第八章
渡しそびれたバレンタインカード

 まさか……ジェームズは信じられない物を見るように親友を凝視した。医務室に運ばれたシリウスは、翌日になってやっと目を覚ました。特に悪いところはないように見えたし、彼自身、平気だと言っていたのだ。

 それなのに、一体どういうことなんだ?

 ジェームズはベッドの傍に呆然と立つを見た。シリウスが目を覚まし、すぐにを呼びに行った。彼女は―― 一見そう感じられなくても―― とても喜んで、医務室に駆け付けたのだ。

「何か変なこと言ったか?」

 シリウスは眉を顰めた。「言ったさ!」そう叫びたい気持ちをぐっと堪え、ジェームズは頭をフル回転させた。何ていうことだろう……!

「わたし……」

 しかしジェームズが何か言う前に、が口を開いてしまった。その声はジェームズにもわかるほど震えていたが、彼女はそれを必死にこらえようとしているのもわかった。

よ。あなたと……同級生なの」
?」
「そうだよ」

 ジェームズは口を挟んだ。シリウスはまだ怪訝な顔をしている。彼は駆け付けた―― 自分の恋人に―― 言ったのだ「君は誰だ?」と。
 シリウスはのことだけ忘れてしまったようだった。考えなくてもわかる。あのカードのせいだ。送り主の名前はわからないが、文面から見てスリザリン生のようだった。
 どうせ……ジェームズは思った。厄介な呪いを付けていたんだ。の存在がシリウスの中から消えて喜ぶ女子はスリザリンにだっている。

は君の」
「友達なの」
……」

 「いいの、ジェームズ」はそっとささやいた。恋人だと言えばシリウスが混乱すると思っているのだろう。でもそれはきっと、何の解決にもならない。

「本当に?」

 聞き返したシリウスに、がひどく傷ついた顔をした。タイミングよくマダム・ポンフリーが自分たちを追い出してくれなかったら、2人に何を言ったらいいかわからずに立ち竦むはめになっていただろう。

 医務室の前の廊下は、季節に関わらずいつも以上に寒く、冷たく感じられた。「」とジェームズは隣にいる親友の恋人の名前を呼んだ。彼女はひどく青ざめていて、シリウスよりずっと入院した方がよさそうな雰囲気だった。

「どうして自分が恋人だって名乗らなかったんだい?」
「……言えないわ。わたしのことだけ忘れてるのよ。混乱するだろうし……」

 1つため息をついて、はためらいがちに言った。「信じてもらえるかわからない」と。

「そんなことないさ」
「そうだといいけど……」
「むしろ疑ったら僕があいつを殴ってやる」
「ダメよ!」
「気持ちだけだよ。、シリウスがどれだけ君を想ってるか君だってわかってるだろう? 疑ったりなんかするもんか。むしろそれがきっかけで思い出すとは思わないのかい?」
「わからないわ。だってどんな魔法だったのかもわからないもの」
「シリウスの気持ちは?」
「それは……それだってシリウスにしかわからないことよ。でも」

 はつづけた。

「でも、わたしは彼のこととても愛してるの」

 綺麗な曲線を描くまつ毛が震え、透明な雫が1つの銀色の瞳から零れた。

「シリウスには何も言わないで」
……」
「本当はわたしが辛いの……恋人だって名乗ってわたしのことを覚えていない彼の傍にいるのが」

 の細い肩に、ジェームズはそっと手を乗せた。がそう言うのならそうしようと思った。シリウスの記憶を戻す方法は別の方法を探せばいい。
 今はの涙を止めることが先決だ。きっとこのまま談話室に戻れば、リリーたちに怒られるのは自分だなとジェームズはぼんやりと考えた。

 を忘れてしまっていること以外健康そのもののシリウスはすぐに退院し、いつもの日常に戻ってきた。は2人が親しくなる前のようにシリウスと接するのをやめてしまっていた。

「何だか調子が出ないんだ」

 談話室の肘掛椅子の1つに身を沈め、シリウスはぼんやりとそう言った。

「魔法もうまく使えない気がするし……なあ、どうして僕は入院してたんだ?」
「だから言っただろう」

 ジェームズは暖炉をいじりながらイライラと答えた。

「バレンタインカードにかかってた呪いのせいで気を失って医務室に運ばれて、目を覚ましてのことを忘れていたから1日入院したんだ」
……でも他のことは憶えてる」
「彼女のことだけ忘れる呪いだったのさ、きっと」
「どうして彼女のことだけ?」
「君と彼女が特別に仲がよかったから周りは嫉妬したんだよ! 魔法が上手く使えないのは気のせいさ! 気になるなら杖をちょっと変えてみればいいだろう?」

