を竦めた。

「もう寝よう。明日も早いし、君は朝に弱いからな」

 「おやすみ」と短く告げてごろりとベッドに横になるジェームズをシリウスはしばらく見つめていた。

 いつだってだ。最近のシリウスは。

 ジェームズはそのことを強く感じていた。あんな事件を起こしたのも、嫌なはずの罰則の後の表情を明るくしたのも、みんなのためだ。
 今晩もシリウスは罰則に行っている。リーマスとピーターの寝息が響く部屋で、ジェームズだけが眠れずにいた。

 ―― が談話室で僕を待っててくれたんだ

 昨日のシリウスの言葉が脳裏を過ぎり、ジェームズは勢いよくベッドから飛び起きた。今晩も、

 今日も彼女は談話室にいるのだろうか?

 と話したかった。話したいことがあった。

 暖炉の炎しか灯がない談話室の、暖炉の前のソファに彼女はいた。わざと足音を立てて階段を下りれば、銀色の髪が大きく揺れ、彼女が振り返ったのがわかった。

「ポッターくん……! どうしたの? 忘れ物?」
「いや―― 隣に座ってもいいかい?」

 不思議そうな顔をしたまま、は小さく頷いた。ジェームズはの顔が見えるようにほんの少し距離をとって彼女の隣に座り、体を斜めにしてと向き合った。

「シリウスのこと待ってるの?」
「えっ?」
「昨日、シリウスから聞いたんだ。君が帰りを待っててくれたって」

 ジェームズは少し俯いて、自分の握られた手を見つめた。

、君と話がしたかったんだ」
「話?」
「君が、こうしてシリウスのことを待っててくれることと、それに」

 ジェームズは少しためらった。言いたいことがまとまっていない気がした。

「シリウスのこと、庇ってくれたんだって?」
「庇う?」
「退学にならないようにさ」

 「ああ」とは納得したように頷いた。それから困ったように微笑んだ。

「庇うなんて……わたしは、ただ……ブラックくん1人が罰を受けるなんて、間違ってると思って……元はといえば、わたしが髪を切られたのが原因なのに」

 の手は自然と元の長さに戻った銀色の髪に触れていた。

「その髪……誰が?」
「校長先生が元に戻してくださったの」

 その銀色の瞳に安堵の色を浮かべて、は言った。

「退学なんて酷すぎるわ。あの人はいつも強引で……」
「あの人?」
「グリフィス先生よ。それで、わたし、そう言ったの」

 「それに……」ほんの少し頬を赤らめて、俯いたに、ジェームズは「おや」と思った。

「ブラックくんに、退学になって欲しくなかったから……」
「どうして?」

 咄嗟に、ジェームズはそうたずねていた。どうして、彼女はシリウスに退学になって欲しくなかったのだろう?

「どうしてって……ブラックくんは、大事な……その、友達だもの」

 本当にそれだけ?

 ジェームズはぐっとその言葉を飲み込んだ。確信にも似た思いが、胸の中を渦巻いていた。もしかして、彼女は。

「わかった―― 僕も、シリウスが退学にならなくてよかったよ」

 ジェームズはにっこりと笑った。

「ありがとう、。それが言いたかったんだ」

 はにかんで微笑むはジェームズから見ても愛らしかった。最近、シリウスはばかりだったけれど、その理由もわかる気がした。

「君はまだここでシリウスを待ってるんだろ? 僕はもう寝るよ」
「そう? おやすみ、ポッターくん」

 立ち上がって「おやすみ」を返そうとしたジェームズは、ふと思い立って悪戯っぽく笑った。

「ジェームズでいいよ。僕もって呼ぶから」
「えっ?」
「僕らだって友達だろ? おやすみ、

 2人の邪魔にならないうちに、ジェームズは軽い足取りで寮の階段を上っていったのだった。

「ポッターくんが……ジェームズがいたの」

 罰則から戻ってきてすぐにそう告げられ、シリウスは目を丸くした。

「ジェームズが? どうして?」
「それは」
「いや、ちょっと待ってくれ。その前に、……君、いつからジェームズのことファーストネームで呼ぶようになったんだ?」
「さっき」

 の声はどこか嬉しそうだった。

「そう呼んでくれって言われて……友達、だから。僕もって呼ぶからって」

 プロングズの奴!

 内心、シリウスは苦々しく思った。自分だって彼女を名前でなんか呼んでいないのに。しかし、新しく友人が増えたことで嬉しそうなの前で、不機嫌な態度を示すことはできない。の友人が少ないことくらい、シリウスは知っていたから。

「まさかそれだけのためにここにいたわけじゃないんだろ?」
「少し話したの」
「何を?」

 は少し考え込むような素振りを見せた。内容をシリウスに聞かせていいのか迷っているようにも思えた。

「僕に言いにくいことなのか?」

 今度こそ、シリウスは不機嫌そうに顔を顰めた。

「そうじゃないけれど……」

 は言いよどみ、1度、男子寮に繋がる階段を見た。再びシリウスに向けられた銀色の瞳は、どこか優しい色を帯びてシリウスを包んでいた。

「ブラックくんが、退学にならなくてよかったって話」

 「えっ?」聞き返しそうになった言葉を、シリウスは飲み込んだ。が「よかった」と言ったのか、ジェームズが「よかった」と言ったのかわからなかったが、の言い方は後者のように思えた。
 気恥ずかしい何かが頭を過ぎった。ジェームズとは入学して以来ずっと親友だし、お互いにお互いを1番信頼している。でも、ちゃんとした言葉でそれを表すなんてこと、めったにしないのだ。

「聞かない方がよかったな」

 シリウスのひと言に、が少し声を立てて笑った。

「でも、君もそう思ってるなら聞いてもよかった。君が、僕が退学にならなくてよかったと思ってるなら……」

 思ってないはずないのだ。そう進言したのはなのだから。シリウスは笑いを引っ込めて顔を真っ赤にしているを見下ろした。「もう寝るよ」と、彼は言った。

「おやすみ、

 できる限りさりげない動作で、シリウスはの頬に唇を寄せた。真っ赤になったが、「おやすみ」を返せないままそこで固まってしまっているのに気づきながら、自分のしたことの恥ずかしさを誤魔化すような足取りで、シリウスは男子寮の階段を駆け上っていった。
 唇に微かに残った、の冷たく柔らかな頬の感触がシリウスの胸に温かな幸福感をもたらしていた。

 ランプの火がくすぶっている。

 あの晩から眠れない日が続いていた。こんなちっぽけなランプの火より大きな火が、エミリー・ハドソンの胸の中でくすぶっていた。それは、憎しみだった。
 全てがのせいに思えていた。シリウスとの別れから始まる全てのことが。シリウスのあの態度も、何もかも。

 枕元に置かれたランプの火をじっと見つめ、エミリーは枕をよく手入れされた長い爪で引っかいた。をどうにかしてやりたい。その思いがエミリーの胸の奥の炎をまた大きくし、それに呼応するかのようにランプの火が大きく揺れたような気がした。

 パチリと、火が弾ける音がした。

 小さなランプの火でそんなに大きな音がするはずないとエミリーが気づいた時、彼女の視界は真っ赤に染まり、劈くような悲鳴が深夜のレイブンクロー寮に響き渡ったのだった。

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