第六章
瓶詰めの髪

 夕食前の短い時間さえと一緒に過ごすために、シリウスは彼女を捜して廊下を黙々と歩いていた。もっとも、が大抵の時を図書館か湖の辺で過ごしていることをシリウスは知っていたし、風が冷たくなった最近では外にいる確率が極めて低くなったこともわかっていた。だからシリウスは真っ直ぐ図書館に向かっていた。

 「忍びの地図」を確かめるまでも無く、シリウスはの銀色の髪を図書館で見つけることができた。しかし、今日ほど「忍びの地図」を確認しておけばよかったと思ったことはない。
 「」と呼ぼうとした口をぴったりと閉じ、シリウスは本棚の陰にその身を潜ませた。そして、自分が見たものを確かめるようにのほうを覗き見た。彼女が誰かと話す後姿だけが、はっきりと見える。そして、その誰かの顔も。

 セブルス・スネイプだ。

 おそらくこのホグワーツで、シリウスがもっとも憎んでいる相手だった。どうして、彼女と? 2人の会話が微かに耳に届いているのに気づき、シリウスは必死で耳を澄ました。

――ら、そういうことができる呪いはないということ?」

 が言った。

「ああ」

 スネイプは不機嫌そうな顔をしたままそう答えた。

「離れたところから、炎をけしかけるなんて……僕が知っている中でそんな魔法はないし、調べても見つからなかった」

 炎? シリウスはハッとした。もしかして、エミリー・ハドソンの事件のことだろうか?はそのことで、よりにもよってスネイプに意見を求めているというのだろうか? 自分ではなく……スネイプを頼りにしている?

 バカな……!

 いつか感じたようなどす黒い感情が、一気に胸の中に広がった。2人はまだ話している。そんなこと、あってはならない。

「そう……」
「どうして君がハドソンのことを気にするんだ?」
!」

 吼えるような声で、シリウスはの名を呼んだ。どす黒い何かは、絶え間なくシリウスの胸の中に湧き起こっていた。今すぐにでも、スネイプを呪い殺してやりたい。こんな奴が彼女と口をきくなんて……! シリウスは大股で歩み寄り、の細い手首を強く握った。

「ブ、ブラックくん……?」

 驚きに見開かれたの銀色の瞳がシリウスを見上げたが、シリウスはそれに返すことなく、目の前で不快感を露にしているスネイプを睨みつけた。

「彼女に気安く話しかけるな、スニベルス!」
「話しかけてきたのはの方だ」

 鼻で笑うようなスネイプを、シリウスはますます睨みつけ、の手首を握るのとは逆の手で杖を出し、突きつけた。

「それならお前を二度と彼女の目に映らないようにしてやろうか! 今すぐに!」
「やめて!」

 の白い手がシリウスの杖を握る手に被さり、シリウスは初めての瞳をその薄灰色の目で見返した。責めるような視線だった。スネイプが風のように横を通り過ぎていくのがわかったが、シリウスはその背中に呪いをかけることができなかった。の強い視線が、それを決して許してくれなかった。

 「戻ろう」と唸るように言い、シリウスはの手首を握ったまま早足で寮へ戻っていった。本当なら図書館で、あの場で、に何故スネイプなんかと話していたのか問い詰めたかったが、それが許されないことを知っていたし、何よりの視線から逃れたい気分だったのだ。
 「太った婦人」の肖像画をくぐり、談話室のほぼ真ん中まで来たとき、「ブラックくん」とはっきりした声が響いた。シリウスは立ち止まり、困惑しきったの顔を見下ろした。

「何をそんなに怒っているの?」

 何をだって!? 唐突に感じた苛立ちに―― は何も理解してくれていないのだということに対する怒りに、シリウスはそれを押し込めるため彼女の手首を離し、彼女から離れて炎がくすぶる暖炉の前に向かった。
 何か別のものに気をそらしたかった。今にも消えそうな炎と炭となってくずれかけた薪を見つめ、シリウスはつま先で床をくり返し叩いた。

「ブラックくん」

 が背後に近づき、再び声をかけたのに、シリウスは振り返らなかった。

「どうしてスネイプと話してたんだ?」
「それは……彼に頼んで、調べてもらっていたことがあったから……」

 困惑したの声に、シリウスはますます苛立ちを覚えた。

「ハドソンのことだろう!? どうして僕に頼まなかったんだ!」
「それは……」
「僕には何も喋らなかったくせにスネイプには話すのか!? よりにもよってあいつに……あいつはスリザリンだぞ!」
「スリザリンだとどうしていけないの?」

