第八章
渡しそびれたバレンタインカード

 あの年、クリスマス休暇を終えてホグワーツに戻ってきたジェームズたちがまず目にしたのは、幸せそうな2人の姿だった。翌年起こることなんて知る由もない、2人。そして、自分たち。

「僕らは付き合い始めた」

 シリウスは言った。

「あんなに戸惑ったが人じゃないっていう事実も、彼女と一緒にいられればますます気にならなくなった。傍にいてくれるだけでよかったんだ……僕にとって彼女が、何者でも」

 今だって

 昨晩降り積もった雪が、ホグワーツから音を奪ってしまったようだった。シリウスの耳に届いているのは2人分の、その雪を踏む足音だけだ。

「ブラックくん」

 そこに加わった新たな音に、シリウスは足を止めて振り返った。数歩後ろを、シリウスが付けた足跡を踏みながら歩いていたが、その銀色の瞳でシリウスをちらりと見上げていた。

「寮に戻らなくていいの?」

 午後になって散歩しようと提案したのはシリウスだった。何となく外に出たい気分だったし、と本当に2人きりになりたい気分でもあった―― いくら人が少ないとはいえ、寮だとどうしても人の気配はする。がその誘いに少し微笑んで頷いてくれたから、2人で充分温かい格好をして外に出てきたのだ。
 会話も少なく、シリウスとはただのんびりと歩いていた。ただクリスマスからひと晩たったばかりで、こうして2人でいられるだけでも充分すぎるくらい幸せだった。

「どうして?」
「だって、もうすぐジェームズたちが帰ってくる頃じゃない?」

 腕時計を確かめれば、の言うとおりだった。そんなに自分たちは外にいたのか。

「それより、

 自分の目の前で立ち止まったを見下ろして、シリウスは片方の眉を上げた。

「どうかしたの、ブラックくん?」
「それだよ」
「えっ?」
「僕ら付き合ってるんだ。それに、僕だって君をって呼んでるのに、君だけいつまでも“ブラックくん”なのはおかしいだろ」

 は大きく瞬きをし、それからさっとその頬を赤らめた。視線で促せば、彼女はためらいがちに口を開き、少しの間をおいて、やっと小さくささやいた。

「シリウス」

 自分で促しておいたというのに、シリウスは大きく動揺した。自分の名前が、全く違う言葉のように思えた。

 シャキリと足元で雪が軋む。手袋をはめた手で、シリウスはの頬をそっと包んだ。寒さのせいか、恥ずかしさのせいか、鮮やかな朱色が白い頬に残っている。
 自分の名前を紡いだ唇に、シリウスはそっと口づけた。そっと閉じられた銀色の瞳がどんな感情を映しているかはわからない。それでも閉じられた瞬間に震えたまつ毛に、シリウスは自分の唇も同じように震えているのを知った。

 寒さのせいではない。幸せのために。

「何?」

 実家から戻ってきたばかりのジェームズは、荷物を整理していた手を止めた。シリウスが寮に戻った時、友人たちはとっくに到着していて、部屋でトランクを開いていたところだった。彼らの「どこに行っていたのか」という質問に、散歩だと簡単に答えたシリウスは、クリスマスに起きた出来事の結果を唐突に告げた。

「だから、と付き合うことになったんだ」
「付き合うって……恋人同士になったってことかい?」
「それ以外に何があるんだよ」
「いつから!?」
「昨日からさ」

 肩をすくめるシリウスに、ジェームズは心底残念そうな顔をした。

「どうしてそんな楽しいこと、僕らがいない時に起こすんだい?」
「つまり、僕をからかいたかったんだろう、プロングズ」

 うんざりとした視線と声を大げさにがっかりする親友に投げかけたシリウスは、自分のベッドに腰掛けた。

「歴史的瞬間をこの目で収めたかったのさ、パッドフット。あの、シリウス・ブラックにちゃんとした恋人ができるなんて一体誰が想像すると思う?」
「あのジェームズ・ポッターがリリー・エバンズと付き合いだすってことくらい誰にも想像できないだろうな」
「ああ! ムーニー!!」

