第六章
瓶詰めの髪

「シリウスは?」

 治療を受け、包帯だらけになって医務室のベッドに横たわるシリウスを見て、ジェームズはマダム・ポンフリーにたずねた。

「治るんですか?」
「時間はかかりますよ」

 それでも誰もが安心した。マダムが治るというのだから、きっと痕もほとんど残らないのだろう。

「それまで安静が必要です。わかってますね? ポッター」
「もちろんです」

 ジェームズの言葉をマダムはあまり信用していないようだった。彼は少し肩を竦め、友人たちと視線を交わした。リーマスもピーターも苦笑していたが、その瞳にははっきりと安堵の色が浮かんでいた。

「それで、突然炎が襲ってきたのですね? ミス・ハドソンと同じように」

 シリウスに付き添うを見てから、ジェームズはマクゴナガルと話すリリーたちの傍に寄った。自分が1番近くにいたのだ。自分が説明した方がいいだろう。

「僕が見てました」

 ジェームズが名乗り出た。

「確かに突然炎が大きくなってシリウスに襲ってきたんです。それまで、ほとんど消えかかっていました」
「他に誰も近くにいなかったのですか?」
「僕とシリウス以外は」

 マクゴナガルは眉を寄せた。

「そうですか……何か気付いたことは?」
「いえ……」
「もし何か思い出したら報告しなさい。この件は、よく調べてみる必要がありそうです」

 ジェームズたちが頷いたのを見た後、マクゴナガルは立ち去ろうと踵を返し、思い出したかのように顔だけ振り返った。

「それから、ポッター。くれぐれも勝手に犯人を捜そうとしないように」
「はい、先生」

 マダム・ポンフリーのように疑わしそうにジェームズを一瞥してから、マクゴナガルは医務室を後にした。

「信用無いな」
「日頃の行いのせいよ」

 リリーの言葉に肩を竦めたジェームズは、シリウスが眠るベッドに歩み寄った。は呆然とシリウスを見つめ、目の前のシーツを握り締めている。その左頬にはガーゼがはられていた。医務室にシリウスを運んできたと同時に、腫れた左頬の治療を受けたからだ。

 リリーが心配そうにを呼ぶ声が聞こえた。

「寮に戻りましょう。目を覚ましたらまた来たらいいわ」
「わたしのせいなの」

 ほとんど無意識のようなの声が空気を揺らした。はゆらりと立ち上がり、肩に寄せられたリリーの手をゆっくりと避けた。

「わたしのせいだわ……」

 リリーとルナが呼び止める声も聞かず、はふらふらと医務室を出て行ってしまった。

「そっとしておこう」

 ジェームズは気遣わしげにの親友たちを見ながら言った。

「あんなケンカの後にこんなことになったから、ショックを受けてるんだ。そっとしておくのが1番いいよ」
「でも……」
「今はたぶん、何を言ってもには届かないよ」

 項垂れるリリーの肩を、ルナが支えるように抱いた。ジェームズには、2人が寄り添っているかのように見えた。

 それから数日で、シリウスはやっと目を覚ました。しかし、包帯が取れるのはまだ当分先らしく、シリウスは大人しく入院生活を送るしかなかった。ミイラのような格好で、学校内をうろつく気にはなれないようだった。

「マダム・ポンフリーがちゃんと元通りになるって言ってたよ」
「ハンサムな顔が台無しにならなくてよかったじゃないか」
「黙れよ、プロングズ」

 からかうような口調のジェームズに、掠れた声でシリウスは言った。自分の顔がどうなろうと、シリウスにはどうでもいいことだった。寄ってくる女が減って、逆に清々するかもしれない。
 しかし、そんなことよりもずっと気になっていることがあった。だ。

は……?」

 火傷は顔だけでなく上半身にもあったので、正直なところ、寝ているだけでも痛むことがある。薬は効いているようだったが、寝返りをうとうと身じろいだだけで、ずきずきと背中に痛みが走った。