 シリウスは振り返った。の声から、困惑は消えていた。代わりに、図書館で感じた視線のような強さが、彼女の声に含まれていた。
 そして、振り返って飛び込んできた彼女の視線にも、その強さははっきりと存在していた。

「どうしてだって!?」

 しかし、シリウスには怯みはなかった。ただ、怒りと、あのどす黒い感情だけがシリウスの胸と頭を占め、目の前にいるのがでも、シリウスはその感情を吐き出さずにいられなかった。

「スリザリンがどういう奴らか、知らないわけじゃないだろう!? あいつらは闇の魔術に傾倒している!」
「その闇の魔術のことを聞きたかったから詳しい彼を頼ったのよ!」

 はほとんど怒っているようだった。

「それに奴らは純血主義だ!」
「純血主義の何がいけないの!?」

 カッと、頭に血が上るのをシリウスは感じた。

「何がだって!? あいつらはそれ以外を認めずに排除しようとしている! 純血ってだけで、自分たちが1番偉いと思い込んでいるんだ!!」
「あなたはその純血主義を排除しようとしている!」

 それはからの、初めてのはっきりとした批判だった。

「確かにあなたの言うようなところは悪いと思う。でも、純血主義の全てが悪いわけじゃないわ!」
「君は奴らを庇うのか!?」
「スリザリンだからって……純血主義だからって、その全てが悪いわけじゃない」

 きっぱりとした厳しさで、はそう告げた。

「それに……それに、そう、わたしだって純血主義だわ」

 何かが爆発したような気がした。大きな音が響き、次の瞬間、シリウスは自分の右手が熱くなっているのに気づいた。

!!」

 リリーの声が、聞こえる。シリウスはの左頬が真っ赤になっているのを、呆然と見つめた。叩いたのだ。

 僕が……?

 も呆然とした瞳でシリウスを見上げていた。しかし、彼女はすぐにあの強い視線を取り戻し、かけよるリリーとルナのほうを見向きもせず口を開いた。

「魔法の力を持っている人を、わたしは全て純血だと思うから―― たとえ、両親がマグルでも」

 の唇から、赤い血がひと筋流れていた。シリウスはもう、言葉をすっかり失って、ルナに連れられて女子寮に行ってしまうを見つめることしかできなかった。叩いてしまったのだ……を。
 「最低ね」とリリーが冷たく言い放ち、2人を追いかけるように去っていくのを見ながら、シリウスは力なく暖炉の前に座り込んだ。右手が、まだ、熱い。

「パッドフット!」

 談話室にいたらしい、ジェームズが飛ぶようにシリウスの元にやってきた。

「君とがケンカしているって聞いて……君、何てことしたんだ! 女の子に手を上げるなんて……!」

 シリウスは深く項垂れた。を叩いてしまったという事実に気づいた瞬間、感じていた苛立ちは一気に吹き飛び、我に帰ったシリウスを襲ったのは焦りだった。そして、何てことをしてしまったのだという後悔。あの綺麗な顔に、傷をつけてしまった……。

「だけど彼女が純血主義だって言うから……」
「君が純血主義をどれだけ憎んでいるかは知っているけどね」
「僕にどうしろって言うんだ!」

 顔を上げ、八つ当たりのようにシリウスはジェームズに向かって吼えた。

「スニベルスは最低な奴だ! 彼女があいつと話すのを黙って認めろって言うのか!? 純血主義が正しいって認めろって!?」
「冷静になれよ、パッドフット。言ってることがめちゃくちゃだ―― シリウス……!!」

 ヘーゼルの瞳が大きく見開かれるのと同時に、シリウスはパチンと何かが弾けるような音を耳にした。暖炉の、火だ。反射的に振り返ったシリウスは、自分の視界が真っ赤に染まるのを見た。が流した血と同じ、赤。

 それは炎の色だった。

 ベッドに座ったは、ひどく落ち込んだ様子だった。リリーは困ったようにルナと視線を交わし、2人はの両隣に腰を下ろして、覗き込むようにを見た。

「ひどいことを言ったわ……」

 部屋に戻った途端、大広間で見せた感情はの中から消えてなくなったらしい。我に帰ったはすっかり動揺し、自分が言った全てのことを後悔しているかのように落ち込んでしまった。

