第七章
の秘密

 廊下を歩くと、すれ違う生徒がみんなシリウスを見てひそひそと話しながら顔を顰め、避けるようにその顔を伏せた。

 すっかり悪者だな。

 しかし、シリウスにとってそれは大した問題ではなかった。家にいた頃なんて、もっとうじ虫を見るような目で見られたものだ。それに、付きまとってくる女子生徒が減ったことを考えれば、むしろ嬉しい問題かもしれない。
 火傷もすっかりよくなり、シリウスは無事に医務室を退院した。親友たちからこの状況のことは聞いていたから、廊下に出た途端、嫌な顔をされたことに大して驚きはしなかった。

「退院おめでとう」

 爆発するような、クラッカーの音。飛び出した花びらを、シリウスは頭から被った。

「綺麗な顔が元通りになって何よりだね」

 その手に杖を持ったジェームズが、にやりと悪戯が成功した時と同じ笑い方をした。リーマスとピーターも同じように杖を持っている。シリウスは笑った。
 大体、他の生徒の自分の評価がどんなに下がっても、この親友たちがいれば学校生活は十分だ。リーマスが持っていた授業の道具を受け取り、シリウスは彼らと「呪文学」の教室に向かって歩き出した。

「だけど君の人気はがた落ちだよ、パッドフット。元通りになった顔も無駄になるってわけだ」
「別に大した問題じゃないさ」
「まあ、にさえモテれば君はいいんだろうけどね」

 ―― わたしたち、“人間”ではないの

 の名前に、彼女の声と言葉が脳裏を過ぎった。知らずに溜息が漏れ、心臓が奇妙に揺れた。ショックが抜けきれない。

「どうかしたのかい?」

 シリウスの顔に一瞬過ぎった影に気づいたリーマスがたずねた。

「いや……」

 3人からの視線を感じる。しかし、シリウスはそれ以上何も話さなかった。のことは言えない。言うわけにはいかない。「呪文学」の教室が見え、余計な詮索を受けないことにシリウスは少しだけ安心した。

 1番後ろの席に陣取り、くだらないことを喋る。急にいつもの日常に戻り、ますますのことの現実味が薄れてきた。

 嘘じゃないんだ……。

 そう思うと、ジェームズたちと笑っている今のほうが、どんどん嘘のように思えてくる。

「ブラックくん」

 不意にかけられた声に、シリウスはハッとして振り返った。だった。いつもと変わらない銀色の髪が彼女の肩からこぼれている。

「おはよう。退院したのね、よかった」
「あぁ」

 笑いがぎこちないと、自分でもわかった。が、ちょっと困ったように笑うのも。

「色々、心配かけてごめん」
「ううん……」

 銀色がふわりと揺れた。それさえ、嘘のようだった。

「ブラックくん、困ってるよね……」

 湖の辺を歩きながら、が言った。シリウスは思わず歩みを止め、の深緑色のコートに映える、銀色の髪を見た。

「突然、あんなこと言って……人間じゃないなんて……」

 振り向くは、どこか悲しげだ。授業が終わった後にこうしてまた2人で過ごす時間を持ったけれど、シリウスがずっとそのことばかり考えていたのを彼女はわかっているようだった。

「でも、本当なの……信じられないかもしれないけど……」
「頭では、理解してるんだ」

 シリウスは俯いた。冷たい風が鼻先をかすめ、シリウスはそのまま口元をマフラーに埋めた。

「君が嘘をついていないって。でも、まだよく……わからないんだ。実感がわかない」
「うん……」

 風がの銀色の髪を散らした。どうすればいいんだろう……どうしたんだ。それがわからなかった。

「だから……」

 今は、ただ、

「もっと、知りたいんだ。契約の魔法のことも、のことも……」

 知れば、現実として受け止められる。そんな気がした。

 「必要の部屋」でと過ごすのは初めてだった。

 12月になって雪がちらつく外は寒すぎたし、話す内容からいって、談話室も図書室も向いていない。シリウスはと2人きりでゆっくり話したかったし、もそれに頷いてくれた。幸い、時間はたっぷりとある。何しろ週末だった。
 「必要の部屋」は大きな暖炉のある広すぎない居心地のいい空間になっていた。やわらかな絨毯の上に丸いクッションを敷いて、シリウスとは向かい合って座った。目の前には湯気の上がる紅茶のカップがある。

「今から、ずっと昔に……ある魔法使いにわたしは作られたの」

 紅茶のカップを手に、はぽつりと語りだした。

「“契約の魔法”はその人が、わたしがいつか大切な人に出会って、その人が人間だったとき、その人を守れるように、その人と同じ年を刻めるように、授けてくれたものなの」
「年……?」
「寿命が違うの……年も……今は、ブラックくんや、リリーや、ルナと一緒に成長しているけど、いつか、取らなくなるのよ」