 ジェームズは大げさに天を仰ぎ、それから傍でほとんど荷物を片付け終えたリーマスの肩を強制的に組んだ。

「パッドフットのヤツ、自分だけ片想いの恋が実ったからって調子に乗ってると思わないか?」
「悪いけど」

 その腕をやや迷惑そうに自分の肩からどけ、リーマスは呆れ半分の視線をジェームズに送った。

「君の意見には同意しかねるよ、プロングズ。それにもっと申し訳ないけど、僕も実はルナと付き合ってるんだ」
「何?」

 今度はシリウスが聞き返す番だった。リーマスは申し訳なさそうに友人達を見ていた。

「ルナって、ルナ・アーヴィング? いつから?」

 好奇心に満ちた瞳で、ピーターがたずねた。「ハロウィーンの少しあとから」と、リーマスは答えた。

「でも色々あったから、言い出しにくくてね……ずっと黙ってたんだ」
「色々、ね」

 ジェームズが自分を見たことに気付き、シリウスは眉を顰めた。あの事件のことを言っているのだとすぐに理解できた。確かにそんなこと、話す気にはなれなかっただろう。

「ねぇ、その、アーヴィングは知ってるの? つまりムーニーが……」
「人狼だってことを?」
「う、うん」
「僕が言う前に知ってたよ。それでも僕が好きだって言ってくれたんだ」

 困ったような、それでもどこか嬉しそうな顔でリーマスは笑った。

 微笑むが、ふとシリウスの脳裏に過った。

 クリスマス休暇が終わると同時に、シリウスとが付き合いだしたという話はホグワーツ中に広まった。誰が漏らしたという訳ではない―― ジェームズは怪しかったが―― ただ、少し前から一緒に行動することが多かった2人の距離感が明らかに短くなり、2人の間の雰囲気も―― 特にシリウスから発せられる雰囲気が、今までとガラッと変わったからだ。
 もっとも、シリウスが完全に中心の生活になってしまったかと言うとそうではなかった。彼は今まで通り友人との時間も大事にしていた。今日も、ジェームズたちと雪の降り積もった校庭で、新しい魔法を色々と試して騒いでいた。

 コートも着ていたし手袋もしていたのに、談話室に戻った時にはもうすっかり手足が冷たくなってしまっていて、4人はまず暖炉の目の前を占領し、各々冷え切った体を温めながら自分たちの「実験」の反省会をしていた。
 話ながらシリウスは、何ともなしにぐるりと談話室の中を見渡した。そして隅の方にある肘掛椅子にすっぽりと座っているを見つけた。
 珍しいなと、シリウスは思った。彼女はそうしてよく談話室にいるけれど、そういう時は大抵、古くて厚い本を読みふけっている。ところが今日は別の物を夢中になって見つめていた。

 ジェームズたちに声をかけて、シリウスはの方へ歩み寄った。近づいて、彼女が見ている物が通信販売のカタログだということに気がついた。

 顔を上げたの髪がふわりと揺れた。シリウスはが座っている椅子の肘掛けの部分に腰を下ろし、覆いかぶさるようにしての手元を覗き込んだ。

「何か欲しい物でもあるのか? 君が通信販売のカタログを見てるなんて、珍しい」
「うん……」

 ゆっくりとはため息をついて、「何が欲しいか考えてるの」と言った。

「何?」
「リリーが今月誕生日だから」
「ああ」

 なるほど、そういえばジェームズがそんなことを言っていた気がするな。シリウスはまだ暖炉の前にいる親友をちらりと見てから、またに視線を戻した。

「でも、今月はホグズミード休暇がないでしょう? だから、通信販売で買おうと思って……」
「それでカタログを見ながら、何がいいか悩んでいたんだ?」
「うん。ルナとかぶってもいけないし……」
「ホグズミードに行った方が早いと思うけど」

