第八章
渡しそびれたバレンタインカード

 風邪をひいたをリリーは心配そうにのぞきこんだ。鼻の頭まで毛布にくるまり、隙間からのぞく頬はいつもよりずっと赤くなっている。

「調子はどう? どうして寒い中ずっと外にいたりなんてしたの?」
「聞かないで……」

 掠れた声では答えた。

「風邪なんてめったにひかないのに」

 ルナの言葉はもっともだった。は人間ではないからなのか、あまり病気をしなかった。こんなにひどい風邪をひいたのはおそらくホグワーツに通っていて初めてだろう。

「熱を測りましょう? それにやっぱり医務室に行った方がいいわ」
「行けないわ」

 熱のせいで掠れているだけではなく、の声には悲しみが含まれているようだった。リリーとルナは顔を見合わせた。一体、どうしたというのだろうか?

「わたしのことを知ってるのは、レオンとダンブルドアくらいだもの……」
「普通の薬じゃ治らないの?」

 ルナがたずねると、は力なく首を振った。

「わからない……けれど、もし……何か知られたら……」
「医務室じゃなくてグリフィス先生のところに行くべきみたいだね」

 不安そうなに、リリーはため息をつきながらそう言った。

「レオンが心配する……」
「ダメよ。それに先生はいつだってのことを心配しているんだから今更気にすることじゃないわ」

 何度か咳き込んだ後、「着替えないと」と諦めたように彼女は呟いた。

 事務室にいたレオン・グリフィスは、が入ってくるなり盛大に眉を顰め、妹をすぐに自分のベッドに寝かせてやった。「どうして風邪なんて」と彼が独り言のように呟きながら用意してくれたお茶を飲みながらリリーとルナは目の前の教師をうかがうように見た。

が医務室に行くのを嫌がって……知られるかもって」

 ルナが告げた。「そうかもしれないな」とグリフィスはそっけなく答えた。彼はお湯を沸かし、棚からいくつかの瓶を取り出していた。

「普通の薬じゃ治らないんですか?」
「私にもわからない。こんな風に弱ったのは初めてだ……本当なら」

 グリフィスはハッとして言葉を切り、それから顔を顰めた。彼が杖を振ると、瓶の中身が鍋の中に注がれ、不思議な形の煙を吐き出しながら混ざり始めた。

がブラックと付き合い出したというのは本当なのか?」

 グリフィスはリリーとルナにたずねた。頷いた2人に、「それならば」とグリフィスはつづけた。

「ブラックは今、記憶が欠落しているらしいな……」
「知ってるんですか? 記憶喪失になったって」
「教師の間でも噂になっている。君たち学生は向こう見ずなところがあると」

 最後の方はの方を見ながらグリフィスは言った。しかし、2人にはのどこが向こう見ずなのかわからなかった。

「それで、の風邪は……」
「薬を飲んで休めばすぐによくなる……ブラックの記憶もどうにかしなければ……」

 リリーとルナは鍋から離れたグリフィスを視線で追った。彼はおもむろに暖炉に近づきフルーパウダーを投げ入れるとその中に向かって何かを告げた。一瞬の後、灰と共に暖炉から吐き出されたのはあの元凶となったバレンタインカードだった。

「随分な呪いだな」

馬鹿にしたような口調でグリフィスは言った。

「記憶修正術でもかけたかったのだろうが不完全だ。しかしその未熟さがこのカードにかけられた魔法をより厄介な呪いにしている」
「ブラックは戻るんですか?」
「戻るとも。だが君たちには無理だろう―― 失敗すれば一生あのままだ」
「それなら先生、」
「わたしがやるわ」

 掠れた声が響き、3人はハッとしてベッドの方を見た。起き上がったが真剣な眼差しで3人を見ていた。

……寝ているんだ」

 グリフィスの厳しい口調に、同意するようにリリーとルナは頷いた。熱のせいだ。がこんなとんでもないことを言い出すなんてありえない。

「どんな魔法か、教えて」
「教えれば君はブラックの元に駆けつける気だろう。そんな状態で!」
「レオン」
「ダメだ」
「教えてくれないなら自分で調べるわ―― カードを」

