第七章
の秘密

「わたしたち、距離を置いたほうがいいと思うの……」

 灰色の空に見下ろされた湖の辺で白い息と共にの口から吐き出されたひと言が、シリウスの胸を大きく抉った。「どうして?」と絞り出すような声でたずね返せば、彼女はちょっと困ったように笑う。
 シリウスはハッとした。きっと、自分がずっと悩んでいることを彼女は気にしているのだ。リリーもルナも、が最近ずっと元気がないのだと言っていたではないか。自分はを傷つけてしまっているのだと、シリウスは改めて実感した。

「僕は……」

 何を言えばいいのだろう? ぎこちない態度のことを、謝る? 距離を置く必要はないと、嘘でも告げるべきなのか?

「ごめん……僕が変な態度をとってるのを、気にしてるんだろ……? まだ戸惑ってるんだ。でも、きっとすぐに――

 言っていて、最低だと自分で自分を殴りたくなった。の傍にいられなくなることは耐えられなかった。たとえ彼女が人間ではないことを受け入れられなかったとしても。

「わたし……違うの」

 泣きそうな顔で、はシリウスを見ていた。

「最初は……あなたにはきっと考える時間が必要だと思っていた。ブラックくんがわたしのことを知りたいって言ってくれたのが嬉しかったし、受け入れてくれるときがくる期待もした。今だってしているわ。だって、ルーピンくんのこともあるし……」

 「わたし、彼のこと、知っているの」が控えめに付け足した事実に、シリウスは驚かなかった。彼女の親友たちが知っているのだから、きっと彼女も知っているだろうと思っていた。

「でも、期待する以上に辛いの。今の、この状態が……不安なの。ブラックくんに、受け入れてもらえなかったらと思うと……だってあなたが受け入れられなくても、わたしが人でないことに変わりはないんだから!」
……」
「わたしが、辛いの……だから、ごめんなさい……」

 俯いたの銀色の瞳から、透明な雫がこぼれた。

「わたしたち、一緒にいないほうがお互いのためになる……ブラックくんは、もう悩まなくてすむし、わたしは……」

 の口からそのつづきが漏れることはなかった。彼女はぐっと唇を噛みしめ俯いたまま、シリウスの方を見ようとはしなかった。

 が立ち去った後の湖で、シリウスは突き刺さる風を一身に受けながら、ただただ立ちつくしていた。そして唐突に、自分は彼女に振られてしまったのだと覚った。あの日医務室で彼女に告げた自分の想いの返事が、あの言葉だったのだ。あの日、「今は答えられない」と言った彼女の真意が理解できて、シリウスはひどく泣きたい気分だった。

 は言ったのだ。シリウスが彼女の正体を知れば、もしかしたら想いは変わってしまうかもしれないのだと。

 でも、本当にそうなのだろうか?

 それから数日間は最悪だった。寒空の下にいつまでもいたのが悪かったのだろう。シリウスは見事に風邪をひき、数日間、熱のせいでベッドから出られない毎日を送った。唯一よかったことは、そのままクリスマス休暇を迎えたために、今学期中やるはずだった罰則の掃除がなくなったことだけだ。

「珍しいことだね、パッドフット」

 あの翌日、熱を出したシリウスを面白そうに見ながらジェームズは言った。

「一体昨日、寒空の下で何をしていたんだい? こんな熱が出るまで」
「何も」

 ガラガラの声で、シリウスは不機嫌そうに答えた。

「薬をもらってきたから、飲むといいよ」

 ベッドサイドの机にゴブレットを置きながら、リーマスが同情したような視線を向けてきた。

に振られたんだって?」
「何で知ってるんだ!」

 大声で叫び、思わず咳き込む。うまく呼吸ができなくて涙目になりながらリーマスを見ると、彼は何てことないように肩をすくめた。さっきまで面白そうにシリウスを見ていたジェームズが、それを受けて真面目な口調になった。

「エバンズたちに聞いたのさ。さっき、談話室に降りたときにね。すごい剣幕だったよ。君のこと、呼んで来いって。熱があるから無理だって言ったら納得してくれたみたいだけど」

 真っすぐな親友の視線が痛い。シリウスは枕に顔をうずめ、彼のヘーゼルの瞳を直視しないようにした。

と何があったんだい? エバンズが言ってたよ。泣いてたんだって……」
「僕だって泣きたいさ……」
「君じゃないみたいに弱気だね。熱のせいかい?」
「放っておいてくれよ」

 親友たちを追いだし、シリウスは枕元の杖で、天蓋のカーテンをしっかりと閉めた。本当に泣きたかった。どんなにの正体に戸惑っても放さずにいた彼女の隣というポジションを、失ってしまったのだ。もう、取り戻せない。

 そんな気分で迎えたクリスマス休暇が、楽しいはずもなかった。しかも、友人たちはみんな家に帰ってしまうらしい。せっかく風邪が治っても、ただ退屈なだけだ。まだ、ベッドで寝込んでいたほうがよかった。
 部屋には夜の間にしもべ妖精が運んだのだろう、プレゼントの山ができていた。「期待していてよ」と言っていたジェームズからのプレゼントが、なぜか自分も一緒に考えた新しい悪戯グッズ一式で、それに少し呆れながら―― もっとも、ジェームズがこっそりと手を加えている可能性があったが―― シリウスはプレゼントの選別を始めた。どうせほかにやることがないから、いつも以上にゆっくりと。
 それでも去年よりは随分減っていたが見知らぬ女子生徒からのものや、差出人の名前のないプレゼントはきっちりと横に避ける。下手に開けて何があるかわからない。特に差出人の名前のないものなんて……自分に恨みを持ったヤツは大勢いるのだ。スネイプとか、あるいは、今年なら自分が石にした女子生徒たちとか。