「ブラックくんに、あんなこと言うつもりはなかったのに……」

 泣きそうなを励ますように、リリーはの白い手を握った。その手首に指の痕があるのに気づいたが、今はとりあえず触れないことにした。確実に、シリウスのものだろう。

「あなただけが悪いんじゃないわ」
「シリウスも冷静じゃなかったしね……2人ともやり方が悪かっただけで、本音をぶつけ合ったんだからそう気にすることないよ。それ自体は悪いことじゃないんだから」

 ルナの言葉にはハッとしたように顔を上げて、2人を心配そうに見た。

「わたしが純血主義だって言ったこと、2人とも気にする……?」

 リリーはその言葉がむしろ自分に向けられていることだと感じた。の銀色の瞳はひどく不安そうに揺らめいている。確かに、リリーは入学してから純血主義者たちにマグル生まれというだけで誹謗中傷を受けてきた。それは事実だし、もそれを知っているのだろう。

「わたし、でも、マグル生まれの人もそうじゃない人も、魔法の力を持っていたら生まれがどうだってみんな純血だと思っているの……本当よ。だって、みんなが言う純血の人たちだって、その祖先をずっと辿っていったら、もしかしたらマグルかもしれないでしょう? 家系図には載っていなくても……」
「わかってるわ、

 リリーは優しく言った。

「きっとブラックもわかってくれるわ。ただちょっと時間がかかるかもしれないけれど……」
「うん……ありがとう、リリー」

 が小さく微笑んだのを見て、リリーもにっこり笑った。

「医務室にいって、頬っぺた、冷やさないとね」

 ルナがそう言っての頬に手を添えると、彼女はくすぐったそうに顔を伏せた。高い声が遠くで響いたのは、そのときだった。

 それが、悲鳴だと、リリーもルナもも同時に気がついた。リリーが立ち上がるより早くが部屋を飛び出し、リリーは慌ててその小さな背中をルナと追った。悲鳴は談話室から聞こえてきた。階段を駆け下りていくにつれ空気がざわつくのを、リリーは感じた。嫌なざわめきだった。

「シリウス!」

 誰かがそう叫んでいた。リリーは愕然と立ち止まった。背中にぶつかりかけたルナが、息を飲む音が聞こえた。さっきまでとシリウスが言い争っていた暖炉の前が赤い―― 上半身をほとんど炎で包まれた人が苦しむようにもがき、叫んでいる。それがシリウスだと、リリーもルナも気づいてしまった。
 が人垣をかきわけそこに近づこうとしているのを見つけ、2人は我に帰ってその背中を追うように人垣に飛び込んだ。

「シリウス!」

 ジェームズが叫ぶ声が談話室に響いていた。杖を持った彼は、必死に親友の体の炎を消そうとしていた。しかし、炎は治まるどころかますます燃え盛っている。「どいて!」リリーは杖を出し、人垣の向こうからジェームズを手伝おうと構えた。
 それに気づいた寮生たちは、一斉にリリーの前を空けた。リリーの視界に、はっきりとシリウスと、の後姿が映った。

!」

 ジェームズが今度はの名前を叫んだのと、がその白い手に持った白い杖を構えたのはほとんど同時だった。大きく振られたその杖が、なぎ払うようにシリウスの体を覆っていた炎を消した。

「シリウス!」

 倒れこむシリウスを支えたのはジェームズだった。シリウスの意識はほとんどなく、口から漏れる息だけが友人たちの気持ちをほんの少しだけ救っていた。

「ブラックくん!」
「マダム・ポンフリーを呼んでくる!」

ルナがそう言って駆け出すのに「僕も行くよ!」とリーマスが続いた。

「エバンズ、マクゴナガル先生も呼んで来てくれ」

 ジェームズはリリーにそう言った。リリーはしっかりと頷き、全速力で寮を飛び出していった。

……」

 心配そうなピーターの声に、ジェームズは呆然と座り込んでシリウスを見つめるに視線を向けた。

「わたしのせいで……」

 消え入るような声だった。「のせいじゃないよ」と、ピーターが力なく励ます声が、ジェームズの鼓膜を震わせていた。

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