第六章
瓶詰めの髪

 ひんやりとした何かが、額に触れた気がした。空気がしんと静まり返り、シリウスは今が真夜中なのだと眠りから少し浮上しながら思った。
 眠りから覚めた視界はまだぼやけている。シリウスの額に触れていた何かが離れ、ほんの少し空気が揺れた。ゆっくりと瞬きをくり返せば、だんだんと視界もはっきりとしてくる。月の光に似た銀色が見えてきたとき、シリウスは思わず口を開いていた。

……」

 思いのほか掠れた声が、喉から漏れた。は驚いた顔をしてシリウスを見つめていた。「どうして」と聞こうとしたのに、今度は声にならなかった。代わりに体を起こしてと向き合おうとすれば、戸惑って視線をさまよわせていたが、慌てたようにシリウスの体に細い手を添えた。

「寝ていないと……」

 いつも以上に控えめな声が静かにシリウスの鼓膜を震わせた。魔法にかかったように、シリウスは自分の肩をそっと押すの手の力に従って、再びベッドに体を横たわらせた。
 は困ったようにシリウスを見つめていた。自分がこうして目を覚ますことを、彼女は本当に考えもしなかったのだろう。

「君に会いたかったんだ」

 何も言わないに、シリウスはそっと告げた。

「ずっと会いに来てくれなかったから……」
「ごめんなさい……」

 瞼をそっと伏せ、は呟くように言った。その姿が泣いているようにも見えて、シリウスは思わず腕を伸ばしてベッドの上に乗せられていたの白い手をとった。
 冷たい―― の体温は、いつも低い。けれども今日はいっそう低く感じられて、シリウスは何故かきりりと胸が痛むのを感じた。
 「どうして来てくれなかったんだ?」そうたずねた声は、震えていなかっただろうか。泣くのをグッと堪えているときのように、喉の奥に何かが詰まっていた。

「忙しかったの。それに……」

 それに、何なのかそのつづきをは言わなかった。

「ケガの具合はどう……?」

 誤魔化すように話題を変えたを、シリウスは決して問い詰めなかった。そういう気分ではなかったし、彼女が自分の心配をしてくれているのは本当だろうということが、その表情から読み取れたからだった。

「まあまあさ。でも、ちゃんと治るよ」

 安堵と、それから何か別の感情を伴った銀色の瞳がシリウスを見つめていた。「のせいじゃないよ」シリウスは無意識にそう言っていた。はこの傷のことを、自分のせいだとでも思っているのだろうか?
 何を言っていいのかわからずに、シリウスは少し視線を逸らした。短い沈黙が、深夜の医務室を包み、それを破ったのはまたシリウスだった。

が来てくれてよかった」

 の手を握ったままだった手に、ほんの少し力を込めた。

「ずっと、君に謝りたいと思っていたんだ……」

 「君を、叩いたこと……」思い出しただけで、吐きそうだ。あの日のことが脳裏に蘇るのに、シリウスは眉を顰めた。

「ごめん……あのときは、ついカッとなって……」
「カッとなってたのは、わたしのほうだわ」

 の手が、自分の手を握り返すのがわかった。

「わたしもずっと、謝りたかった……あんな言い方するつもりじゃなかったの」
「僕もだ―― でも、スネイプを頼るくらいなら、僕を頼って欲しかった」
「セブルスを頼ったのは、いつもブラックくんに頼ってばかりだったから……迷惑かけたくなかったの」
「迷惑だなんてこと、何もないんだ」

 シリウスは言った。

、君に頼られて迷惑だなんて思うことなんてないんだ」

 「でも、」と、の口が動くのが見えた。

「好きなんだ」

 それはひどく自然に、シリウスの口からこぼれた。その瞬間、シリウスは自分の心にずっと足りなかったパズルのピースがカチリとはまる音を聞いた。もやもやとしていた気持ちが一気に晴れ渡り、無意識のうちの言葉は最初からそこにあったかのように、シリウスの中に染み込んでいった。

 僕はが好きなんだ。

 ジェームズに何度言われても、否定してきたのに。自分で口にしたとたん、シリウスにとって真実になっていた。

「好きなんだ」

 それを確認するように、シリウスはもう1度同じ言葉をくり返した。が銀色の瞳を驚きに染めて、自分を見つめていた。

「わたし……」

 震えた声は、戸惑っているようにも、喜んでいるようにも聞こえた。

「今は、答えられない」

 ずきりと、落胆がシリウスの胸を襲った。「そうか……」と答え、そっと瞳を伏せる。の手を握ったままの、自分の手が見えた。

「グリフィスと付き合ってるのか?」
「えっ?」

 あの噂は本当だったということなのだろうか。急に思い立ち、シリウスはそうたずねていた。の声は、今度ははっきりと困惑の色を表していた。

「グリフィス先生と、わたしが? どうして、そんな……」
「風の噂さ」
「そんな、あるはずないわ」
「それならどうして――

 カッコ悪いな。シリウスは内心でうな垂れた。結局振られたことに、納得できないで喰らい付いているだけなのだ。自分は……。

「あなたがここにいるのが、わたしのせいだから……」

 うな垂れた思考の中で、シリウスはがそう呟いたのを聞いた。ハッとして顔を上げると同時に、握っていたはずのの手の感触がなくなり、彼女が立ち上がったのを知った。

「もう、寮に戻らないと」

 は風のように去っていった。シリウスはただ、眠れなかった。

 不思議と満ち足りた気分だと、シリウスは親友達に告げた。ひと晩たてば、シリウスは自分の心が今までと違うのをはっきりと感じることができた。告白は、残念な結果に終わってしまったし、のあの態度は気になっていたけれど。