 にやりと、シリウスは笑った。

「カタログじゃ、何がいいかなんてよくわからないさ」
「シリウス」

 カタログを閉じて、は咎めるようにシリウスの名前を呼んだ。

「わたし、あなたが何を考えてるかわかるわ」
「僕もが考えてることがわかるよ」

 つむじにキスを落としてシリウスは言った。

「エバンズみたいなことだろう? だけど前に人を楽しませる悪戯なら好きだって言ってたじゃないか」
「それはそうだけど、これは……やっぱり、ダメよ」

「だって、危ないもの……ホグワーツの外は――
「君は僕が守るよ」

 諦めたようにため息をついたに、シリウスは声を立てて笑って見せた。

 その日も昨晩降った雪のせいで外は真っ白に染まっていた。シリウスもも防寒具をしっかりとつけ、人けのない校庭をこっそりと歩いていた。

「どの抜け道を使うの?」

 「忍びの地図」を見ながら歩くシリウスに、はたずねた。ホグワーツにはホグズミードに行ける抜け道がいくつかある。がそれを知っていることを少し意外に思いながらも、シリウスは悪戯っぽく笑って見せた。

「あれさ」

 杖の先にあるのは「暴れ柳」だった。「えっ?」と目を瞬かせるに安心するようにシリウスは告げて、「暴れ柳」の枝が届かないギリギリまで近づいて行った。

「あの根元に抜け道があるんだ。『叫びの屋敷』に繋がってる。柳を大人しくする節に触れば簡単に抜け道に入れる」
「触るって……」

 ギシギシと枝は音を立てている。顔色を悪くしたの手を、シリウスは1度ぎゅっと握ると、ポケットに地図をしまった。色々とに知っておいて欲しいことがある。ちょうどいい機会だと、昨日の夜に考えていた。

「僕がやる。簡単さ―― 慣れてるからな」
「慣れてる? シリウス……どういうこと?」
「リーマスが狼人間だってことは知ってるだろ」

 頷くに、シリウスはつづけた。

「僕は―― 僕らは、毎月リーマスが変身するのに付き合ってるんだ。つまり、一緒にいるんだ」
「シリウス、それって」

 驚きに言葉も出ない様子だった。「危険だってことくらいはわかってるさ」大して気にも留めずに、シリウスは言った。

「去年からずっとそうしてる。それに」

 ポケットの地図に触れ、シリウスはちょっと考えた。この地図がどうやって作られたかまで話すことはないかもしれない。が自分に失望するような気もした。

「いや―― それに、危険なのは人間だけだ。つまり僕らは変身するんだ―― 動物に」
「ちょっと待って」

 はそっと眉を顰めた。

「それって、つまり……『動物もどき』?」
「そう、『動物もどき』さ」
「シリウス、それって……校則違反じゃないのよ……?」
「犯罪だって言いたいんだろう? わかってるさ。でも、リーマスはそれで救われてるんだ」

 の銀色の瞳は何か言いたそうだった。「このこと……」シリウスは静かに聞いた。

「黙ってるだろ?」
「でも……ええ、黙ってるわ……でも、シリウス」
「危険なことはしないで、だろう?」
「あなたが心配なの……いつも無茶ばかりで」

 肩をすくめて、シリウスは誤魔化すようにキスをした。

「ホグズミードに行こう。『動物もどき』は大丈夫だ。ちゃんと準備して―― 僕らはちゃんとした『動物もどき』になったんだ。危険じゃない」

 「見ていて」とに告げ、シリウスは一瞬で大きな黒い犬の姿に変わった。驚くに尻尾を振って見せ、「暴れ柳」の枝を危なげなくかわして行き、柳の節に触れた。
 すっかり枝が大人しくなったのを確かめてからこっちに来るように小さく吠えれば、は不安そうな顔をしながら小走りに根元まで駆け寄ってきた。

 トンネルを抜けて「叫びの屋敷」に着くまで、シリウスは変身を解かなかった。トンネルの中は変身したまま進んだ方が楽だったからだ。時々振り返っての様子を確認すれば、彼女はしっかりとついてきている。