 は紅茶をひと口飲みながら、ゆっくりと息を吐いた。

「この髪の色は……レオンが言っていたでしょう? 契約の魔法のための力が、わたしの髪に宿ってるって……その影響でこういう色になったの。強い魔法だから……」
「どうして、髪に?」
「たぶん、ちょうどよかったからだと思うわ。契約の魔法を使うのに……契約の魔法は、その名のとおり、相手と契約をするの。この髪は、そのとき、相手とわたしを結ぶのに必要なの」
「相手って……が、守りたいと思う相手?」
「そう。契約を結べば、わたしはその人を守れるし、一緒の時を生きることができる」

 の表情が、雰囲気が、その相手が―― 大切にしたい、一緒に時を生きたい人がいることを物語っているようで、シリウスは心の奥がずきりと痛むのを感じた。

「どうして……その、魔法使いは、を……作ったんだ?」

 それを見ていたくなくて、シリウスは咄嗟に思いついた質問をした。

「それは……」

 しかし、の銀色の瞳は今度は深い影を落とし、それもまた、シリウスの心を痛ませた。

「よく、知らなくて……」
?」
「ううん……ごめんなさい……でも、家族だったから」

 は寂しげな微笑みを浮かべ、シリウスを見た。家族……人じゃないに家族がいるというのが、どこか不思議に感じた。

「その人が、わたしのお父様で……その人の恋人が、わたしのお母様で……わたしたち、家族だった」

 血のつながりは無い。作ってくれた人を親と呼ぶ。そんなこと、実際にはありえないことだ。

 どんな家族だったのだろうか?

 寂しげなの微笑みがそれを暗示しているように思えた。しかし、少なくとも自分の家族―― 血のつながりのある、人間の家族―― それよりはマシに違いない。それがどこかうらやましくも感じた。

「わたしがどうして生まれたのか、気にしたことなんてなかったの……お父様とお母様と一緒にいた頃、わたしはまだ小さかったからなんだけれど……。気になったときには、もう、いなかったから……」
……ごめん、変なこと、聞いて……」

 震えるの声を聞きたくなくて、シリウスはそっと彼女の手を握った。「大丈夫……」と彼女は答えたけれど、その声さえ泣いているように思えた。
 握ったの手は、温かい部屋にいるにも関わらずいつもより冷たく感じる。それが何だか悲しかった。

「そうだ――

 だから話題を変えたくて、シリウスはわざとらしく声を上げた。顔を上げたの銀色の瞳に、そんな滑稽な自分の姿が映っていた。

「君のその目の色も、契約の魔法の影響なのか?」
「これは……」

 しかし、シリウスの気持ちは空回り、は顔色を悪くして俯いた。

「違うわ……生まれつきなの……」

 1度も聞いたことの無いような声音でそういうに、シリウスはもうそれ以上、何も聞くことができなかった。

 禁じられた森には、ユニコーンやケンタウルスの他にも、色々な魔法生物が住んでいる。枯葉を音を立てて踏みしめながら、シリウスは目的も無く森の中を歩いていた。

 も、

 そういう、魔法生物なのだ。言うなれば。人とは違う髪と目の色も、そもそも彼女が人ではなかったから当たり前のことだったのだ。

 契約の魔法か……。

 あの後、自分でも調べたが、禁書の棚にさえその魔法について書かれた本は置いていなかった。どういう魔法かは、きっとの言葉通りだろうとシリウスは思っていたけれど、それがどんな方法で行われて、たとえば、が相手をどんな風に守るのかは少しもわからないままだ。

 ―― その人と同じ年を刻めるように

 それならば、自分がと一緒にいたいと望んだ場合も、契約の魔法でと契約を結ぶことが必要になるのではないだろうか? そうしなければ、いつか自分は老いていき、その一方では何も変わらず、一緒にいられなくなってしまうのでは?

 でも

 でも本当に、自分はと、一生一緒にいたいと思っているのだろうか? いられるのだろうか? は人間ではないのだ。が同じように年を取っていっても、結局はいつか一緒にいられなくなってしまうのでは?
 そもそも、自分たちはもうすぐこのホグワーツを卒業するのだ。今、一緒にいるからと言って、卒業後も一緒にいるかなんてわからないじゃないか。いくら今、のこと好きだからって……。
 足を止めて上を見れば、灰色の空がシリウスを見下ろしていた。今にも泣き出しそうな空だった。

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