第六章
瓶詰めの髪

 翌朝の大広間はいつかのように騒がしく、シリウスは朝食を取っていたはずのジェームズの姿がいつの間にか見えなくなっていることに気がついた。何かあったのだろうか。向かい側に座るリーマスとピーターに視線を向ければ、彼らは揃って首を傾げた。

 ジェームズは意外に早く戻ってきた。彼はテーブルに着くなりグラス一杯の水を飲み干し、それから探るような視線をシリウスに向けてきた。

「また事件だ」
「事件?」
「君の元恋人のエミリー・ハドソンが大火傷をおって入院したんだって」
「僕を疑ってるのか」

 ジェームズの視線の意味に気づき、シリウスは眉を顰めた。ダンブルドアにまで犯人だと知られているのに、どうしてまた事件が起こせるというのだろうか。

「前科があるからね」

 皮肉たっぷりに、リーマスが言った。

「だけど僕がそんなバカじゃないことも知ってるだろ。こんな風にすぐに疑われるってわかっていて、また事件を起こすと思うのか?」
「君、のこととなるとどうも後先考えないみたいだからな。パッドフット」
「彼女を気安くなんて呼ぶなよ」

 昨日、の前で現せなかった不機嫌さをシリウスはジェームズに向けた。

「君もそう呼んだら? エミリー・ハドソンのことをそうしていたみたいに」
「僕じゃないって言ってるだろ!」

 「怒鳴るなよ」ジェームズが呆れたように言った。シリウスは苛立っていた。本当に何も知らないのだ。エミリーに復讐してやりたい気持ちを忘れていたわけじゃないけれど、もう何もしないと心に誓ったのだ。が哀しむから。

 は、知っているのか?

 シリウスの心に一抹の不安が過ぎった。彼女も自分を疑っているのだろうか?

「それで」

 冷静なリーマスの声に我に帰って、シリウスは目の前の友人の顔を見た。

「どうやってハドソンは火傷なんかしたんだい?」
「彼女のルームメイトの話だと、ランプの火が突然大きくなって彼女を襲ったらしい。ほとんど寝ていたから、夢かもしれないとも言ってたけど……悲鳴ではっきり目が覚めて、そのときにはエミリーの体に炎が燃え移っていたって」

 先ほどまでの様子と打って変わって、ジェームズは冷静に集めてきた情報を公開した。「そんなことできるの?」と、ピーターが顔を青くしながら尋ねた。

「ルームメイトが犯人じゃない限りは、方法なんて僕には思いつかないよ」

 ぐっと声を抑えるジェームズが、密かにスリザリンの方を見たのにシリウスは気づいた。

「ランプに細工してあったなら別だけど、ランプだって寮のものだ。他の寮生が何かするにはレイブンクローの生徒を操るとかしないと……」
「じゃあ、闇の魔術が使われてるってこと?」
「可能性の話さ」

 ジェームズはちぎったパンを口に放り込んだ。これ以上の話はないようだった。犯人を推測だけで決め付けるわけにはいかない。シリウスにもそれはわかっていた。もっとも、やったのが闇の魔術に心酔しているような奴だという可能性も否定しないが。
 しかしシリウスにとって、自分の模倣犯よりも、この事件を聞いてがどう思ったかの方が重要だった。もし誤解されていたら……すぐにでも、誤解を解かなければ。

「エバンズたちだ!」

 大人しく朝食を食べていたジェームズが熱い口調で言った。大広間の入り口に視線を移せば、確かに、リリー、ルナの3人組が入ってきたところだった。ジェームズが立ち上がり大声で3人を呼ぶと、3人は―― リリーは少し仕方なさそうに―― 歩み寄ってきた。
 「おはよう」と、ジェームズがリリーに声をかけると、彼女は小さな声でそれに返した。ハロウィーンの事件以来、リリーの中でジェームズの評価は少しよくなりつつあるらしい。というのが、最近のシリウスの見解だった。

もおはよう」

 ジェームズがににっこりと微笑んだのに、シリウスは低く唸った。

ですって?」
「わたしが呼んでって言ったのよ」

 がちょっとジェームズを見たのに、シリウスだけが気づいた。

「ジェームズも友達だもの。大切な……」
、でも―― ……OK、わかったわ」
「よかったら君も僕のことジェームズって……」
「調子に乗らないで。ポッター」

 リリーは勢いよく椅子に座り、オートミールの皿を手に取った。の困ったような視線に肩を竦め、気にしなくていいとシリウスは態度で伝えた。

「ねぇ、それより今朝はどうしてこんなに大広間が騒がしいの?」

 紅茶にたっぷりのミルクを注ぎながら、ルナが辺りを見渡したのに、シリウスはギクリとなった。彼女たちはまだ知らないのか?