 差し出されたの白すぎる指先を見て、グリフィスはますます表情を険しくさせた。彼は素早くカードを暖炉に放り込み「元の場所に戻せ」と言い放った。

、先生の言うとおりよ。無理してブラックの記憶がこのまま戻らなかったら」
「シリウスは……!」

 それは普段のからは想像のできないような声だった。熱のせいで紅潮した頬は涙でぬれ、彼女は耐えきれないように両手で顔を覆った。
 リリーとルナは思わず彼女に駆け寄ってその震える肩を抱きしめた。がシリウスの記憶がなくなってからずっと辛い思いをしているのはわかっていた。でもこんなにまで耐えていたなんて考えてもみなかったのだ。

「彼、彼は、きっと戻らなくてもわたしのこと、す、好きになってくれるかもしれない……」
、何があったの?」
「キスしたの」

 泣いているせいでの掠れた声はもっと聞きとりづらかった。しかしリリーにはがはっきりとそう告げたのがわかった。

「彼がしたいって……わたし、断れなかった……だって、だって」
、泣かないで。仕方ないよ。だってはシリウスが」

 「好きなんだから」ルナはちらりとグリフィスの顔色をうかがいながら告げた。

「また、繰り返すのよ」
「何を?」
「記憶が戻らなくても……」

 何てことだろう。リリーとルナにはの考えがわかった。もし記憶が戻らないままとシリウスがよりを戻すことが起きたら、カードの送り主は同じことを繰り返すかもしれない。だからは自分で元に戻す術を知っておきたいのだ。

 気持ちが通じ合うたびに忘れられるなんて―― 自分たちだって耐えられない。

 2人はグリフィスを見た。彼はひどく渋い顔をしていたが、彼女たちは彼がきっと呪文を教えてくれると信じていた。

 グリフィスに記憶を元に戻す方法を教えてもらう一方で、リリーたちはカードの送り主を見つけ出そうと決めた。のあんな顔は見たくなかった。そのためにも原因からどうにかしなければならなかった。
 もっとも、送られてきたカードくらいしか手がかりがない上に、そのカードはリリーたちの手元にない。ルナはリーマスに頼んで手に入れようかと思ったがそれを実行する前にリリーがジェームズに声をかけられた。

「お願いだ、エバンズ」

 いつになく真剣にジェームズは言った。

「いや、本当はこんなこと君に頼みたくないし、僕だってこんな手段とりたくないんだけど」
「言い訳はいいわ。わたしも正直気が進まないけど……どうにかしたいとは思っていたの」

 表情を曇らせたリリーに申し訳なさを感じながら、それでも断らないでくれることに感謝した。他でもない彼女の親友のためだからこそ、なのだろうが。

 人けのないふくろう小屋の前で聞こえるのは中にいるふくろうたちの鳴き声と、冬の冷たい風が唸る音だけだった。ジェームズがリリーに頼んだことは、ここに宿敵のスネイプを呼びだして話をするのに付き合って欲しいということだった。
 あのカードはジェームズが調べたところによると、どうもスリザリン生から送られてきた物らしい。しかし肝心のスリザリン生の誰かということがわからず、同じスリザリン生のスネイプに協力を求めることにしたのだ。他にスリザリンに知り合いはいないし、何より彼はリリーに絶交された後もと親しかった。

のためだからな」

 お互いにこれ以上にない嫌悪感を持って2人は顔を合わせていた。

「それでそのカードは?」
「これよ」

 リリーがすぐにカードを差し出し、スネイプは複雑そうにそれを受け取った。リリーの声には彼に対する冷たさがはっきりと表れていた。そして彼もそれに気付いていた。

「いいだろう」

 スネイプは唸った。

のためだ」

 スネイプが何かを求めるようにリリーを見たのをジェームズは見逃さなかったが、それを問い詰める前に彼はその場から立ち去ってしまった。「大丈夫だろうか」とジェームズは呟いた。

「彼はちゃんとやってくれるわ」

 さっきスネイプに見せた冷たさを取り除いた声でリリーは言った。その言葉には彼に対する信頼が染み付いていて、ジェームズは自分の心がずしりと重くなるのを感じた。リリーは自分に、こんな風に話しかけてはくれない。