 埃っぽい「叫びの屋敷」から出れば、そこはもうホグズミード村だった。自分を見上げるに気付き、シリウスはその手を握った。

「……静かね」

 がぽつりと言った。

 闇の陣営が勢力を伸ばし、魔法界の人々はいつも息を潜めて生活している。ホグズミードも本来ならもっと賑やかなはずなのに、人影もまばらで静かなものだった。

「行こう―― 村の中心に行けば、もう少し人もいるさ」
「うん……」

 はどこか寂しそうだった。きっと気のせいではないだろう。ホグズミード週末のときはまだホグワーツ生で賑わっていて楽しい気分になるが、それ以外のときに来るホグズミードは、賑やかな時を知っているからか、シリウスでさえどこか寂しげに感じる。

 「三本の箒」で温かいバタービールを買って飲みながら2人は歩いた。行きたい雑貨屋があるのだというに付き合って、シリウスは郵便局の隣にあるその店にやってきた。
 気をつけていないと見落としてしまいそうなくらい小さな店は、アンティーク調の小物や家具が所狭しと並べられていて、店に釣り合った大きさのおばあさんが奥でゆったりと肘掛椅子に座りながら店番をしていた。
 確かに女の子が好きそうなものも多かった。きょろきょろと店内を物色するから少し離れたところに立っていたシリウスは、ぼんやりと辺りを見渡した。

 傍らには古い鏡台がある。その上にはいくつかのアクセサリーが展示してあった。その内の、くすんだ金色のロケットがついたペンダントをシリウスは何となく手に取った。
 ロケットは簡単に開いたが、売り物だし、中には何も入っていなかった。写真を入れるのとは反対側、ちょうどロケットの蓋の裏には小さな細工がしてあって、緑色の石が―― 宝石ではないようだった―― 中心に埋め込まれている。シリウスはに気付かれないようにそのロケットペンダントを買っていた。にまだ何のプレゼントもしていないことを思い出したからかもしれない。クリスマスには、カードさえ贈らなかった。

「いい物、あったか?」

 買ったペンダントをこっそりとポケットにしまってから、シリウスはに声をかけた。彼女の手にはいくつかのレターセットがある。

「これにしようと思うの。あと、これにあった羽根ペンを『スクリベンシャフト羽根ペン専門店』で買いたいんだけど……」
「いいよ―― それ、見せて」
「はい――

 渡されたレターセットは、どれも細やかな模様が描かれている紙でできていた。「魔法は何もかかってないみたい」とは言った。

「マグルの物だって、おばあさんが―― わたし、こういうマグルの物が好きだし、リリーもマグル出身でしょう?」
「マグルの物じゃなくたって、女の子はこういうの好きだよな……僕にはわからないけど」
「そうね」

 はクスクスと笑いながら会計を済ませた。それから羽根ペンを買いに行き、リリーへのプレゼントが揃った時には、もう夕飯に近い時間になっていた。

 「ハニーデュークス」にある抜け道を使って、2人はホグワーツ城に帰ってきた。外を少し散歩してきましたという顔でグリフィンドール寮に戻り、みんな夕飯に向かってしまったのか、人の少ない談話室の暖炉の前でコートを脱いだ。

「今日は……ありがとう」

 お礼を言ったの目は、やはり何か言いたそうだった。「動物もどき」のことだろうとは思ったが、シリウスは何でもないように「どういたしまして」と返した。

「ああ……そうだ、これ」

 そして誤魔化すような口ぶりでの気を引き、シリウスは雑貨屋で買ったロケットペンダントをに差し出した。

「えっ?」
「今日、買ったんだ。君に」
「どうして? わたし、誕生日でも何でもないわ」
「クリスマスに何もあげられなかったから……でも、いいんだ。理由なんて」

 そっと細い首にかけてやれば、その小さな金色のアンティークには少し目を細めた。

「シリウス……その、ありがとう」

 頬を染めて微笑むは愛らしい。シリウスもにっこりと笑って、をぎゅっと抱きしめたのだった。

 思えば、あの頃―― 付き合い始めたばかりの頃が1番、自分もも幸せだったのかもしれない。全く問題が起きなかったわけじゃない。でも、毎日が充実していた―― 自分たちだけじゃない。ジェームズたちも、みんな……よく笑いあっていた。

 今ではもう見られなくなった笑顔で。

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