第六章
瓶詰めの髪

 居ても立ってもいられなかった。

 噂のことも、のことも気になって仕方なかった。医務室のベッドでじっと親友たちの知らせを待つことなんて、シリウスには到底できなかった。
 だからマダム・ポンフリーが夕食を食べるために席をはずした隙を狙って、シリウスは医務室から脱け出したのだ。きっとほとんどの生徒が大広間にいるだろうと思い、シリウスは真っ直ぐにそこに向かった。がいなかったら、いつも通る廊下を辿ってを捜せばいい。すれ違ってしまう確率は低いだろう。そう思っていた。

 その大広間が異様な雰囲気に包まれているのだと、シリウスはそこに近づくごとに確信を深めていった。閉じられた扉は、まるで世界と世界を区切っているようだ。しかしその隙間から、確かに向こう側で起きていることの端々が流れ出ていた。氷のような、声。
 そのどれもが彼女を悪く言うもので、彼女を傷つけるものだった。しかも、どれも正しくないのだ。一体が何をしたと言うのだろう!
 しかし、自身の声はもちろん、正義感の強い彼女の親友たちの反論の声さえ、その合間に聞こえてこなかった。

 は……

 シリウスは、唐突にわかってしまった。

 僕を庇っているんだ。

 別の犯人がいれば、今までの事件の犯人がシリウスだと、他の生徒に知られないままでいられる。シリウスが、今、に対して言われている氷のような言葉を、言われることはなくなるのだ。だから、は……

 居ても立ってもいられなかった。

 勢いに任せ、シリウスは大広間の扉を開いた。

「何も言わないで」

 の鈴の音のような声が、微かに聞こえた。

「でも」

 そして、親友の戸惑いに掠れた声も。

「駄目だ!」

 シリウスは咄嗟に叫んでいた。その声に、大広間は一気に静まり返り、誰もが戸惑いに満ちた目で医務室にいるはずのシリウスを見つめていた。、も。

「ブラック、くん……」

 戸惑うの腕を取り、シリウスは彼女をその薄灰色の瞳で見つめた。

「こんなの、駄目だ。僕は……絶対に許さない」

 図星をつかれたからか、の顔がサッと青ざめるのをシリウスは見逃さなかった。
 の腕を握ったまま、シリウスは真っ直ぐなその視線を大広間へと向けた。生徒たちはまだ戸惑いから脱け出しきれずにいる。

「医務室にいても、噂は流れてきた。今までの事件と、僕のこの火傷はみんながやったって――
「ブラックくん!」
「その噂は、真っ赤な嘘だ」

 が懇願するように自分を呼ぶ声にかぶせ、シリウスはまた吼えるように叫んだ。

「やったのは全部僕だ!!」

 女子生徒の悲鳴のような声が、響いた。

「そんな! だってあなたも被害者じゃない……!」

 レイブンクローの女子が声高に叫び、シリウスは見下したような視線を彼女に向けた。驚きと戸惑いで混乱している生徒を騙すのはたやすいことだ。

「そ、そうよ! それにあなたがそんなことするはずないわ!」
「その女にそう言えって脅されているんでしょう……!?」

 傍にいる女子たちが伝染したかのように次々口を開く。自分に少なからず好意を持っていたのだろうと、シリウスはどこか冷めた気持ちで思った。
 一瞬に視線を向ければ、彼女は青ざめた顔のまま、シリウスと大広間を交互に見つめていた。いつの間にか彼女の腕を掴んでいた手に、彼女のもう片方の手が重なっている。冷たい手だ。の手はいつも冷たい。しかし今は、その冷たさがシリウスを落ち着かせてくれる気がした。

「お前たちみたいな女がずっとうっとうしかった」

 冷ややかにシリウスは告げた。それは、演技ではなく、本心からの言葉だった。

「だから見せしめにあいつらを呪ってやったんだ。エミリーは特につきまとってきたから自慢の顔を焼いてやったのさ。そうすれば二度と調子に乗ることもないだろ」

 大丈夫……。

 シリウスはの細い腕を握る手に少し力を入れた。からも、隣にいるジェームズからも視線を感じた。しかし、言葉を止める気なんてなかった。

「嘘っ!!」
「この火傷だって自分でやったんだ。たちが僕がやってることに気づきだしたからな―― 自分が被害者になれば、もう誰も疑わないだろ?」

 最後に叫んだ女子が、わっと声を上げて泣いた。シリウスがやったということが信じられないのだろう。いつもやっている悪戯なら笑って済ませられるのに、今回のことは悪戯とは違うのだ。

「何の騒ぎです!?」

 シリウスが次の言葉を言う前に、再び大広間の扉は開かれた。異様な騒ぎに、どうやら誰かが先生たちを呼びに行ったらしい。怪訝な顔をしたマクゴナガルと、いつもと変わらない穏やかな表情のダンブルドアが扉の向こうに立っていた。