 いつかそんな日がくればいいのに。

 リリーの言葉通り、スネイプの仕事は早かった。彼はすぐにあずかったカードと一緒にその送り主の名前が書かれた手紙を送り返してきた。

「マリア・ブルストロード」

 リリーの声が手紙に書かれたその名前を読み上げ、ジェームズはリーマスやピーターとちょっと視線を合わせた。

「随分前にシリウスから聞いた名前だ」
「知ってるの?」
「ブルストロードは魔法族の旧家の1つさ……純血のね。そしてマリア・ブルストロードは名門ブラック家の長男の婚約者に選ばれた」
「婚約者!?」

 ルナが驚いて叫んだとき、今集まっているジェームズたちの部屋の扉がガタンと音を立てた。振り返った先に呆然と佇んでいたのはあろうことかで、ジェームズは慌てて立ち上がった。

「わ、わたし……目が覚めたらリリーとルナがいなくて、それで……」

 風邪が治っていないため元々悪かった顔色をますます悪くして、は口ごもった。

、その……マリア・ブルストロードは婚約者だったんだ。もう放棄されてる!」
「わたし、そんなこと知らなかった……」
「家同士が決めたことだ。シリウスは家のこととなると壁紙の色でさえ話さないから。気にしたかい?」

 首を横に振るをシリウスのベッドに座るように促し、ジェームズはつづけた。

「でも向こうは本気になってたんだね。それでこんなことを――
「大変よ!」

 手紙に視線を落としたままリリーが声を上げた。

「ブルストロードがポリジュース薬とあ、愛の妙薬を用意していたって!」
「えっ? な、何? それって」
「誰かに変身してシリウスに愛の妙薬を飲ませようってことか」
「でも確か愛の妙薬って、ずっと効果は続かないんだよね?」

 ピーターの言葉に頷きながら「飲ませ続ければ別だけど」とジェームズは告げた。

「ブルストロードは誰に変身しようって――

 ハッとしてジェームズはを見た。まさか……でも、もしブルストロードがシリウスが再びに惹かれていると知って新たな行動を起こそうとしているのなら?

「ねぇ……」

 沈黙が支配した場に重苦しいルナの声が響いた。

「シリウスは……今、どこにいるの?」

 音を立てて真っ先に立ちあがったのはだった。彼女はその場にいた全員が止める間もなく部屋を飛び出して行ってしまった。ジェームズたちは慌てて「忍びの地図」を掴みその後を追った。

「この前、聞いたの! 記憶を戻せる魔法の、こと! すっごい難しい!」

 走りながらルナが叫んだ。

「しかも失敗したらずっとそのままだって!」

 体調が万全ではないがいつも通りうまく魔法を使えるとは限らない。しかも高度の魔法を。の銀色の髪を必死で追いながら、ジェームズはシリウスが1人でいてくれることを心の底から願っていた。

 辿り着いたのは温室の1つだった。「シリウス!」の風邪で掠れた声が響くと同時にジェームズは事態がかなり悪くなっていることを知った。

 が、2人いる。

 混乱しきったシリウスの目が2人のを交互に捕らえていた。シリウスといるは間違いなくブルストロードだ。しかし、シリウスはそれを知らないのだ。

「ど、どういうことだ……!?」
、ダメ!」

 リリーの制止を聞かず、本物のはシリウスに杖を向けた。

!?」
「シリウス、逃げて!」

 偽物のが発した声はが健康なときと同じ鈴の鳴るような声だったが、全く違うものに聞こえた。

「またあなたの記憶を消そうとしてる!」

 疑惑に満ちたシリウスの目が本物のを見た。その隙に偽物が杖を取り出そうとするのをジェームズたちは見逃さなかった。

「エクスペリアームス!!」

 ジェームズと、そしてリリーの声が重なり赤い閃光が偽物にぶつかると同時に、シリウスの体を青い閃光が吹き飛ばしていた。

「ホグワーツの生徒の中じゃこれ以上ない武装解除だね」

 ルナが呑気な声で言った。

「気を失ってる……このまま放っておいてもいいけど」
「医務室に連れて行って、あのカードと一緒にスラグホーン先生に報告しましょう。カードを処分しようとしてまた何か起こっても困るし……こんなことがもう起きないようにしないと」

 ジェームズはを見た。杖を下ろした彼女は青ざめた顔で吹き飛ばされたシリウスに駆け寄っていた。も医務室で休んだ方がよさそうだ。風邪も悪化していそうだし。

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