 この数日くり返してきた説明を言い終えたジェームズはつい怒鳴ってしまっていた。驚いて目を丸くするシリウスを殴ってしまいたかったが、の泣き顔が過ってそんなことはできなかった。

 彼女の願いどおりシリウスにはが恋人だったことを―― それとなくほのめかすことはあっても―― 告げなかった。それでも傍から見ればとぼけているようにしか見えないシリウスの言動は大いにジェームズを苛立たせていた。がいつも心細そうにシリウスのことを見つめているのを知っているから尚更だ。

か」

 しかし、ぼそりと呟かれたシリウスの言葉にジェームズは苛立ちを吹っ飛ばしてしまった。

「彼女、綺麗だよな」
「えっ?」

 ぼんやりと宙を見つめるシリウスは、の姿を思い浮かべているだろうか。その薄灰色の瞳に複雑な感情を含ませて、親友はそれっきり口を閉じてしまった。

 もし、

 ジェームズは思った。

 もしこのままのことを思い出さなくても、シリウスはのことがまた好きになるのではないだろうか。記憶が失われても、その感情が心の奥底に残っている限り。

「でもは傷ついてるわ」

 数日後、突然リリーに呼び出されたジェームズはシリウスの感情の小さな変化を彼女に報告したが、リリーからの返事は冷たいものだった。

「だってあの子はブラックのこと忘れてなんかいないもの。辛いに決まってるわ」
「だけど一体どうすればいいんだ」
「ブラックがうまくをフォローするようにあなたが仕向けるの」
「でもは……自分のことを覚えていないシリウスの傍にいるのが辛いって言ってたんだ。あいつがのことを慰めるようなこと……はますます辛くなるんじゃないかい?」
「その言葉ならわたしもルナも聞いたわ。でも今よりずっとマシよ。それにあなたの言うとおりブラックが記憶喪失になってもやっぱりに惹かれてるなら――

 口を閉じたリリーの次の言葉をジェームズは待った。しかし彼女は少し考え、「記憶が戻るのが1番いいに決まってるわね」と呟いた。

 リリーの言うことも一理ある。ジェームズは早速シリウスをうまくけしかけることにした。寮に戻って、記憶を失くしてからというもの部屋にいることが多くなったシリウスを捜したが、親友はちょうど部屋にいなかった。
 どこに行ったのだろう―― 捜す手間を省くため、ジェームズは「忍びの地図」を開いてシリウスの名前を捜すことにした。

「あれ?」

 親友の名前はすぐに見つけられたがジェームズは首を傾げた。彼は今、校庭にいるらしい。そしてその傍らにはの名前がある。
 記憶を失くして2人はお互いに接点を避けるようにして過ごしていた。シリウスは無意識かもしれないが、は意識的にだ。こうして地図に2人の名前が並ぶなんて、一体何日ぶりだろうか。

 でも

 ジェームズは地図を閉じながら考えた。自分がけしかけなくてもうまくいくのなら少し2人のことは放っておける。リリーには悪いが彼女自身の言葉だ。記憶が戻るのが1番いい。
 ジェームズはこっそりしまっておいた元凶のカードを取り出した。シリウスもも大事な友達だ。何か行動を起こしたい。黙って見ているだけなんて自分には向かないことをジェームズはよくわかっていた。

 たまたま歩いていた廊下の窓から湖が見えて、たまたまそこに向かって歩いているの姿を見つけた。
 バレンタインの日、どうしてか彼女のことだけを忘れてしまった自分を―― 原因が呪いだとは聞いていたが―― シリウスはずっと不思議に思っていた。彼女は自分の友達で、特別仲がよかった。だからカードの贈り主が彼女のことだけ忘れる呪いを自分にかけた。確かに他に仲がいい女友達なんていないが、それだけの理由でこんな呪いをかけられるだろうか?
 もしかしたら―― シリウスは予想していた。もしかしたら、自分は彼女と付き合っていたのではないかと。しかし、シリウスは自分が付き合ってきた女の子とがかけ離れたタイプだということに気付き、その考えを確信できないでいた。