 何人かの女子生徒のすすり泣く声以外、静かな大広間だった。シリウスはただ黙っての腕を握り、ダンブルドアを真っ直ぐに見つめていた。

「先生……」

 ジェームズはすばやく大広間とシリウスの顔を見ると、他の誰かが何か言いだす前に、口を開いた。

「シリウスが今までの……女子生徒が襲われた事件と、エミリー・ハドソンの事件の犯人が自分だって暴露して……みんなが混乱しているんです。僕らも」

 最後は少し語尾を強めた。シリウスはジェームズが自分の話に合わせてくれているのだと覚った。
 マクゴナガルはダンブルドアと視線を交わし、それから溜息混じりにジェームズと、大広間を見た。

「ブラックが何をどう言ったのかわかりませんが、事件の犯人がブラックだというのは事実です」

 大広間は再びざわめきに包まれる。

「しかしそれについてはもう罰則が言い渡されています。これ以上、騒ぎを荒立てる必要はありません。いいですね?」

 誰かが安心したような溜息をついた気がした。シリウスは、自分の起こした事件がホグワーツ中に不安をもたらしていたのだと、感じた。
 しかし、反省は無かった。自分のしたことが悪いことだったとは思う。結果として、さえ悲しませてしまったのだから。それでものためにしたことを、シリウスは後悔できなかった。

「夕食を続けて、今日は皆さん、早く寝なさい」

 マクゴナガルの厳格だが、どこか優しさの含まれた声が響いた。

 校長室は、何度か訪れた時と変わらない様子と空気を持っていた。テーブルの上に置かれた銀の道具類から静かに上がる煙がくるくると渦巻いて、天井に吸い込まれるように消えていった。壁にかけられた歴代校長の肖像画たちは狸寝入りをしながら、2人の来客の様子を探っていた。
 シリウスとは部屋の中央にダンブルドアが用意した長椅子に並んで座り、今ここにいない、部屋の主であるダンブルドアを待っていた。
 の表情は、大広間にいたときと変わらずに青ざめたままだった。肩からこぼれた銀色の髪に、不安そうな手が触れている。見覚えのある、彼女の癖だ。

「どうして……」

 空気の流れる音に混じって、がポツリと口を開いた。

「どうして、嘘をついたの?」
「えっ?」
「ハドソンさんの……火傷のこと、それにその傷だって、ブラックくんがやったんじゃないのに……」

 それは……そう、口を開きかけ、シリウスはハッとしてを見た。

「君は……犯人を知っているのか?」

 頷いたの瞳から、はらりと透明な滴がこぼれた。

……」

 そっと手を差し伸べ、こぼれる涙を拭う彼女自身のローブの代わりに、その涙を拭ってやる。

「ごめんなさい……わたし、でも、ブラックくんに話しておけばよかったのに……そうすればブラックくんがあんな風にみんなの前で悪者にならなくてもよかったのに、話せなくて……ずっと……」
「僕のことはいいんだ。ただ、があんな風に言われるのが、耐えられなかっただけなんだから」

 の涙を拭っていた手を下ろし、シリウスは俯いた。沈黙が部屋を包む。肖像画たちの微かな視線を感じる。
 沈黙を破ったのは、部屋の扉が開かれる音だった。振り返ると、部屋の主であるダンブルドアと、どこか疲れたような顔をしたレオン・グリフィスがいた。思わず立ち上がりかけた2人に座り直すように促し、ダンブルドアは長椅子の目の前にあった校長の背もたれの高い席に座り、その斜め前にある肘掛け椅子にグリフィスが腰を落ち着けた。

 どうして、グリフィスが?

 心に感じた疑問を隠すことなく、シリウスはグリフィスを見た。彼の疲れた表情は、この1年で初めて見る顔だった。

「まず言うておかねばならんことは――

 ダンブルドアはゆったりと口を開いた。

「シリウス、君がここまで騒ぎを大きくしてしまったからには、それを収拾することはとても難しいということじゃ。つまり、事実を覆すということはのう」

 「むろん、不可能ではないが……」そう付け足して、ダンブルドアは明るいブルーの瞳でシリウスを真っ直ぐに見た。

「さて、君らをここに呼んだのは、真実をきちんと知っておく必要があるからじゃ。事実ではなく、真実を。特にシリウス、君は知らないことが多いじゃろう」
「それは、犯人のことですか? 僕と、エミリーの事件の……」
「まさに、その通りじゃ」

 ダンブルドアは頷き、それからグリフィスに視線を向け、彼が頷いたのを確かめるとシリウスに再び口を開いた。

「実はのう……君とミス・ハドソンの事件の犯人は、グリフィス先生なんじゃよ」

 えっ?

 シリウスは目を見開き、ダンブルドアをマジマジと見た。何だって? 校長の言ったことが、いまいち飲み込めない。

 グリフィスが、犯人?

「もちろん、先生が故意にやったことではない」
「それって……どういう……?」

 立ち上がったグリフィスが、シリウスの目の前にローブから取り出した何かを突き出した。ろうそくの灯に反射し、キラキラと星のように光るそれを、シリウスは見たことがあった。

「それ、は……」

 あの、ハロウィーンの日にこの手に入れた、あの瓶。

 の髪、だった。

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