「結局そうだと思っていたよ」

 半ば呆れたようにジェームズが言った。

「君がを好きだって、僕の言ったとおりだっただろ!」

 最後のほうは自信たっぷりに言うジェームズに、シリウスは「そうだな」とそっけなく返した。

「でもも君のこと好きなんじゃないかと思っていたんだけどなぁ……」

 「そっちははずれちゃったよ」残念そうに言うジェームズに、残念なのはこっちの方だとシリウスは思った。口には出さなかったけれど。

「でも」

 そんなシリウスの心境を知ってか知らずか、リーマスが不意に口を開いた。

は“今は”答えられないって言ったんだろう? それって、まだ脈があるってことなんじゃないのかい?」
「えっ?」
「今は、何か事情があってパッドフットの気持ちには答えられないんじゃないかな?」

 シリウスは信じられない気持ちでリーマスを見つめた。確かに、その通りだ。それならまだ、諦めなくていいのだろうか?自覚したばかりのこの気持ちを。
 「そういえば」思わず緩みそうになる表情を隠すために、シリウスはとりあえず話題を逸らすことにした。

「ワームテールはどうしたんだ?」

 2人の友人が医務室を訪れた時から、ピーターの姿はなかった。

「ワームテールなら忘れ物を取りに行ってる」

 リーマスが答えた。

「『闇の魔術に対する防衛術』の教室にね」

 医務室の面会時間が終わる前に、医務室に行ってジェームズたちと合流しないといけない。ピーターはちょっと焦って、小走りにさっき歩いた廊下を戻っていた。「闇の魔術に対する防衛術」の教室はもうすぐだ。
 授業が終わって、先に片づけをして鞄を持った友人たちに急かされるようにピーターも鞄に荷物を詰めていた。そのとき、早く出て行けと言わんばかりに担当教師のグリフィスに睨まれ、ますます焦ってしまったピーターは、羽ペンを1本、忘れて来てしまったのだ。それも、新しい羽ペンを。

 教室の傍には、もうほとんど生徒の姿はなかった。一瞬、まだグリフィスがいたら……という不安が過ぎり、ピーターは少し歩調を緩めて静かに教室の入り口へと近づいた。

「彼を―― ―― ―― んて―― もいないわ!」

 怒りを含んだ声が耳に飛び込んできたのは、そのときだった。ぎくりとして、ピーターは立ち止まった。間違いなく、今、ピーターが行こうとしている教室から声は響いている。誰かに聞かれないように注意したような抑え目の声が、途切れ途切れに。

「どうして―― ―― ―― したの!?」
「仕方のない―― ―― ―― ―― 君もわかって―― ――
「仕方ない―― ―― ―― ―― ―― たがそ―― ―― ―― っていな―― ブラックくんは」

 パッドフット?

 聞き覚えのある声だった。ピーターは好奇心に負け、そっと教室をのぞこうとし、その扉に手を添えた。ギイと、扉の軋む音が響いてしまった時、しまったとピーターは冷や汗を流した。
 見覚えのある銀色が揺れた。誰かと言い争っていたのはだった。ピーターにはそれがひどく意外に思えたし、そうだからこそその相手が気になった。しかし、観念して開けた扉の向こうには、何故かしかいなかったのだった。

「ペティグリューくん……!」
「ご、ごめん……立ち聞きするつもりじゃ……僕……」
「聞いていたの?」

 ピーターはすぐに首を振った。の言葉は責めているように聞こえ、彼女の瞳はどこか冷たい色を帯びているように見えた。

「ほとんど、何も……ほ、本当だよ! ただ、その、シリウスのこと……言ってた?」

 がその綺麗な眉を顰めるのを見たとき、ピーターはしまったと心底思った。

「誰にも言わないで」

 溜息混じりに瞳を伏せ、は言った。その顔はどこか青ざめているようにも見えた。

「絶対に」

 しかし、その言葉はピーターが聞いたこともないくらい強い響きを持っていた。ピーターはすぐに頷いた。そうしなければいけない気がしていた。

 忘れていた羽ペンを回収し、ピーターは逃げるように教室を後にした。は誰と話していたのだろう? シリウスの名前が出ていた。それに、普段のからは想像できないくらい、彼女は怒っていた。

「それでね――

 廊下の隅でこそこそと話すレイブンクローとグリフィンドールのネクタイをした女子生徒たちの声が耳に届き、ピーターはちらりとそちらに視線を向けた。今日はよく、周りの話し声が耳に入る日だ。

がやったらしいのよ」

 何を?

 の名前に、ピーターはハッとして聞き耳を立てた。まだ、会話は聞き取れる。

「女子生徒を石にしたのも、ミス・ハドソンとシリウスの火傷も」
「えーっ! 最低!」

 嫌悪感に満ちた女子生徒の声に、ピーターは背筋が寒くなるのを感じた。噂というものが、ほとんど真実として生徒の中に充満してしまうことを、彼は知っていた。そして、それを広めるのがお喋り好きな女子生徒だということも。

 ならば、今の話も、もう誰もが知っていることなんだろうか?

 情報に早いジェームズだって、そんなこと言っていなかったのに。それとも彼は知っていて話していないだけなのだろうか。その可能性はある。確かめないと……。

 女子生徒の声が全く聞こえなくなったところで、ピーターは駆け出した。はやく医務室に行かなければ。

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