は……」

 今度はからかう気になれなかったようで、ジェームズは気まずそうに口篭った。

「お見舞いに来てないのかい?」
「だから聞いてるんだろ……」

 「そうだね」とジェームズは力なく頷いた。

は……落ち込んでるよ。それに、何を言っても上の空で、最近はほとんど独りで行動しているんだ。エバンズもアーヴィングもかなり困惑してたよ」

 開きかけた口を、閉じた。は、あのケンカのことを気にしているのだろう。この火傷だって、あの後に起きたものだ。下手をすれば彼女は自分のせいだと思い込んでいるのかもしれない。

に会いたい……」

 心底そう思った。

「随分素直だね」

 皮肉交じりに、リーマスが言った。

「こんな風になって素直にならない奴がいたら、そいつはよっぽど捻くれてるんだな」
「やっぱり、のことが好きなのかい?」
「違う」

 ジェームズの言葉に、シリウスは唸った。

「謝りたいんだ……」

 彼女とのケンカのことを。彼女に、手を上げてしまったことを……目が覚めて、シリウスが真っ先に思ったことがそれだった。入院が自分を素直にさせたというのは、あながち間違ってはいないとシリウスは思っていた。
 毎日毎晩ベッドで何もすることなく寝ているだけの日々を送り、シリウスはその中で自分の心が静かになっていくのを感じていた。自分と向き合う時間があったからだろう。あのケンカのことだって冷静に判断することができたし、ハロウィーン以降の自身の行動だって改めて見つめなおすことができた。

「それだけならいいけど」

 含みのあるジェームズの言い方に、シリウスは訝しげに彼を見た。

「どうかしたのか?」
「別に……ただ、この数日で噂になってることがあってね」

 ジェームズの口調にからかいの色は無く、どこか気まずそうだった。

に……恋人がいるって」
「えっ?」
「それがレオン・グリフィスだっていうんだ」

 ピーターが嫌なことは早く終わらせたいとでも言うような早口でそう告げた。

「みんな、がグリフィスと2人きりで話しているのを見たって……」
「教師と生徒だって2人きりで話すことくらいあるだろ……」
「でも、そのときはグリフィスのこと、その……」

 口篭るピーターに、先を言うよう睨んで促したが、彼は身を竦めるだけだった。「レオンって呼んでいたらしいんだ」リーマスが続きを言った。

「何?」
「だから、ファーストネームで呼んでいたって言うんだ。グリフィス先生も彼女をそうやって呼んでいたって」
「噂だけどね」

 「気にするなよ」とでも言うように、ジェームズが肩を竦めたが、シリウスは頭を鈍器で殴られたような感覚がした。
 自分だってそんな風に名前で呼び合うことが無いのに……しかもその相手がよりにもよってレオン・グリフィスだって!

 友人たちがマダム・ポンフリーによって半ば追い出されるように医務室を後にした後も、シリウスはその衝撃から抜け出せなかった。信じられない。大体、教師と生徒なのだ。そんなことあるはずもない。噂は噂だ……否定の言葉を並べてショックを治めようとしたが、考えれば考えるほど2人が一緒にいる光景を思い浮かべてしまう。
 首を捻って、顔の半分を枕にうずめた。溜息が口から漏れそうだった。代わりにくぐもった唸り声が枕の中に木霊し、いっそこのまま眠ってしまえば余計なことを考えなくてすむんじゃないかとシリウスは思った。

 に会えれば、

 そうすれば真実を知ることができるのに。彼女は答えてくれないかもしれないけれど、こうして1人で悩んでいるよりはよっぽど可能性がある。

 悩む?

 シリウスはぼんやりと枕から顔を出した。どうして悩むのだろう。よく考えてみれば、祝福すればいいだけのことじゃないか。相手がいくらあの、いけ好かないグリフィスでも、があの男を好きだと言うなら友人として祝福すべきだ。現に、シリウスはリリーがあまり好きではなかったが、ジェームズの恋に反対はしていない―― 熱心すぎる想いに、呆れることはあっても。

 に会いたい。

 シリウスはもう1度そう思った。心の中にもやがかかったようで、シリウスはその中を歩いていた。に会えれば全てが晴れやかになって、この憂鬱な気分も吹き飛ぶような気がした。

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