「エミリー・ハドソンのことさ」

 しかし、シリウスの恐れていたことを彼の親友は実行した。彼はあっさりとエミリー・ハドソンの事件のことを説明し、彼女たちを驚かせた。
 話が終わってすぐ、ルナとリリーの視線がシリウスを貫いた。「僕じゃない!」シリウスは唸るように言った。

「わざわざ自分の首を絞めるような真似を僕がすると思うか?」
「思うわ」
「リリー」

 諌めるようにが口を挟んだ。

「ブラックくんはそんなことしないわ」

 シリウスはを抱き締めてキスしたい衝動にかられた。がそう言ってくれたことは、に疑われていないということは、シリウスの胸に喜びと安堵感を与えた。

「あなたはブラックに甘すぎるのよ、

 それをどん底に落とすような声に、シリウスはその主を睨んだ。

「まあ、でも今回は前みたいに石になったわけじゃなくてハドソンは火傷を――
「火傷?」

 不安げにはくり返した。

「ハドソンさんは火傷をしたの?」
「ああ……部屋のランプの炎に襲われたらしい」

 の銀色の瞳が複雑な色を持ってシリウスを映した。「?」シリウスが呼ぶと、彼女は急に立ち上がり、険しい表情で辺りを見渡した。

「わたし、用事を思い出したわ」

 落ち着きはないが、はっきりとした口調だった。

「ごめんなさい」

 は自分を見て言ったように、シリウスは思えた。朝食をひと口も食べることなく、足早に大広間から去っていくの後姿を見つめながら、シリウスは唐突な不安に駆られたのだった。

 その日、は1つの授業にも姿を見せなかった。こんなことは初めてだった。リリーたちでさえほとんど彼女に会っていないらしく、たまに廊下でと出くわすと、心配そうに彼女と話していた。

 そんな日が何日も続いた。はほとんど1人で行動し、しかも終始忙しなくしていた。深夜の談話室にも来たり来なかったりするようになり、シリウスにはそれがたまらなく不安で、不満だった。

「最近、どうしたんだ?」

 ある晩、罰則帰りを待っていてくれたに、シリウスは思い切ってそうたずねた。何かあったのだろうか? それともやはり、自分が犯人だと彼女は疑っているのだろうか?

「ど、どうしたって……?」
「いつも1人で行動してる。エバンズやルナも心配してるし、僕だって……」
「心配するようなこと、なにもないわ」

 静かな声では言った。

「ただ、ちょっと気になることがあって色々調べてるの」
「気になることって?」

 は困ったように眉を下げた。その雰囲気が、彼女がそれ以上何も答えられないのだとシリウスに覚らせた。

「わかったら、教えてくれるのか?」
「それは……」

 曖昧に言葉を濁すを、シリウスはじっと見つめた。彼女は何かを隠したがっている。でも、何を? エミリー・ハドソンのことで、何か思うところがあるのだろうか? 例えば、犯人のこと、とか……。
 シリウスは急にゾッとした。あの冷たい瓶を持っていたときのようなどす黒い感情が、また心の奥に沸き起こったような気さえした。そんなはずないのに……あの瓶は、もうないし、自分は復讐なんてやめようと誓ったのだから。

 でも

 もし、心の奥にあの感情が残っていたとしたら? それが無意識に表に現れ、知らないうちに復讐という行為を果たしたのだとしたら?

 犯人じゃないと、完全に否定できるのだろうか?

 あの瓶を持っていたとき、事件を起こしていた時、シリウスは自分が自分じゃなくなったように感じていた。それが、本当にならないなんて、誰にも言えないのだ。

 バカげてる……!

 シリウスは内心で頭をふり、を見つめなおした。俯いたの銀色の髪が、彼女の目元をすっかり隠してしまっていたが、はどこか不安そうだった。

「ごめんなさい……まだ何とも言えないの」

「明日は朝から授業だから、もう寝るね」

 「おやすみなさい」と誤魔化すような笑顔を貼り付けて、は逃げるように女子寮に帰ってしまった。

 それからはただ、に避けられているような気がしてばかりだった。リリーやルナに話を聞いても、彼女たちもが何を調べていて、何を知っているのか知らなかった。
 罰則から帰ってきた後の時間でさえ、その話題が出ると彼女は寮に戻ってしまう。無理に聞き出すよりと一緒の時間を優先させたかったから、シリウスは何度も聞きたいことをぐっと飲みこんだ。
 唯一の救いはリリーたちも同じような態度を取られていることだった。自分だけがそうだったら、耐えられないとシリウスは思った。理由もなく、ただに隠し事をされることが嫌だったのだ。のことならどんなささいなことでも知りたい。たとえば、彼女がどんな味の歯磨きを使っているのだとか、そんなどうでもいいようなことでさえ。

 まるで病気のようだと、シリウスは思った。

 が傍にいて当然だと思い込んでいる自分は、おかしな熱病にかかったかのようにうまく頭が働かない。放課後の冷たい廊下でさえ、シリウスが冷静さを取り戻す役には立っていなかった。
 もっと他に考えることがあれば、この状態も少しはマシになるのだろうか。例えば、厄介なレポートが出たとき、とか……もっとも、シリウスの成績で厄介に感じるようなレポートというのはほとんど存在しなかったが。

 しかし、そんな自分を嫌だと思っていないことにも、シリウスは気が付いていた。

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