 校庭はコートとマフラーを着ていても随分と寒い。もしかしたら雪が降るかもしれないとシリウスはどんよりとした灰色の空を見上げた。最近―― 記憶を失くしてからだが、自分の頭の中もこんな曇り空だ。魔法さえ上手く使えない気がして、予備の杖に変えてみたりもするほどに。悪戯やクィディッチだってやる気にならない。ぼんやりとする時間が増え、シリウスはそんな時ふと、自分がよくを見ていることに気付いていた。
 ―― 彼女との関係が本当はどうだったとか関係なく―― 綺麗だとシリウスは思う。リリー・エバンズも確かに美人だが、はまるで人じゃないみたいな綺麗さだ。
 湖のほとりにある木の根もとに座って分厚い本を読んでいるを見て、シリウスは改めてそう思った。これで雪が降ったら、彼女は雪と一緒に消えてしまう気がした。

「……?」

 遠慮がちに声をかければハッとしてが振りかえった。彼女はシリウスがそこにいることに驚いて目を丸くし、それからすぐに視線を逸らしてしまった。

「どうしたの?」

 湖の方を見たままそうたずねたの隣に座り、シリウスは視線を合わせてくれないを見つめた。

「君の姿が見えたから……どうしてこんなところにいるんだい? こんなに寒いのに」
「今は……どこだって寒いわ」
「談話室は温かいだろ」
「……そうね」

 やっとシリウスを見たの瞳は言葉以上の物をシリウスに語っていたが、彼にはそれを読み取ることができなかった。
 代わりに彼は本の上に置かれていた手袋をはめていないの白い手をとった。案の定氷のように冷たいその手に眉を顰めると、寒さから守るようにぎゅっと握りしめた。

「君の手は冷たい」
「いつもそうよ」
「でも―― 中に戻ろう。風邪を引くだろ」

 の視線は再びそらされてしまった。彼女は戻る気はないらしい。しかし1人で戻ることもできなくて、シリウスはそのままの隣に居座ることにした。それに、彼女に聞いてみたいこともあった。

「ジェームズが」

 でも上手く遠まわしにたずねることなんてできない。

「君と僕は特別仲が良かったって」

 その言葉に、の銀色の瞳はまたシリウスを映してくれた。

「友達でって意味でさ。でも、僕は違う気がするんだ」
「どういう意味?」
「つまり―― 僕は、君と付き合ってたんじゃないか?」

 はひどく傷ついたような顔をして、小さく首を横に振った。シリウスは自分の方が傷ついた気がした。否定されるなんて思ってもみなかった。

「僕は……君が好きだった気がする。君がとても綺麗に見える」
「わたし……」

 はシリウスの方を見ていなかった。湖の向こう側の岸を見つめる彼女の横顔は雪なんて降らなくても消えてしまいそうだ。

「あなたの記憶があってもなくても、あなたの本当の気持ちがわかるわけじゃないわ。あなたの心を完璧に理解できるのは、あなたしかいないもの」

 そんなことないと、シリウスは否定したくなった。何故かは自分のことをちゃんとわかってくれている気がした。誰よりも――

「そうだな」

 でもの言うとおりだ。自分の気持ちは自分しかわからない。記憶が戻らなければ、のことをどう思っていたかなんてわかりっこないのだ。

「でも」

 シリウスは言った。

「記憶がなくても、君が好きだったかどうかわからなくても、今の自分の気持ちはわかる」

 シリウスはの白い頬にそっと触れた。手のひらで感じる彼女の頬は彼女の手よりずっと冷たい気がした。

「君とキスがしたい」

 驚いてが振りかえるのが見えた。触れた唇は、彼女のどこよりも冷たい。真っ直ぐな視線が自分を見つめているのに気付き、シリウスは少し情けない顔をした。「ごめん」と普段なら絶対に口をつかない言葉がこぼれた。

「嫌だったよな……友達だったとしても、こんなキスするような関係じゃなかったなら」

 の沈黙が痛かった。それでも握ったままの手をシリウスは離すことができなかった。

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