 従姉のアンドロメダからのプレゼントは、青みがかった黒のコートだった。シリウスはそれを無造作にベッドの上に放り投げ、次に視線にとまった封筒を手に取った。
 封筒だけだった。それと一緒にプレゼントはない。差出人の名前がないそれを、シリウスはいらないものの山に置こうとして、やめた。予感がしていた。ゆっくりと、封筒を開く。

 中に入っていたのは、1枚の二つ折のクリスマスカードだった。「メリークリスマス」の文字が淡いパステルカラーでキラキラと輝いている。シリウスはゆっくりと、その優しい若草色のカードを開いた。
 一瞬のできごとだった。カードが開くと同時に、虹色に透き通った羽を持った妖精たちが飛び立ち、シリウスの上に星屑を降り注いだ。星屑は空中で「あなたにとって素敵なクリスマスになりますように」と文字を書き、余韻を残して消えていった。
 しばらくぼんやりと宙を眺めていたシリウスはハッとして、再びカードに視線を戻す。妖精たちが書いたものと同じ文章がそこには書かれていたが、やはり差出人は見つからなかった。それでも、シリウスは確信していた。

 だ。

 はじかれたように立ち上がり、シリウスは部屋を飛び出した。談話室にいた2年生の男子生徒にを見たかとたずねると、彼は驚いたようにシリウスを見上げ、さっき出かけて行ったのだと告げた。
 親切な後輩に、リーマスからのプレゼントだったお菓子を少し分けてやり、シリウスはカードを手に取ったまま、真新しいコートを羽織って談話室を後にした。に会わなければと思った。

 カードが出した星屑の光は彼女の髪の色に似ていて、シリウスに入学した日の組み分けの儀式を思い出させた。あの時、彼女に抱いた感情と一緒に。
 あの時、ほど綺麗な子はいないと思った。彼女があまりにも綺麗で、もしかしたら彼女はヴィーラか何かの血が混ざっているんじゃないのかとも。

 図書館に彼女の姿はなかった。外だろうか? 廊下の窓から外を見れば、雪がちらつき始めていた。こんな、寒い日に?

「ブラック」

 その雪と同じ冷たさを持った声に名前を呼ばれ、シリウスは振り返った。レオン・グリフィスがそこにいた。

「何をしている?」
を捜しています」

 ―― そう呼んだのは、グリフィスに対する嫉妬心からだろう。

「今更、か?」

 ブラウンの瞳が冷たくシリウスを見据え、彼はシリウスのその言葉を鼻で笑った。この目の前の教師が自分との間に起こったことを知ってるのだと、シリウスはそのとき気がついた。

「今更なんかじゃない」

 頭にカッと血が上り、相手が教師であることを忘れ、シリウスは強く言い放つ。

のことを受け入れられず、彼女を傷つけたのは貴様ではないか」
「それは……」
「身勝手なことだな」

 言い返す言葉が見つからず、シリウスはグリフィスを睨みつけた。彼の瞳はどこまでも冷ややかで、それが一層シリウスの怒りをあおった。

は」

 声までも冷ややかだ。

「拒絶されるのを恐れて離れていったのだ……ブラック、貴様から」
「えっ?」

 ブラウンの瞳がシリウスから窓の外へと移された。その先に、湖が見える。不気味なほど静かだった。

「もう随分と昔……ある魔法使いがを生み出した。その魔法使いには恋人がいた。彼女はマグルで、病弱だった。2人はを娘として育てたが、やがて魔法使いの恋人は死んでしまった」

 が前に少しだけ話してくれた、彼女の両親の話だった。

「それからしばらくたったある年のクリスマス……その魔法使いはを捨てた。恋人によく似ていたを……一緒にいれば、彼女を思い出してしまう。それが、耐えられなかったのだろう……実際のところはわからないが」

 黙ってグリフィスの話を聞きながら、シリウスは彼をじっと見つめていた。無表情なグリフィスからは、何も読み取ることができない。しかし、シリウスはそのブラウンの瞳がどこか悲しみを帯びているように思えた。

と私が一緒に過ごすことになったのはそれからだ。あの子はまだ幼く、私が面倒を見る必要があった。そしてあの子はその時から、独りにされるのを怖がるようになった。置いていかれると思うのだろう。父親にそうされたように」

 は、自分もそうすると思ったのだろうか? 人ではないことが受け入れられず、の前から去ってしまうと? それを恐れて、自ら離れて行ってしまったのだろうか?

「貴様はどうする?」

 グリフィスの瞳は、再びシリウスに向けられていた。

「人の心が揺らぐことを私は悪いことだとは思っていない。だが、あの子のことに関しては……ほんの一時の想いなら、もうあの子に構うな」
「ほんの一時の想いじゃない」

 その言葉ははっきりと、自然に、シリウスの口からこぼれた。

「絶対に」

 噛みしめるように付け足して、シリウスは真っすぐにグリフィスを見据えた。中途半端に、彼女を想ったわけではない。
 が人ではないことに戸惑っていたことが嘘のようだった。受け入れてしまえば、何をそんなに戸惑っていたのかわからないくらいだ。だってはじめてを見たときに、もしかしたら彼女は人ではないのかもしれないと、そう思ったのは自分なのだから。

は湖にいるだろう」

 グリフィスは静かに告げた。

「あのクリスマスに、父親に置き去りにされたのと同じ湖の辺で、あの子は今も迎えが来るのを待っているのだ」

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